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社会の分裂と知性

進む社会の分裂

 日本で今起きていることとは何だろうか。当たり前のことだが、本当に様々なことが、様々なレイヤーで日々起きている。当たり前のように日々が過ぎていっているということは厳然たる事実である。一方、社会を俯瞰で見ても、同じように様々なことが起きているという事実は観察できるが、もう1つ言えることがありそうだ。それが「社会の分裂」である。こういう文脈の時、「分断」という言葉が使われることが多いが、あえて分裂と表現したい。
 分断ではなく分裂であることの意味は、分断という表現にはまるでコミュニティαをコミュニティAとコミュニティBに第三者視点から断ち切っている印象を持つし、AとBには到底埋まることのない溝があるように感じられる。即ち、本来AとBが統合された状態としての「社会」が正常であるという前提に基づいた表現であるからだ。
 ここでコミュニティAとBへの分裂と表現するのはコミュニティそれぞれに異なった作動原理が存在しているという仮説に基づいている。例えば、階級による社会の分裂を考えた時、それは異なるバックグラウンドという前提があり、その上に思考・価値観が乗っかっているということは、価値判断基準は当然異なるー大学進学を当然と考えるか、ぜいたく品だと考えるかー。ゆえに全体社会として何かしらの判断を下す必要がある場合、それは左派・右派という中カテゴリからさらに、ラディカルさなどで小カテゴリ化する。
 それはまるで、細胞が分裂するのと同じように、αという総体がAやBという小単位のものに完全に分かれているというよりも、αという総体の中にA1やB2という総体の構成要素が増えたと考えることである。それによって全体社会自体に変化が生まれるわけではなく、全体社会の質量が増加するということである。
 そして、この「分裂」は今後しばらくは続くであろうし、加速するだろう。人が集団(コミュニティ)を形成し、その集団が保つ特性が極化する方向に強化される仕組みは整われ続けている。SNSを使うことを辞めない限り。人々はより、似た境遇、似た思想で集団形成する。異質な他者に対する防衛機制は強化される。
 残念ながら、その状態で理性的な討議が可能なほど人間は理性的ではない。細微に分解された集団間のコンフリクトは、集団と自己の親和性が高いがゆえに感情的なリアクションを誘発し、どちらかに正しさが仮にあったとしても、観察者には見苦しい、泥沼化を招く。
 しばらくと表現したのは、分裂の進行と同時に、別の機能も働いているからであり、それは分裂と正反対の「統一」を指向する原理である。中国共産党はコロナによる社会不安を上手く利用することに成功した。一党独裁体制の強みを最大限発揮し、国家がその強大な力で国民を指導し、一貫してコロナと対峙している。そうした姿は、自由主義国の危機下のリーダーシップに疑問符を投げかけることに成功した。海外に出ていた若い中国人は帰国し、中国共産党へ入党した。そうした分裂の副作用を上手く利用できたケースであろう。分裂は集団内にいる分には居心地が良いだろうが、分裂が許容される限り、統一されたリーダーシップの影響力は制限される。分裂を許容することはパワーの分散を意味する。

分裂自体は悪ではない

 では、分裂をどこまで許容するべきか。しかしながらこの問いはナンセンスである。分裂は集団内の意志によって発生するものであり、それをここからここまでと規定することは不可能であるからである。ここで考えるべきは、分裂の許容ではなく、分裂による集団の歪みをどうするかである。
 顕著な例は昨今日本の鉄道で起きた事件である。特定のカテゴリの人に対する歪んだ認知(若い女性=自分より人生を謳歌している。など)によって犯罪を引き起こすことがある。性暴力にも似た構造を見ることができるだろう。性犯罪者の中には自身の行為によって被害者の快楽を解放していると認知していると言う。
 こうした、偏見を助長する分裂によって生じた歪みをどう社会は定義するべきだろうか。認知のバグであるという考え方は1つあるだろう。その場合、バグと一方的にレッテル貼りをする集団とそのレッテルを貼られる集団に分かれる。しかし残念なことに、もはや一方的なレッテル貼りによる「正義」に期待することはできないと思う。社会は小児性愛を否定する。小児性愛者に「異常者・変人」のレッテルを貼り、(全体)社会から隔絶しようと試みる。一方、その「愛」の対象が同性に変化すると守られるべき権利を有するマイノリティとなる。フェミニストらの強い推進によって成立したAV新法は出演者を守る仕組みのはずが、出演者の仕事は減少したばかりかセックスワークの根絶に推進側の力がかかり始めている。
 結局、多数派の庇護を勝ち取る事ができれば、ある意味で正常でなくとも存在することが認められるが、その枠から出れば異常者の扱いを受ける。どんなに綺麗なことを言っても、常に人は(全体)社会という実態のないようである不思議な存在に自己の存在価値を認められようとしている。認められると同時に、それを認めない集団は異常者として排斥が進められる。
 これは分裂の許容度の話ではない。分裂自体の問題ではない。人間が、最終的な存在価値を全体社会による庇護に委ねてしまっている現状に問題がある。つまり、この点においてすでに現在起きている分裂は解決策になり得ていないということである。つまり、(統一された)社会への憧れを捨てきることができていないということだ。

