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夏の一コマ

エアコンのきいた部屋で読書に集中していたら、外から「ジ、ジジ......」と音が聞こえた。
今から盛大に鳴きだしますよ、という合図。やけに近いなぁ、と少々うんざりしながら本を閉じる。

この日は、いつにも増してけたたましく、彼らの声が夏空に響き渡っていた。

あちらでもこちらでも、鳴き方もさまざまなエネルギーに満ちあふれた声が、風の吹かない夕方の気温に拍車をかける。


「ジジ、ジジ......」

それにしても声が大きい。
近所の壁にでも止まっているのだろうか。
レースのカーテンをめくると同時に、目の前の茶色い物体に「わ!」と飛び退いた。

網戸にしがみついている......!

まさかこんなに近くにいたとは......。
おそるおそる凝視する。
エアコンを付けていたので、窓は完全に閉まっていた。

普段彼らを見かける時は、木の幹とか、建物の壁とか、コンクリートや地面とか、ある程度の距離がある。
急に飛び立つかもしれないので、警戒してむやみに近付いたりしない。

だからこんなに間近で姿を見る機会は珍しく、私はじっくりと彼の姿を観察した。



彼、つまり「蝉」は、私がレースのカーテンを開けるのと同時に、ぴたりとその声を止めた。
そして私が見ているからか、しばらく鳴かなくなってしまった。

人前で鳴くのは恥ずかしいのだろうか?

逆光で、こちらに向けているお腹の辺りは黒っぽくて見づらい。
細い脚や羽のもようを観察していた私は、蝉から少し距離をとった。

読書の続きでもしようかな。
そう考えた矢先、蝉は再びエンジンをふかし始めた。
耳を押さえたくなるような音量で、アブラゼミ特有の鳴き声を響かせる。

こんなに鳴かれてしまうと、落ち着いて読書は続けられない。
というより、蝉の方が気になってしまう。私は体育座りした体を、窓に向けた。

もうしばらく経つと、元気よく空を旋回する別の蝉が近付いてきた。
確認するような様子でこの窓の近くまで来ては、窓から離れ、またすぐ舞い戻ってを繰り返す。

まさか、彼もこの網戸に止まって鳴きたいのだろうか。

窓を閉めているというのに、1匹でもこの音量。さすがに輪唱はつらい。
私がこの部屋から移動するか、可哀想だけど網戸を叩いて蝉を移動させるしかない。

すると、最初の蝉が鳴くのを止めた。

細い脚を器用に動かして、網戸をよじよじと登りはじめる。

もっと高い所で鳴きたいの?
私はそれをただ見守る。

網戸の右上へと登る彼を目で追い、私も窓にぐいっと顔を近付けて、何とか斜め上の蝉の姿を見上げる。

網戸の角。
そこに、別の蝉が止まっていた。

あれ、さっき飛び回っていた別の蝉、いつの間にかそこに止まっていたんだ。
最初の蝉はその蝉にじりじりと寄っていく。

あれ、もしかしてこの2匹......オスとメス?

そこでようやく気付いた。
もしかしてカップル?


蝉の生態に詳しくない私は、スマホで検索した。そして初めて知った。

蝉が鳴くのはオスだけで、メスを呼ぶための求愛行動だということ。(私が“彼ら”と表記したのはそのためです。)

飛び回っていた蝉はメスで、網戸のオスの見事な鳴き方に惹かれて、やって来たのだ。
蝉のカップルの誕生を祝うとともに、思いがけず、命の輝きみたいなものを受け取り、感動する。

2匹が静かに寄り添う。その後ろで、空は青く、雲は流れ、そうしてだんだん陽が傾きはじめると、橙や桃色が雲に差してあたたかみのある空へと移り変わる。
  

夏の一コマ、映画のよう。

ここで生まれた命が、次の夏を彩るのだと思うと感慨深い。
この2匹が離れ、そして別れるところまで見守ろう。
そう決めて、読書を再開してからもちらちらと気にかけた。



一瞬目を離した隙に、2匹は離れていた。
空は紺色。あぁ、とうとう別れるのだ。

オスの蝉は、またも器用に脚を動かして、網戸を下りていく。
元の位置がよほど気に入ったのだろうか。

外が暗くなって見づらいが、メスの蝉はまだ同じ場所に留まっている。
切ない別れの瞬間、のはずだった。


「ジ、ジジジ......」

え?

オスの蝉が、何事も無かったかのように鳴き始めた。
まだメスがその場にいるのに、である。
繰り返しになるが、鳴くのは求愛行動......。

先ほど蝉の生態を調べた時に、蝉は一夫多妻制だと知った。
子孫繁栄のためには仕方ないことだけど、でもあんなに長い時間寄り添った、絵になるカップルだったのに......!

メスの蝉は、オスが鳴き始めると呆れたようにすぐ飛び去った。
どうか産むのに適した素敵な場所を見つけられますように。

陽が沈み、気温も下がり始め、普段ならエアコンを止めて換気している頃だ。
2匹を邪魔しないよう、窓を開けずにいたというのに。

オスは私の気持ちにお構いなしで、別のメスが来るまでここで鳴き続けるつもりでいる。
私は静かに反対側の窓を開け、腕を伸ばして網戸を揺らした。
蝉は驚いて鳴くのを止め、飛び去った。

勝手でごめんね、と少しだけ蝉に謝った。




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