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セレンディピティをもとめて

セレンディピティ・・・果たしてこの言葉は一般的なのかどうなのか。ある程度市民権を得たような気がする語でも説明がなければ通じなかったり、あるいは自分がまわりの会話に出てくる語を知らずについて行けなくなったり、そんなことはわりとある。

おなじ日本語話者であっても世代や文化・経済的コミュニティで限定的に使われるにとどまっている用語はかなりあって。不慣れな土地の方言とおなじで、予期せずそうした語に出くわすと誤解が発生したり、気の利く人から説明があっても慣れないことにはどうにも使いこなせない。

とどのつまり限定的な使われ方をしている言葉は要注意なのだけど、セレンディピティってそんな言葉のような気がして、わたしはいつも別の言葉を探していた。

そんな言葉が全面に出た、というかそのものをタイトルにした展覧会が開催された。気になっていた言葉が市民権を得たようで、これは行かなくてはと思った。というわけで、今回は久しぶりの展覧会報告。

出かけたのは恵比寿ガーデンプレイスにある東京都写真美術館、通称TOP。展覧会名は「TOPコレクション セレンディピティ 日常のなかの予期せぬ素敵な発見」。会期終了直前の金曜日に、仕事を終えてから足を運んだ。

セレンディピティで思い出すのは外山滋比古著『乱読のセレンディピティ』。

わたしは敢えて読書家だとは言わないけど、本は好きなのでいつも何かしらの本を持ち歩き暇を見つけては読んでいる。しかしなめるようにさっと読んだり、飛ばし読みをしたり、いわゆる速読をしたりというのが多い。だいたいいつも複数の本を並行して読み進めている。すべてをじっくり真剣に読みこんでいる読書家のみなさんには、とても顔向けできるような読み方をしていない。乱読である。

そんな乱読を真っ向から肯定してくれたのが『乱読のセレンディピティ』だった。この本にあるセレンディピティの説明を引用しておく。

 辞書を見ると
 セレンディピティ(serendipity)思いがけないことを発見する能力。とくに科学分野で失敗が思わぬ大発見につながったときに使われる。セレンディピティ。[おとぎ話 The Three Princes of Serendipの主人公がこの能力をもっていることから。イギリスの作家H・ウォルポールの造語](大辞林)とある。ていねいな説明である。
     〔中略〕
 セレンディップというのは、のちのセイロンのことであり、いまはスリランカと呼ばれる国のこと。イギリスにとっては遠い東洋の国、不思議なことのおこる舞台としてはうってつけだった。
 科学者に好まれることばが、作家のこしらえたものであるというところがおもしろい。

外山滋比古『乱読のセレンディピティ』(2016年、扶桑社)より

東京都写真美術館は3つのフロアでそれぞれ別の展示がされていて、セレンディピティ展は3階だった。会場に着いてからほかのフロアの企画展を知り、あわせて2階の展示も観ることにした。1階の展示は時間的に厳しかったので断念。

ちなみに2階の展示は本橋成一とロベール・ドアノー。ドアノーはこの美術館の入口に大きく引き伸ばしたものが掲げられている作品(本noteの見出し画像)が有名だ。

いつだったかBunkamuraで音楽をテーマにしたドアノー作品の展覧会があって、それは見逃していたんだった。ということを思い出し、めぐりあわせがセレンディピティ的ではないか、というわけでこちらも観ることにした次第。本橋&ドアノー展の感想はまた後日に。

外山書籍では、自然科学と相性の良いセレンディピティは歴史学的な方法をとる人文系の学問にはおこる場がないとの葛藤が吐露されていた。しかしそれを可能にするものこそ乱読なのではないかとの考えだった。

芸術分野はまた違った解釈なのだろう。TOPで配布されていたゆる〜い『東京都写真美術館ニュース別冊ニァイズ』には以下のようなコマがあった。

東京都写真美術館ニュース別冊ニァイズvol.00000147より

ゆる〜い出版物だからゆる〜く説明しているのはわかる。にしても“大発見”が“癒し”とはゆるすぎないか。いや逆か。現代美術の文脈だと個人的な“癒し”ですら時として大発見たり得るということなのかもしれない。とくに写真芸術となるとその応用範囲は限定的だから、表現者の内面に向くのだろうか。

わたしはいわゆる理系の人間だからか、セレンディピティの影響は個人的なものではなく、歴史に残るような規模という気がしている。パラダイムシフトをもたらすような大発見。アルキメデスの原理とかペニシリンの発見とか、想定外の事態がもたらした発見がのちの科学や医療技術の発展につながるようなスケールの話だ。

外山先生は諷刺文学から児童文学に変容した『ガリバー旅行記』を挙げていた。諷刺につかわれた比喩が時代とともに理解されなくなり、後世の児童文学の範となった。概念が人文学に応用されても、そこには歴史的な影響のおおきさという要素が残っている。

歴史的な影響は後年振り返ってしか評価できない。美術分野では画壇に受け入れられない気鋭の作家がつくった印象派だとか、万博の審査に落選したクールベがやった初の個展なんかが相当するだろうか。すると現代の表現者は、未来予測はできないので、いま現在のインスピレーションにセレンディピティの種を見つけようとしているのかもしれない。

なんだかガリバー旅行記からあと、解釈を無理矢理ひろげてしまった。

自分のもっていたセレンディピティの感覚に戻って、「想定外の展開からの発見」として考えれば、芸術運動ではシュルレアリスムあたりが近そうだ。自動記述オートマティスムこそ、予期せぬ表現がスタートで、その表現に無意識の発露という視点を与えた画期的な思想転換だった。敢えて予期せぬ表現を引き出したという点では、セレンディピティをもとめる活動だったとも言える。

