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思い出のウッドデッキと、老いた牛の話

2013年、春。この年から事業所で野菜の苗を作って地域の方に、プレゼントすることを始めた。これまで培って来られた知識で、地域に還元してもらって、ポジティブな循環を。そういう想いが根っこにあった。

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この取り組みは、良い方向に向いた。配った野菜の苗の収穫時期には、それぞれの家庭から野菜が届く。僕は、後にこの仕組みを「野菜の里親制度」と呼んだ。あえて付け加えさせて貰えば、苗が同じだから、還ってくる野菜も同じ。たびたび、「きゅうりパニック」「カボチャパニック」に見舞われた。でも、フェリーの入港ができない時期にはとても有り難かった。

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竜光さんとの思い出のウッドデッキ

事業所の庭にウッドデッキが設置された。このウッドデッキには、たくさんの思い出がある。その思い出は、デッキの建築前から始まっている。運営推進会議で話し合われた結果、地域の有志の方と一緒に作ることができた。

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中心を担ってくれた竜光さんは大工の棟梁で、宝島の家をいくつも建ててきた。「これとあれは、竜光さんが建てた。こっちのは、うちの父ちゃん。」シマさんと散歩に出かけるとそんな話をしてくれた。

「もう若いのでやらんかよ。」ウッドデッキの設計をお願いしに行った時の竜光さんの言葉を思い出す。なかなかすんなり了承はもらえず、何度もご自宅に通った。「これは、事業所のタメだけでなく、地域の事業所のためだ」と思いながら。その中で、予算の見積もりから、色々と教えて頂いた。関わることは、学ぶことだ。

実は、竜光さんと前功さんは、昔からの師弟関係だった。そして、岩義さんは左官職人で、昔からの付き合いの中でウッドデッキが作り上げられて行く。利用者と地域の人の垣根もなくなって行く。いや、もともとそんな物なくて、僕が勝手に感じてたんだろうとすら、今は思う。

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そして、このウッドデッキができた数年後、竜光さんがなくなった。このウッドデッキが、竜光さんの宝島での遺作となった。竜光さんが亡くなられてから、ちょっとした家の改修や修理、島の人が頼める人が少なくなった。「竜光さんが元気だったらね。」そんな話を聞くたびに、「もう若いのでやらんかよ。」って、言われたことを思い出した。

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岩義さんとスミ子さんと、自慢の牛

ふとした時に、岩義さんが以前養っていた自慢の牛の話になった。いつも夫婦2人で、耕運機に乗り、餌をやりに通ったそうだ。そんな話から、後継者の隆志さんに譲った牛を見に行くことになった。

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この時、岩義さんは普段歩かれる以上の距離を歩かれた。思いがあって、身体は動く。養う時には笛を吹いて、来たことを知らせていたそうだ。その笛を岩義さんが一生懸命に何度も何度も吹いた。

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実に数年ぶりの再会で、「牛も覚えてないだろう」と、島の人の話だった。僕もさすがに、牛も気がつかないだろうと思っていた。

でも、奇跡が起こる。すると、遠くから一頭の牛が近づいて来た。

「これじゃない。こんな痩せてなかった。」

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老いた自慢の牛の姿を見ても、それを受け入れられない岩義さんがいた。でも、ずっとその牛は、夫婦の前から動かなかった。「何も(餌を)持ってこんじゃった、かわいそうになぁ。」スミ子さんの言葉が耳に残る。

美江子さんのヤキモチ

宝島、小宝島には「やきもち」という伝統菓子がある。あつ子さんに「母ちゃんのヤキモチ、食べたいよ。」から始まった美江子さんのヤキモチ、この頃焼き始めていたみたいだ。きっかけは小さなこと。でもそこから動き出すこともある。そのことはまたの機会に書く。

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