エッセイ / 前世と来世を信じるシンプルで論理的な理由
私は少し前から、前世と来世の存在を信じるようになった。
これからその理由について話すが、決してスピリチュアルな話ではなく、いたってシンプルで論理的な話なので、前世や来世を信じない人たちも、ぜひ安心して耳を傾けてほしい。
では、私は自分の前世がなんだったと考えているか。それは、母が口にした食べ物であり、その食べ物を育てた太陽や雨、土などの自然、農家の人々だ。そしてもちろん、私の父と母を育んだすべての人々や自然も。
そう思い至った理由はシンプルで、「誕生日の以前、私はどこにいたのだろう」と考えてみたからである。
誕生日以前の私は、母のお腹のなかにいた。父の精子と母の卵子が出会って受精卵となり、その後は母が口にする食べ物から栄養をもらい、私は私になった。そう考えれば、例えば母が口にしたハンバーグが、私の一部になった──つまり、私の前世はハンバーグ、さらに言えばハンバーグの原料である牛、小麦、卵であったと言えるんじゃないかと思うのだ。もちろんハンバーグに限らず、母が口にした様々な食べ物、そしてその食べ物を育んだすべても、私の一部──つまり私の前世であると言えると思う。
これは私の勝手な思いつきではなく、仏教でも言われていることだ。世界的に有名な仏教者・ティク・ナット・ハン師の『死もなく、怖れもなく』という本に、こんな一節がある。
同じように考えていくと、来世も存在することがわかる。
私が死んで荼毘に付されたら、私は灰になる。その灰が土に撒かれたら、花や樹木、野菜の栄養になる。そう考えれば、私は死後、つまり来世で、花や樹木や野菜になったと言えるんじゃないか。
私の言う前世と来世は、世間一般的なイメージとは大きく異なるかもしれない。一般的なイメージは例えば、私の前世は古代ローマ時代のある国の王様の妻だった、とかそういう話だろう。(ちなみにこれは、むかし私が占い師から告げられた私の前世だ。笑)
まあ、「私が私として生まれる以前、私はどこにいたか?」という問いを遡りつづけていくと、古代ローマまでも(というかどこまででも)遡れるし、私は古代ローマ時代の人でもあった、とも言えるとも思う。そういう意味で、占い師が伝える前世も、間違ってはいないのかもしれない。
仏教では、「人間の本質は、不生不滅だ」と言われる。つまり、なにひとつ新しく生まれも、消滅もしない、ということだ。私たちはただ、形を変えて循環しているのであって、生まれも消滅もしていないということだ。
ティク・ナット・ハン師いわく、「怖れなきことこそが真の幸福の基礎だ。怖れがあるかぎり、私たちは完全に幸福になることができない」という。
前世と来世がある、すべてのものは形を変えて循環している、そんな風に考えることができれば、死への怖れも和らぐ。だから前世と来世を信じられるようになった今、私はそれだけ、幸福に近づくことができたのかもしれない。
(とはいえもし大切な人が死んでしまったら、「たとえ死んでしまっても、彼/彼女は別のものとなって循環しているだけだから大丈夫」なんてキレイに割り切ることはできず、私はひどく悲しむんだろうけど。)
よければ皆さんも、「誕生日の前、自分はどこにいたんだろう?」という問いを味わって、自分の前世に思いを馳せてみてください。もしかしたら、ちょっとだけ幸福に近づけるかもしれません。
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