そう考えると、作為的にせよ無作為的にせよ、意外なイメージの取り合わせを提示しているTOPのセレンディピティ展はシュルレアリスムに似たねらいがあるような気がしてきた。観る側も展示をとおして探すセレンディピティ。会場での写真撮影が許可されていたのは、このコンセプトがあったからだろう。

イメージによる予期せぬ連想といえば昨今のAI自動生成画像がある。ふと昨年書いたnoteを思い出した。これもつまるところシュルレアリスム的アプローチとしての表現として考えていたものだ。

さてようやくセレンディピティ展。

「しずかな視線、満たされる時間」
「窓外の風景、またはただそこにあるものを写すということ」
「ふたつの写真を編みなおす」
「作品にまつわるセレンディピティ」の四部構成。

いろんな作家の作品が作家ごとにまとめて飾ってあり、グループ展のような雰囲気があった。キュレーションは美術館側だろうけど、現役作家の作品は本人による意思表明はあったんだろうか。

写真撮影が可能だったので、いくつか気になった展示を紹介しておく。写真撮影可というのは来館者にも参加を促しているということ。わたしもわたしなりにセレンディピティの種を探してみた。

佐内正史〈生きている〉より

日常を写した写真の細部が興味深い。横倒しになった看板の文字、階段に落ちる影の作る階段状のシルエットが形而上絵画を思わせる。

佐内正史〈生きている〉より

ガードレールの柱がタバコに見えてスケール感が狂う。軒下に潜むは小動物か空想の生き物か。日常風景の一角にもダブルイメージがあるのか。こうした視点で散策するのも楽しそうだ。

鈴木のぞみ《柿の木荘2階東の窓》〈Other Days, Other Eyes〉より

実物の窓枠とガラス窓にモノクロの風景。色褪せてしまった記憶を色褪せたまま固定したのか。実物の窓枠というリアルさが虚実について考えさせてくれる。

齋藤陽道《感動》の121点の一部

それぞれ異なる個々の写真も総体としての感動を呼ぶ。このなかの一枚は、わたしが以前やってみようと考えていたアイディアを思い出させてくれた。

中平卓馬〈日常〉より

連想ゲームのような2枚1組の風景写真たち。造形的なつながりも物語的なつながりも想像できて、ちょっと楽しい。なんだか三題噺のネタみたいだ。

エリオット・アーウィット《ニューヨーク市、アメリカ》と《ブジオス、ブラジル》

いろんな脚(足)。解剖学的な差異が際立っていて、観る人の学問的背景によって見えてくるものが違っていそう。スナップ写真でも不意に写り込むいわゆるフォトボムで与えられる気づきってありそうだな、なんて思った。

石川直樹〈Mt. Fuji〉より

冠雪の残り具合は日照条件を反映している。基本的に雲の上に出ている富士の山頂だから、日照条件の違いは細かな地形も反映している。氷河の氷は安定酸素同位体比から過去の環境を推定できるけど、それをマッピングしたらこの富士山の地形みたいな過去の地形を再現できるのではないか・・・なんてことを考えた。

わたしは地形学の研究から離れて久しくアップデートできていないけど、誰かそんなことやってないかな。これが未知の情報の解明につながればまさしくセレンディピティだ。あ、それにはわたし自身がやらないとダメなのか?

そして最後にもうひとつ。

畠山直哉《Slow Glass/Tokyo》のシリーズより

窓についた水滴を通して見た東京タワー。水滴ひとつひとつがレンズ効果で東京タワーを映しているのがおもしろい。

上の作品のクローズアップ。水滴ひとつひとつに逆さまの東京タワーが見えている。

この東京タワーの写真は、わたしの専門分野の宝石鑑別を連想させてくれた。

宝石には液体のインクルージョンを含むものが多い。反対側に画像を置いてそのインクルージョン越しに見たらいったい何が見えるだろう。もしも何かが見えたらその見え方によって何かわかるだろうか。液体インクルージョンの密度?物質の組成?結晶の晶出条件?あるいは処理の有無?

インクルージョン越しの情報が、鑑別上なんらかの手かがりになるとしたら、これもまたこの展覧会からわたしが得たセレンディピティと言えそうだ。

ちなみにこの液相インクルージョン、スリランカ産のサファイアによく見られる。上に引用していたとおりスリランカはかつてセレンディップと呼ばれた。セレンディピティの語の由来でもある。この事実もまたセレンディピティ的だ。

展示空間と展示内容から来館者にインスピレーションを与え、セレンディピティを誘発しよう、そんなコンセプトを感じたTOPのセレンディピティ展。だから今回はなるべく気の赴くままにつらつらとnoteを書いた。

後々これってやっぱりセレンディピティと呼んでもいいのかも、と思えるなにかがあった気がするし、そうであれば嬉しい。あ、この「嬉しい」自体が、きっと主催者のセンスでは既にセレンディピティなのだ。そうするともうこの展覧会の仕掛けが成功しているということになる。

わたしが足を運ぶ展覧会は絵画展が多い。それも具象絵画が多い。写真展はあまり多くない。さまざまなジャンルの美術展を概観するのは“乱読”ならぬ“乱観”とでも呼べるだろうか。「乱読のセレンディピティ」があるのだから「乱観のセレンディピティ」もあっても良い。そうするともっと良い気づきがあるかもしれない。

それと言霊信仰みたいだけれど、セレンディピティという語の普及を信じて、ふだんもうちょっと使ってみることにしよう。セレンディピティ遭遇率が上がるかもしれないから。

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