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ぜいたく貧乏の陶酔

先日、森茉莉の『贅沢貧乏』を読んだ。すさまじいエッセイ集だった。

昭和30年代、変色したぼこぼこの畳、色あせた壁、トイレも流しも共同の風呂なし安「アパルトマン」に住む、かつての令嬢、茉莉さんは、強烈な美意識でもって毎日を陶酔のなかに暮らしている。

戦前はお手伝いさんに顔も髪も洗ってもらう生活だったのに、いまでは痰を吐き散らし半裸で廊下をうろつく胡乱な住人たちとおなじ流し台に並んでお茶碗を洗う暮らし。

貧乏生活、自分の生活力のなさ、常識のなさ、さらには文学者としての教養の足りなさも、自虐的におもしろおかしく描かれているけれど、これはじつは、まったく自虐ではない。

茉莉さんが自分を虐めることはない。

彼女はぜいたくな満足感のなかに生きているからだ。

茉莉さんは安アパートの部屋を、空壜一つ、鉛筆一本にいたるまで、すべてを自分の美意識に沿って厳選した空間につくりあげ、硝子の色や空の色に恍惚として美しい幻想をひろげ、色あせた複製画のボッティチェリの世界に浸る。

身の回りに美を見つけ、遠い世界に心を通わせ、子どものような純粋な喜びを日々感じて狂喜する茉莉さんが、美しい文章で語る美の世界。読んでいるとその嬉しさがこちらにも伝染して、幸せになってくる。

恍惚としている魔利に現実の眼を当ててみれば、王女のように着飾って馬車に乗った自分を幻想して、薄気味の悪い忍び笑いをもらしている老婆を描いた、あのドオミエの戯画そっくりであるが、マリア自身はそんなことは思わない。マリアは硝子と自分とに陶酔し、菫の花に横顔を埋めた美少女の心境である。何かが不確かに見えたり、感じられたりするのが、ほんとうのところは少し馬鹿だからかも知れないのに、暇さえあれば花と壜とに眺め入り、恍惚(うっとり)としてくると、体ごと透徹って青い壜の中へ、すっかり入ってしまったような気になるのである。
(『贅沢貧乏』森茉莉 講談社文芸文庫、「マリアはマリア」135ページ)

どのエッセイにも、「魔利」「マリア」のダメさ加減が、三人称で、つきはなした目線で描かれる。家事は無能。事務能力も皆無。外に出れば必ず迷う。人の顔が覚えられない。経済力もない。

けれど、同時に、茉莉さんの、自分は美を理解し愛する人間であり、その点では誰よりも抜きん出ている、というふてぶてしいまでの自負も、あらわにされている。

「評価:エバリュエーション」と「価値判断:ジャッジメント」を、茉莉さんはしっかり切り分けているのだ。

世間のひとたちの目に映る自分のダメな姿を、これでもか、とまでに面白おかしく描く茉莉さんは、わたくし、正確に自分を評価しておりますでしょ、とアピールしているかのようだ。

けれど、そんな評価を、茉莉さんは実際のところ、ほとんど気にかけてはいない。

「ほんとうは馬鹿かもしれない」自分を、4メートルくらい離れた距離からちょっと冷たいような視線で見ている。その視線は、まるで、出来が悪いが可愛い妹か、自分の娘を見ているかのよう。子を見守る親のような目線なのだ。

自分に向けられる評価を冷徹に把握しているけれど、その評価は「価値判断」にはむすびつかない。

他人の思惑と、自分の本当の価値とはなんの関係もない。

人からどう見えようと、持っていないものが多くても、できないことがどんなに多くても、自分は素晴らしい存在なのだという確信はゆるがない。

文豪であり、優れた知性と美意識の持ち主であった父・鷗外に溺愛され、褒めまくられてて育った茉莉さんは、幼年のときから16歳で結婚して家を出るまでのあいだに、なにがあってもびくともしない自己肯定感を身につけて育ったのだろう。

茉莉さんの関心は、自分を幸福にしてくれるものだけにロックオンされている。

自分が価値をおくもの、自分のものさしが確立しているから、世間の評価に一喜一憂する必要がない。

自分のまわりに美しい世界を創る力があれば、幸せになるために人の評価はいらないのだ。

そんな力をたくわえたい、とあらためて思う。茉莉さんには及ばずとも。


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