価値観としての優しさを育てる

「優しい」とは、弱い言葉だ。あまりにも汎用的に使われ過ぎて、価値が下がってしまったデフレワードだ。

「優しい」という言葉にあなたはどんな印象を持ちますか?何を、誰を思い浮かべますか?
僕の場合は大切な友人や、仕事の師匠からもらった言葉、自分を育ててくれた言葉達、がよぎる。

「優しい」、その一言で多くの人は「優しい」とは何かをイメージできるだろう。
似た言葉に言い換えるならば愛、情け、思いやり、癒し、などだろうか。
感覚的な解釈になるが、優しさという言葉の示すベクトルを共通認識として持てたとしても、言葉に対する認識、解釈の幅は大きくブレる。人の数だけ。例えば強い優しさ、弱い優しさというように、頭につける形容詞を変えるだけでも色彩が変わる。

様々な角度から見つめることが出来るこの言葉に対して、一つの視点として、あえて乱暴に決めつけよう。

「優しい」とは弱い言葉だ。大事であるように見せかけながら、あまりにも汎用的過ぎて、使われ過ぎて価値が下がってしまった、デフレワードだ。

例えば男女の関係において(どうでも)いい人どまりな人、がいるように、優しい(だけの)人どまりの人が大勢いるのだ。

弱い言葉になってしまったからこそ、僕はこのシンプルな言葉の存在意義を昇華させたい。

 
ただの弱さから弱い優しさへ、言葉を飲み込んで考え抜くことの価値

10年以上前に、ある言葉をもらった。圧倒的に深々と突き刺さっている一つの言葉だ。
言葉と、その言葉に至るやり取りだけを取り出すと、思い出すのも喋るのも恥ずかしい。本当に。

「うちはゴミ箱ちゃうねん」

文字に起こすと10文字程度。それだけの言葉が、10年以上も生きている。

大学のサークル仲間から言われた言葉。その時の環境、周りに不満だらけの自分が、話を聞いてくれる女性に愚痴りまくっていた時に言われた言葉だ。
言われた瞬間真っ青になった。「怒らせたかなあ、怖っ。うっわー、恥ずかし」という言葉が瞬時によぎって、体温が下がるのを感じた。

「そっか、愚痴ってゴミなんや。自分が吐き出すゴミ。ゴミを投げつけて、かっこ悪い男やし、優しくない。愚痴ると怒られる。愚痴ると嫌われる。愚痴るとかっこ悪い。愚痴るとモテない。」

言葉を受け取って、15秒、くらい、で、気づいてしまった。

それから、愚痴ると後悔の声が聞こえるようになた。

「ゴミを人に投げつけんなアホ。あー、やっちまった」

声が聞こえると次に何をするようになるか?言い方に気をつけるようになる。自分の感情をぶつけない。他人への嫉妬とか、自分への同情とか、感じさせないように。話し方が超客観的になる、ある意味他人事、本気でそう思っているの?と問われるようになる。若干感性も鈍くなる。でも、ゴミを投げつける事は減った。

代わりに、追い込まれることが増えた。人がいいからなのか、求められると応えたくなる性格だからなのか、消化できないことが増えた。自分の中に否定ワードが積まれていく。自分からは後悔が、周りからは要求と不満が。
負債感が積み上げられていく、出口が見つからない。しんどい。

大学時代に一番の友人がいた。大学の近くに下宿していた友人の家に入り浸って話し込むことが楽しい時間だった。段ボールからビールを取り出し、冷蔵庫に入れる。すき家のおろしポン酢牛丼をつまみにして、飲んで、話し込んでいた。試験の前日にガストへ勉強しに行き、いきなりビールを注文したのはいい思い出だ。試験結果は触れないでおこう。

出口が見つからない時に、その友人がくれた言葉がある。

「お前さ、ずば抜けて優しいよね、自分が言いたくなった言葉を相手がどう受け取るかを想像できるじゃろ。言いたいことを飲み込める人は少ないんだって。聖母マリアか、お前くらいじゃけえ。」

関西に来て4年経っても広島弁を貫く友人は言ってくれた。

「お前の優しさって、多分しんどいじゃろ。考え続けても答えが出んときよくあるから。じゃけえ、お前がそれだけ考えて、ひねり出した答えって、間違ってないけーね。たとえやったことが失敗でも、周りを傷付けたとしても。お前が考えた末の結果なら仕方ないって」

