ローマ帝国とキリスト教 -なぜ12月25日なのか-

この記事は paiza Advent Calender 22日目の記事です。

アドベントカレンダーはクリスマスまでの日付をカウントダウンするカレンダーなので、昨年に続いて、クリスマスにまつわる歴史の話をします。

12月25日

12月25日はクリスマスである。
その日が来ると世界中でクリスマスを祝福する。極東の島国であっても例外ではない。

12月25日が何の日かというと、「キリストの降誕を祝う日」である。
しばしば、「キリストの誕生日だ」といわれるが、それは誤りである。
実は、キリストが何月何日に生まれたのかは分かっていない。

そもそも、人間の生まれた日が記録されるようになったのは最近の話である。
具体的に言えば、国民国家の概念が生まれてからである。
一定の年齢に達した男子を軍隊に送り込むために、また確実に税金を徴収するために、人間の生まれた日は記録されるようになった。
日本では明治時代からようやく生年月日の記録がはじまる。
大昔に生まれたキリストの誕生日など、本人でさえも知らなかっただろう。

では、なぜクリスマスは 12月25日 に祝われるようになったのか。
キリスト教が社会に受け入れられるようになった経緯と併せて、古代ローマ帝国の歴史を簡単に振り返りながら紐解いていく。


古代ローマ帝国

紀元前3世紀、ローマは地中海交易を独占していた。
商人たちはローマに税金を納めていれば、人種などに関係なく自由に地中海交易に参加することができた。
そのため、多くの地域から優秀な商人がローマに集まり、ローマの財政は税収で潤った。
そうして蓄えた資金で、港や道路交通を整備し、地中海交易はさらに栄えていった。

紀元前2世紀、ローマは大きな危機に直面していた。
歴史上、経済が成長した国がもれなく直面してきた問題が、「貧富の差の拡大」である。
地中海交易に参加できた商人は豊かな暮らしを送ることができた。しかし、それ以外の人々はホームレスとなる。
町の治安は悪化。暴動と内乱が頻発した(内乱の一世紀)。

やがて、裕福な層がホームレスを雇って軍団を形成し、外地を支配するようになった。
ローマの失業率は大きく下がった。

この、外地征服ビジネスで特に成功をおさめたのが、カエサル(シーザー)である。
カエサルは自らの軍団の強さを、富裕層や支配者層にアピールし、スポンサーを獲得した。
そして、そのスポンサーからの支援で、さらに軍団を強化していった。

やがて、カエサルが発言力を持つようになると、カエサルはクーデターを起こし、独裁権を得る。
資金提供をしていたのに権力を奪われてしまった、ブルータスら支配層はカエサルを暗殺する。
(「ブルータス、お前もか」)

カエサルの死後、カエサルの養子(オクタヴィアヌス)が、カエサルの軍団を引き継ぎ、権力を持つようになる。
オクタヴィアヌスは、表面上は支配層に圧力をかけることで、民衆から支持を得たが、実際には支配層と協調をしていた。
このオクタヴィアヌスが実質的なローマ帝国の初代皇帝となる。

以降、ローマ帝国は外地を征服して、その勢力を拡大し続け、2世紀には「パックス=ロマーナ」という平和な繁栄を享受する。
しかし、やがて周辺の地域を征服しつくしてしまうと、経済の成長は止まり、民衆の不満が噴出する。
対応策として、ローマ帝国は領土内のすべての有力者に市民権を付与して、政治的な権限を与えた。
市民権を得た有力者たちは、ローマ帝国への納税が必要となる。
その税収で、ローマ帝国の財政は潤った。
この資金で、道路、水道、浴場や闘技場などのインフラや娯楽施設が整備された。
こうした施設の工事には、征服する土地がなくなって仕事を失った軍人などがあたった。
仕事を得た軍人や、生活が豊かになった民衆の不満は軽減した。

しかし、このころ中央から離れた位置に住む有力者たちが、政治的権限を背景に各地で独立するようになる。
帝国の支持に従わない層が生まれ、帝国は分裂してしまった。
財政が悪化すると、公共事業の発注もできなくなり、民衆の不満も増大した。

この時の皇帝(ディオクレティアヌス)は、ローマ帝国をひとつにまとめ上げることをあきらめた。
そして、帝国を4つに分割して、それぞれの領地にリーダーをおいて各地をコントロールしようとした(四分統治, テトラルキア)。
一時は秩序を取り戻したが、やがて(案の定)、4人のリーダー同士で疑心暗鬼になり、激しい内戦がはじまった。

この内戦に勝利した人物(コンスタンティヌス)が皇帝となり、再びローマ帝国全体を支配した。

コンスタンティヌスは、バラバラだったローマ帝国をまとめ上げるために、キリスト教を公認した(313年)。
それまで、ローマ帝国内には多神教の考え方が根付いていたので、キリスト教は迫害されていた。
しかし、キリスト教の広がり方を見たコンスタンティヌスはキリスト教を利用することにした。

ローマ帝国はキリスト教の教義の統一などをおこなっていった。
例えば、「キリストは神として生まれた」とする信者と、「キリストは人として生まれ、やがて神の声を聞くようになった」とする信者とがいた。
帝国としてのまとまりをもたせるために、こうした考え方の一本化を推し進めるのが教義の統一である。
ちなみに、上の2つについては、「キリストは神として生まれた」という考え方を正統とした(ニケア公会議 325年)。
(なお、「正統」はラテン語で「カトリック」という。)

「キリストは神として生まれた」のだから、キリストの生まれた日は「神が地上に降臨した日」、ということになる。
非常に大きな意味を持つ日であるので、当時の人らは必死にキリストが生まれた日を調べたが、ついに分からなかった。
仕方がないので「キリストの降誕の日」をどこかの日付に定めることになった。
それまでローマ帝国内で信奉されていたミトラ教の冬至の祭りが「12月25日」におこなわれていた。
その習慣にうまく組み込むために、この「12月25日」をキリストの降誕日ということにして、一緒に祝おうという形で、この日に設定されたとされている。

その後

その後、皇帝のコンスタンティヌスは、ローマを棄て、東にあるビザンティウムに首都を移した。
これにより、東に位置するオリエント・アジアとの交易が盛んになり、帝国の財政難は一気に解決した。
しかし、それは東側に限った話で、ローマが位置する西側の財政は潤わなかった。
次の皇帝(テオドシウス)は、東西ローマ分割をおこない、西側を切り捨てた(395年)。

切り捨てられた西側のローマ(西ローマ帝国)は、やがてゲルマン人に滅ぼされた(476年)。

西ローマ帝国が崩壊したことで、西ローマ帝国から皇帝という位がなくなった。
皇帝位がなくなったことで、教皇は最高権力者となり、旧西ローマ領でキリスト教は広がりを見せる。

(西ローマ帝国を滅ぼした)ゲルマン人の有力者であったフランク族は、教皇の勢力の拡大に目を付け、キリスト教に改宗。教皇に接近する。
教皇も東ローマ帝国に対抗するためにフランク族と協調をはかる。

こうして、教皇&フランク族の西ヨーロッパと、東ローマ帝国の東ヨーロッパという二極世界ができあがった。

以降、教皇・皇帝・諸侯などの勢力が対立し争う、「中世」と呼ばれる時代が1000年ほど続いていく。

この中世に時代おいて、教皇とキリスト教は圧倒的な権力を誇った。やがてキリスト教は世界に広がっていった。

メリークリスマス

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