相対主義の末に待つもの

 これは短絡的には、ポストモダンのもたらした結果と言えるだろう。しかし、短絡的にはである。近代は全体主義の生みだしたヒトラーへの反省で終わり、ポストモダンへと移行した。全体主義への反動はすべてを許容しようとする。相対主義を生みだし、明確な善悪も規定しないまま、全てが存在し得た。例え、共通善の探究がテーマにあったとしてもだ。今、その相対主義への絶対的な批判とポストモダンを「ポスト化」する思想が現代思想には求められているはずだが、未だ有力な解になり得る思想は芽吹いていないように思う。
 このまま何も起きずに進めば、再び全体主義のようなもの、全体主義2.0に吸収される可能性は十分にあるだろう。神話の崩壊は個人を「ありのまま」へ解放することに成功したものの、やはり神話なしに生きることに不安を感じているのだろう。米国や欧州で極右政党が伸びているのはその証左ではないだろうか。彼らは右だが。

知性への回帰

 そこで、ポストモダンからポストモダン以後への移行期、全体主義2.0の勃興を目の当たりにしている今、同時に知性主義を蘇らせることにも成功した、しかけているのではないだろうか。この知性主義2.0は知へのアクセスという点で知性主義1.0を遥かに凌駕する。一応だが、これは俗的な「知性」とは明らかに違う。彼らの主張する知性は知性ではなく、資本主義的な合理性の上に、論理的思考力、仮説の検証能力の土壌となる知的探究心を「教養」というなの詰め込み型の情報で太刀打ちしようとする試みであり、これは知性というベールを被った反知性主義だ。
 ここで言う知性はいわば知的探究心、万物への好奇心に近い。今これを目にしている、その端末がどう動いているのか、どう機能しているのか、我々は説明することができなくなった。背後にある仕組みが分からずともやりたいことを実現することができる。再び社会は魔術化し始めている。魔術化自体は特に有害ではないだろう。しかしながら、魔術化によって引き起こされる知性への堕落を知性主義2.0は食い止めるミッションを担っていると言っても過言ではない。再び宗教世界を作ることは明確な意図を持って防ぐべきである。そうした魔術化の進行を単に食い止めるのではなく、この世界の仕組み、社会のあり方、個々人がどう生きるかを思考するための環境構築が必要だ。そしてそれは、資本主義によって加速する可処分時間の奪い合いを脱構築する必要がある。