この言葉が背中を押してくれた。この言葉は本当に効いた。だって、間違ってないって言ってくれるのだから。徹底的に考え抜くことが条件だけど、楽ではないけど、大したことじゃない。迷っても、しんどくても、考え抜きさえすれば、前に進めるんだって。

弱い優しさから強い優しさへ、本当に守らなければならないものに気づく

厄介な上司がいた。今は流石に懐かしい思い出に変わったが、ちっさいおじさん上司にネチネチ詰め詰めされていた時期がある。言い返すと余計めんどくさい事になり、何も言い返せなかった。精神的に追い込まれていた。

一つ覚えているのは僕が気をまわして仕事のフォローをした時があったが、フォローしたが故に説教詰めされた時がある。理解できずに言い返すと、「キレたよね。今キレたよねえ。」って楽しそうに嫌らしく言ってくる。「俺の目の前から消えてくれ」って思った。もちろんゴミは自分の中にしまいこんだ。

そんな中、当時の社長が心配して飲みに連れて行ってくれた。銀座6丁目、会社の近くのパブ。ビールの味は薄かった。
厄介な上司との難しさを話した。社長も手を焼いていたらしく、一定の理解は示してくれたのち、問いかけられた。

「あいつに癖があるのはわかるけど。抱えて黙っちゃうのなんでだ?思ってること、知ってること、持ってる情報を伝えないと、仕事も進まなくなってストレスも溜まるだろ」

確かに、その通り。理由を考えるが答えが出てこない。しばらく黙り込んだのちに「自分を出すのが怖いから?ですかね」という言葉が出てきた。

「なんでだろうね」と、社長も考えてくれた。しばらく問答としてのキャッチボールをした後に、思いもよらないどストレートな言葉が飛んできた。

「何を守っているんだ?」

飛んできたストレートを、真っ正面から受け止めた。が、すぐに投げ返すことができなかった。

「本当に相手のことを考えているのか?」

次のストレートが飛んできた。さっきより速い。正面から受け止めることができなかった。転がったボールを拾い上げた時、答えが見えた。でも投げ返すことができない。言葉を飲み込むことで自分を守っているだけで、本当の意味で相手のことを考えていないんじゃないか?という強烈な自己否定の言葉が、ボールには込められていた。自分の行動の根っこに気がついた。

「きっと、自分を出すのが怖いのは、お前の中でその能力が2歳児で止まっているだけだ。」

今度は変化球が来た。自分を成長させて、そこそこ出来ることを増やしてきたと思っていた自分に、違う角度からボールが飛んできた。出せる言葉が無い。沈黙を続ける僕に対して、ふんわりと、受け取りやすいボールを投げてくれた。

「まあ、自分を出す力が2歳児で止まってるだけだ。それが全てじゃないし、お前が俺より先を行っているものもある。たまたま出遅れているだけだ。出遅れているなら、追いつけば良いじゃないか。今気づいたんだから。他の人に20年遅れているなら、10年かけて追いつけば良い。もしかしたら、3年、5年で追いつけるかもしれない」

受け取ったボールを握りしめて、涙が出そうになった。
相手を気遣うのではなく、いつの間にか自分の身を守るために言葉を飲み込んでいたのだ。

価値観としての優しさ、多くの人が大丈夫であるように

「優しい」とは弱い言葉だ。大事であるように見せかけながら、あまりにも汎用的過ぎて、使われ過ぎて価値が下がってしまった、デフレワードだ。

デフレワードだが、価値観として持ち続けられるのであれば、壁を超えるための強力な言葉になる。

すなわち、相手にゴミを投げつけないための優しさであり、考え抜くための優しさであり、相手を受け入れて行動に移すための、優しさだ。

優しさという価値観を自分を支える武器にして、壁を超えてきたつもりだ。それでも、今もまた壁にぶち当たっている。人間社会というものは本当に厄介だ。誰かの数年間の人生を左右するような意思決定に関わることもある。

自分の力に限界を感じる。それでも、優しさを次のフェーズに昇華させる必要があるんだ。手が届く限り、多くの人が大丈夫であるように、運命のコンパスを少しでも良い方向に向けられるように、動き続けたいんだ。

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