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島での最期を迎える現実

2018年、春。美江子さんの体調が悪くなった頃に来ていたボラバイトの方から指摘されたことで、僕の心が死にかけたことを思い返す。普段なら反応していたかもしれないことを、僕は反応ができていなかったようだ。

管理者という立場以前に、人として、このままでは駄目だと思った。その頃、地域おこし協力隊として、2名が来島。1人は看護師だった。視点の違う看護師が事業所を訪れ、諦めていた僕たちを立ち止まらせてくた。

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美江子さんの最期に、もう一度目指すべき姿を目指せる機会を求めていたように思う。僕は、僕らは決して、人の命を軽んじてはいない。生きた時間、お付き合いをさせて頂いた時間も含めて。それは強く伝えたいことでもある。

美江子さんの病状の変化と、出会った人々とのタイミング。偶然が重なり、最後にもう一度、宝島で頑張るためのきっかけだったのかもしれない。

美江子さんの胃瘻造設、急性腎不全…諦めムードもあった中、「もう一度、一緒に頑張らせてほしい。」ご自宅でご家族にそれを伝えたとき、無意識に美江子さんへの感謝の気持ちを口にしていた。僕の目からは涙が溢れていた。

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重ねなれる話し合い

あつ子さんを中心に、家族とも話をしてきた。事業所の立ち上げから、一緒に支えさせてもらってきた美江子さんだ。事業所を一緒に創ってきた美江子さんでもある。役場も含めて、何度も話し合いの場が設けられた。

美江子さんを宝島で看とりたい。家族の意向も固まってきた。当然、家族も揺れながら。その想いに応えようと、応えたいと。数年前に来島して講演を頂いた森田医師にも相談させてもらった。何とか、どうにかしたかった。

島で最期を迎える。

「昔は、島で看取っていたけど…。」そんな声は聞こえるが、単純なことじゃない。当たり前の暮らしの延長線上に、当たり前にそれがない。家族が島で看とることを覚悟してなお、多くのハードルがあった。

地域の反応も気にしていた。また当時、診療所看護師は、島での看取りに対して消極的だった印象だ。当然、たくさんの経験をしてきた医療職、島唯一の看護師だからこその判断でもある。

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