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エッセイ / 前世と来世を信じるシンプルで論理的な理由

私は少し前から、前世と来世の存在を信じるようになった。

これからその理由について話すが、決してスピリチュアルな話ではなく、いたってシンプルで論理的な話なので、前世や来世を信じない人たちも、ぜひ安心して耳を傾けてほしい。

では、私は自分の前世がなんだったと考えているか。それは、母が口にした食べ物であり、その食べ物を育てた太陽や雨、土などの自然、農家の人々だ。そしてもちろん、私の父と母を育んだすべての人々や自然も。

そう思い至った理由はシンプルで、「誕生日の以前、私はどこにいたのだろう」と考えてみたからである。

誕生日以前の私は、母のお腹のなかにいた。父の精子と母の卵子が出会って受精卵となり、その後は母が口にする食べ物から栄養をもらい、私は私になった。そう考えれば、例えば母が口にしたハンバーグが、私の一部になった──つまり、私の前世はハンバーグ、さらに言えばハンバーグの原料である牛、小麦、卵であったと言えるんじゃないかと思うのだ。もちろんハンバーグに限らず、母が口にした様々な食べ物、そしてその食べ物を育んだすべても、私の一部──つまり私の前世であると言えると思う。

これは私の勝手な思いつきではなく、仏教でも言われていることだ。世界的に有名な仏教者・ティク・ナット・ハン師の『死もなく、怖れもなく』という本に、こんな一節がある。

「あなたはいまいくつですか。そしていつ生まれたのですか」と雲に訊ねて、耳を澄まして聞いていると、雲の返事が聞こえるかもしれない。……雲は生まれる前には、大きな海の水だった。もしかしたら、川かもしれないが、そこから雲は蒸気になった。雲は太陽でもあった。太陽が蒸気をつくるから。風だったかもしれない。水が雲になるのを助けたのは、風だから。雲は無から生まれたのではない。かたちが変化しただけで、何もないところから、何かが生まれたのではない。

引用:ティク・ナット・ハン『死もなく、怖れもなく』

同じように考えていくと、来世も存在することがわかる。

私が死んで荼毘に付されたら、私は灰になる。その灰が土に撒かれたら、花や樹木、野菜の栄養になる。そう考えれば、私は死後、つまり来世で、花や樹木や野菜になったと言えるんじゃないか。

やがて雲は雨や雪や氷に変わっていくだろう。もしあなたが雨をじっくりと見つめてみたら、雲が見えるはずだ。雲が消えたのではなくて、雲は雨に変わり、雨は草に変わり、草は牛に変わり、それからミルクに変わって、あなたが食べるアイスクリームに変わった。……アイスクリームのなかに、海も川も、熱さも太陽も、草も牛も見ることができる。

引用:同上

私の言う前世と来世は、世間一般的なイメージとは大きく異なるかもしれない。一般的なイメージは例えば、私の前世は古代ローマ時代のある国の王様の妻だった、とかそういう話だろう。(ちなみにこれは、むかし私が占い師から告げられた私の前世だ。笑)

まあ、「私が私として生まれる以前、私はどこにいたか?」という問いを遡りつづけていくと、古代ローマまでも(というかどこまででも)遡れるし、私は古代ローマ時代の人でもあった、とも言えるとも思う。そういう意味で、占い師が伝える前世も、間違ってはいないのかもしれない。

仏教では、「人間の本質は、不生不滅だ」と言われる。つまり、なにひとつ新しく生まれも、消滅もしない、ということだ。私たちはただ、形を変えて循環しているのであって、生まれも消滅もしていないということだ。

私たちが死を怖れるのは、この世に実際に消滅するものなどないということを理解していないためだ。ブッダは死んだといわれるが、それは真実ではない。ブッダはいまも生きている。まわりを見渡してみると、いろんなかたちでブッダが見えるはずだ。ブッダはあなたのなかにいる。あなたは事物の深層を深く観てきて、本当の意味で生まれるものも死ぬものもないことを知っているからだ。

出典:同上

ティク・ナット・ハン師いわく、「怖れなきことこそが真の幸福の基礎だ。怖れがあるかぎり、私たちは完全に幸福になることができない」という。

前世と来世がある、すべてのものは形を変えて循環している、そんな風に考えることができれば、死への怖れも和らぐ。だから前世と来世を信じられるようになった今、私はそれだけ、幸福に近づくことができたのかもしれない。

(とはいえもし大切な人が死んでしまったら、「たとえ死んでしまっても、彼/彼女は別のものとなって循環しているだけだから大丈夫」なんてキレイに割り切ることはできず、私はひどく悲しむんだろうけど。)

よければ皆さんも、「誕生日の前、自分はどこにいたんだろう?」という問いを味わって、自分の前世に思いを馳せてみてください。もしかしたら、ちょっとだけ幸福に近づけるかもしれません。

まだ三十歳にもとどかない若い友に、私はよくこんなふうに訊ねてみる。「私がベトナムを去った1966年に君はどこにいたかね」彼らはまだこの世に存在していなかったとは答えられない。両親か祖父母のなかのどこかにいたと気づかなければならないからだ。

引用:同上

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