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わたしが東京のベンチャーを辞めて非電化工房に弟子入りした理由

表題の記事は、半年以上前に書いて、下書きにしまい込んだままだったものだ。ちょこちょこと書き進め、結局数カ月間かかって書き上げた記事だったと思う。

そんな記事を、当時なぜ公開しなかったのかは思い出せない。もう少し、仕上げの手直しをするつもりだったのかもしれない。けれど今日、たまたま下書きに眠っていたこの記事を発見したので、せっかくだから公開してみようと思う。

当時と今とでは自分の考えも変わっている部分があるので、少しリライトして公開しようとも思ったが、考えが変わっているからこそ、記事に手を加えるのが難しかった。ので、タイミングは謎すぎるが、下書きに眠っていたものをそのまま投稿してみようと思う。以下、2022年2月時点、非電化工房弟子入り中の、当時の私の現在地の記録だ。

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YU-MIと申します。今年の4月に、2年間勤めた東京のベンチャー企業を退職し、栃木県那須郡に移住、「非電化工房」に弟子入りしました。

非電化工房は、「エネルギーとお金を使わなくても得られる豊かさ」を提案するために発明家の藤村靖之氏が作った私設テーマパークです。私は現在、藤村先生のもとで1年間「自給自足の技術」を学ぶ住み込み弟子として、農業と建築を中心に、食品加工から工芸、動物の飼育、水道・電気工事まで様々なことを学んでいます。

このnoteでは、都会で生まれ育ち、車の免許さえ持っていなかった私がなぜ地方の山奥に移住したのか、選んだ移住先がなぜ非電化工房だったのか、といった事柄について、改めて言語化してみたいと思います。

※なぜか「だ・である調」の方が筆の乗りがよかったので、目次以降は唐突に文体が変わります。笑

市場価値で生活の豊かさが決まる?

ひと言で言えば、私を非電化工房へと誘ったのは「人ってもっと安心して生きられないんだっけ?」という単純な疑問である。

非電化工房に来る前は、東京の人材系ベンチャーで働いていた。主な仕事は、就活生のキャリア相談に乗ることだ。可能性溢れる学生の皆さんの奥深くまで立ち入らせてもらうその仕事は、勿論その分責任も大きかったが、本当に有難く幸せな仕事だった。一方で、年間300名超の学生と対話をするなかで、彼らの多くが囚われている不安や固定観念の存在に課題感を持つようにもなった。

それを極限まで単純化すると、以下のような三段論法になる。

・お金がなければ、豊かな暮らしを送ることができない
・お金を稼ぐには、自身の市場価値を高めなければならない
・ゆえに、市場価値を高めなければ、生きてゆけない

「どのような企業に勤めれば/職種に就けば、市場価値を高められますか」。1日に数度は必ず学生から投げかけられる質問だった。

もちろん、社会で求められる技術や能力を磨くのはとても大切なことだ。しかし「そうしなくては生きていけない」という強迫観念に駆られるあまりに自分が本当に大切にしたいものを見失ってしまう人が多いことや、「市場価値格差」とも言える、市場価値を高め得た人とそうでない人で生活の豊かさに大きな差が生まれてしまう社会のあり方には、引っ掛かりを感じていた。

そもそも、市場価値の高さと社会貢献度の高さは必ずしもイコールじゃないのでは――介護士や保育士、農家など、私たちの生活に不可欠な仕事をしてくれている方々の市場価値が決して高いとは言えないことから、そんな疑問も持っていた。それならば尚更、市場価値を軸に生活の豊かさが決まってしまうシステムっておかしい気がする。一度抱えたモヤモヤは、日毎に大きくなっていった。

そうしたモヤモヤの背景には、私自身も市場価値を高められそうにない、という焦りもあったと思う。私は仕事も会社も決して嫌いではなかったけれど、成長意欲は特段強くなかったし、仕事で実績をあげることにもそこまで動機づくことができなかった。そう、私はいわゆる「イケてない社会人」だったのだ。

本当に恥ずかしい話だが、就活生のキャリア相談に乗る立場でありながら、自分は社会不適合者なのでは、これからどうやって生きてゆけばいいんだ、という不安に襲われて思い悩むことも多かった。