対症療法としての排斥

 こうして言ってみたものの、即効性のあるものではない。今起きていることを「観察」できる領域はごくわずかで、その下には様々なことが表象化する前の事象として起きているはずである。そしてすでに水面下で様々なことが進行しているということもまた事実であろう。現に、つい最近まで持て囃されていたグローバリズムはロシアによるウクライナ侵攻というグローバリズムの根幹を揺るがし、人々に再び国境線の存在を知らしめた。世界中で今、再び国家を強く認識する動きが進んでいる(少なくとも南北の北側諸国)。米国は一個人の権利が法によって規定され、保護されるものであることを中絶の違憲判断で知らしめた。これらの要素が現在進行形でどんなイデオロギーを形成し、社会に、世界に表象するかは未来が過去になった時、未来人が評価を下すだろう。
 しかし、今できることはそうした行き過ぎた相対主義にNOを突きつけることである。それは即ち、自分の集団を守るための排斥である。分裂を誘発することである。分断を自己規定することにより分裂になり、その分裂は自他を区別することである。分裂によってコンフォートゾーンを明らかにし、相互不干渉とすべきである。少なくとも今取り得る最善の選択は集団からの排斥だ。
 排斥ではなく「対話」と半ば顔を赤らめながら思った人もいるだろう。もしそうならばすでに僕との対話は破綻している。なぜなら僕は未だ排斥の語義を明らかにしていない。「対話」を声高に主張する人々のやっかいなところはここにある。話を聞くようで全く聞かず、相手が興奮するとまるで向こうが一方的に怒り出したかの口ぶりで主張をすることがあるのだ。対話の難しさはここにある。対話には、双方が面と向かって話をしたい、話す用意があるという暗黙の前提を必要とする。安全保障や外交の文脈での「対話」がある程度成立する前提はこうした、軍事・貿易・交流などのハード/ソフトパワーによって対話の席に着くことの必要性あるいは義務性が一定程度担保することができるからだ。
 と、脊髄反射的に「対話」を主張することを牽制した上で排斥について定義をしていきたい。排斥とは英語で"ostracism"であり、古代ギリシャのオストラシズムがその語源で、国家に害を与える人物を裁判ではなく市民の投票によって追放する制度である。即ち、ある集団にとって集団の利益に害する人物を集団外へ出すことを排斥という。
 ここでいう排斥はこの排外的な文脈の前提として「利害対立の解決/改善のための対話の余地と拒絶権、存続の保障」の3点を置きたい。以下で順に説明する。
 1つ目の「利害対立の解決/改善のための対話の余地」とは、その名の通り、排斥以前/以後一貫して対話の余地は残すべきであるという意味である。分裂は自然的、自発的、作為的に発生し、当然排斥による分裂も起こり得る。一度排斥による分裂が生じても、その後に再度結合する余地は排斥した側も、排斥された側もどちらかに結合の意思がある場合は対話の窓は開くべきということである。しかしながら、いじめられた人がいじめの加害者との対話を拒絶する、プロポーズを断った人との対話の窓を閉じるなど、対話の余地を未来に確保するために一定期間遮断することが必要なケースもあり、これを「向こうが対話を拒否する」という言説に利用されることがないよう、「拒絶権」も担保したい。
 「拒絶権」は一方からの対話の要請、集団内における異常行動などに対し、拒絶を保障するための権利である。例えば、特定のアイドルのファン集団(コミュニティ)内にそのアイドルについて常に激しく批判する人がいたとする。まずは、前述の「利害対立の解決/改善のための対話」によって自主的な集団からの分裂や、行動を改めることを集団は求め、同時に当人の言い分を聞く義務を履行する必要があるが、平行線が続き、当人の言動や行動による苦痛が与えられ続けている場合にはそれを拒絶する権利を行使することで当人を排斥することを可能とする。当然、権利行使によるコンフリクトが生じるが、利害対立の解決/改善のための対話に再帰する。
 また、排斥以降は干渉しないという態度も必要である。近年のラディカル・フェミニズムやキャンセルカルチャーに見られるのは、単に批判し、賛同者と議論するだけでなく、徹底的に公共空間から排除することを推進する傾向にある点である。無論、公共空間に有害(特定の集団が苦痛を受けるなど)なものを放置することは良いことではないが、それは排斥を可能としないことが原因にある。即ち、前述の例で言えば、現状の社会は特定のアイドルのファンとそのアンチを同じ部屋にいることを事実上強制しているからである。
 そこで、排斥後も双方が存続する権利を保障することによって対話への再帰性を担保すると同時に、排斥の持つ有害性を排除することを目指す。これにより、排斥自体の悪意をなくし、より共通善(common good)のための排斥を理論上可能にすることを目指す。

排斥の実践のために

 対症療法として排斥を提唱した以上、実践への道すじをある程度示すのが筋だろう。実践にあたって、最も求められるのは個々人の知性である。つまり、対症療法の効果的な実践のためには知性への回帰を必要とし、知性への回帰は次代の思想への開きを構築する。排斥は知性によって、高次元での自己の認知を要求する。排斥の有害性の排除については前項で言及したが、それでも排斥は高次の判断を必要とし、それにはまず、排斥を行使しようとする者のメタレベルでの自己認知によって排斥という意思決定に至るまでのプロセスを論理的に説明可能にすることを求める。これができない以上は排斥を無闇矢鱈に行使を試みるべきではない。
 しかしながら、少なくとも日本において、そういった自己との対話、他者との対話や理性的討議のための教育的訓練の機会はそう多くないのが現状である。均一化に徹底した教育システムの1つの結果であるが、同時にこの実践へのハードルを必要以上に上げている。
 それでも言えることは、自己との徹底的な対話であろう。それによってのみ、自らの進むべき道は開かれるし、必要以上に他者に助言を求め、自己の意思決定と助言が混同されるような自体は避けるべきである。最初から全て思い通りにいくわけがないのだから、まずは意識的な行動とそれによるフィードバックを次に活かしていけばよいのだろう。次回はこの「分裂理論」に自己批判をしながら、理論の精緻化を目指す。

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