「もっと安心して生きられる道」を探す旅

「市場価値を高めなければ、豊かに生きてゆけない」――就活生だけでなく、私の中にも存在していたその不安。でもあるときふと、思ったのだ。

GDP世界第3位の国の、4年制大学に通い得た人々――経済的には地球上で恵まれた上位数%に入るであろう人々がこんなにも不安に苛まれているとしたら、世界は恐ろしいところすぎやしないか。果たして本当に、こんなに不安を感じながら生きなければいけないのか。私のような人間ももう少し安心して、自分の生まれ持った性質を肯定して生きてゆける道はないんだろうか。いや、あるに違いない。あってくれなければ、困る。

そこから私の、「もっと人が(私が)安心して生きるためには、どうしたらいいんだろう?」という問いを探求する旅が始まった。

とはいえ、それは探求した先に答えがあるのかも分からない旅だった。「結局御託を並べて現実から逃げているだけでは?」という自問自答は、何度繰り返したか分からない。やっぱり市場価値を上げることに向き合おう、と思ったのも一度や二度ではない。

それでも必死で本を読み、日本各地を訪ねて模索を続けた。それは大袈裟ではなく、私が生きる希望を取り戻すための切実な道のりだった。

わかってきた色々なこと

模索を続けるなかで、いろいろなことが少しずつわかってきた。

「市場価値」とはつまり金銭換算されやすい価値(=経済的価値)のことで、そうした価値のみが重視されることによって、その価値に当てはまらない個性を持つ人の生きる安心感が下がっていること。

しかし本来、「価値のある個性」と「価値のない個性」なんて二分割をすることは不可能で、すべての個性が何らかの意味をもち、すべからく尊いこと。

そうした前提に立ち、多様性が尊重されれば、人々は恐怖から解放され、もっと創造的になれそうだということ。

さらには、人の個性と同様に、地球の資源や生物の多様性も、金銭換算されづらいがゆえに蔑ろにされ続けてきたこと。

だからきっと、私が立てた「人がもっと安心して生きるには?」という問いは、解像度をあげると、「経済が大きな力を持ちすぎた世界で、経済的価値に直接は結びつかない個性や物ごとがちゃんと大切にされるには、どうすればいいんだろう?」という問いになりそうなこと。

そしてその壮大な問いの答えは、ただ資本主義や経済を否定することの先にはなさそうなこと。

その壮大で根の深い問いに対して、自分なりに向き合い、考え、自分なりの答えを出してみたい――そんな気持ちが自分のなかに大きく膨らんできていたこと。

やります、それがわたしのハピネスだから~

そんな「私なりの答え」を出すための大きなヒントがありそうだ、と、直感的に思ったのが非電化工房だった。それは非電化工房の藤村先生が、先述の壮大な問いに対して、自分なりの答えを出し、体現している人に他ならなかったからだ。

藤村先生の出した答えは、「自分の技術を磨き、仲間を増やすことで、たのしく支出を減らす。いいこと、楽しいことでほどほどに稼ぐ。そうすることで、競争に巻き込まれずに済み、ゆえに自分の信念を曲げずに済み、自分にも地球にもハッピーな生き方ができる」というもの。そのための技術を叩き込んでもらえるのが、非電化工房への1年間の弟子入りなのだ。

実際、4月に弟子入りしてから今日までの約9ヶ月間で、車の免許さえ持っていなった、都会育ち・ド文系・インドア派の私が、次のような事々ができるようになった。

野菜づくり/米づくり/キノコの原木栽培/有機液肥づくり/麹づくり/味噌づくり/納豆づくり/天然酵母の培養/ピクルスづくり/ジャムづくり/薬草茶づくり/鶏の飼育/山羊の飼育/2×4工法の小屋づくり/左官/塗装/電気配線/水道管工事/排水工事/井戸堀り/ロケットストーブ式の五右衛門風呂づくり/レンガ積み/トラクターの運転/パワーショベルの運転/チェーンソーの操作/エンジン草刈機の操作/電動工具の操作/本棚づくり/階段づくり/浄水器づくり/カーテンづくり/石鹸・シャンプー・リンスづくり etc...

こうした技術を身につけたり、藤村先生の考え方に日々触れたりするなかで、生きることへの安心感はどんどん高まっている。気がつけば、市場価値を高められなくったってハッピーに豊かに生きていけるなあ、と、本心から思えるようになっていた。まあ、まだ収入の柱を確立できているわけではないので、「このままいけばきっと大丈夫だな」という、希望的観測にすぎないのだけど。

とはいえ私は、みんなこう生きるべきだ!と主張したいわけでは決してない。私がたのしく気持ちよく生きていくための道を、自分なりに模索して、体現していきたい、というだけなのだ。

わたしの今いまの構想(妄想)

ロシアに、「ダーチャ村」というものがある。それは簡単に言えば、国から国民個人に支給される、郊外の畑つきの別荘のようなものだ。ロシアの人々は、週末にはその別荘に行き、家庭菜園を楽しむ。政策としてダーチャ村の制度が取り入れられて以降、ロシアでは食糧自給率が爆発的に上がったそうだ。

私は将来的に、シェアリング(共有型)ダーチャ村のようなものを作れたらいいな、と考えている。

私がちょっと広い土地に住み、畑や田んぼをやり、エネルギーもほどほどに自分でつくり、たまに小屋を建てたりする。そんな暮らしの場を、みんなにひらく。訪れた人は、そこで自由に過ごす。もちろん宿泊もできる。私の住処を、みんなの別荘、あるいは秘密基地にしてもらうようなイメージだ。週末の気分転換や、ワーケーション、野菜づくりをはじめとした自給自足の勉強など、いろいろな目的でふらりと足を運んでもらえる場所になるといい。

妄想を膨らますならば、小屋はいくつか建てて、本屋と、コーヒースタンドと、小さな映画館にする。昼寝専用の小屋、というのがあってもいい。五右衛門露天風呂もつくる。夜にはみんなで焚き火をしながら音楽を楽しめるようにもする。ワークショップを開催して、食べ物・建物・エネルギーを自給する方法をたのしく学べる機会ももちろんつくる。

自給自足型の生活。それは節約のための手段ではなく、生きる喜びにもつながるものだと、非電化工房での生活を通じて知った。

自分の手でものが作れること、その楽しさ。それによって見える世界の鮮やかさ。そして、それによって得られる「死なない」という安心感。私が暮らす場所が、そんな喜び、楽しさ、安心感を感じられる遊び場になるといい。

そんなことを考えて、現在土地や空き家を探しています。東京周辺に住む友人や家族が気軽に来れるような場所がいいので、関東からのアクセスのよい場所、と考えていますが、そこまで厳密ではありません。こんな考えに共感してくれる仲間が近くにいる場所だと、なお嬉しいなあと思っています。

おまけ:私に生きる希望を与えてくれた本たち

「もっと安心して生きられる道」を探す旅のなかで、私に希望を与えてくれた本をピックアップして紹介します。かつての私と同じような絶望を感じている方がもしいれば、きっとなにかヒントをくれるはずの本たちです。よろしければ!

【本】
・ゆっくり、いそげ カフェからはじめる人を手段化しない経済/影山知明
・続・ゆっくり、いそげ/影山知明
・人新世の「資本論」/斎藤幸平
・ビジネスの未来 エコノミーにヒューマニティを取り戻す/山口周
・次の時代を、先に生きる。まだ成長しなければ、ダメだと思っている君へ/高坂勝
・減速して生きる: ダウンシフターズ/高坂勝
・月3万円ビジネス/藤村靖之
・ナリワイをつくる 人生を盗まれない働き方/伊藤洋志
・里山資本主義 日本経済は「安心の原理」で動く/藻谷浩介
・限界費用ゼロ社会 〈モノのインターネット〉と共有型経済の台頭/ジェレミー・リフキン
・世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学/近内悠太
・エンデの遺言 ―根源からお金を問うこと/河邑厚徳
・田舎のパン屋が見つけた「腐る経済」/渡邉格

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