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たべものエッセイの愉悦

食い意地が張っていて活字が好きなので、おいしい食べ物が出てくる本を読むと両方の欲を満たせて大変お得な気分になる。

胃袋の容量は有限なのでリアルの食べ物はそんなに食べられないけれど、活字で摂取する分には無限だ。ケララカレーとショートケーキと寿司と崎陽軒のシウマイ弁当を一気に味わうなんてこともできる。
おいしそうだなぁ食べたいなぁと読み進めて、本を閉じた瞬間お腹が空いている。そこから、出てきたメニューを自炊したり外へ食べに行くなんてことが出来た日には次の朝までほくほくしている。

食べ物が出てくる小説も好きだけれど、食に関するエッセイはなお好きだ。自分の食い意地の張り方を少し恥じているので、他の人の食に関するこだわりについて読むと安心する。
あこがれの文筆家が好きな食べ物に影響されて、自分もそれが好物になるなんてこともある。人生の中に好きなものが増えるのはとてもうれしい。

そんなわけで、食べ物本は私にとって愉悦のかたまり。
あまり重い本を読む気がしない時期も、食欲につられてさくさく読み進められる。あまり食欲がない時も、とりあえずぱらぱらページをめくってみると食べたいメニューが浮かんでくる。
大変便利なので、本棚には特にお気に入りの食べ物本を集めた一角を設けている。

その中から、食に関するエッセイを何冊か紹介してみようと思う。

やわらかなレタス/とるにたらないものもの(江國 香織)

小学生のときに「すいかの匂い」に出合ってからずっと、江國香織の書くものが好きだ。
昔は恋愛のことを書いた長編もよく読んだけれど、どちらかというと家族について書かれた長編や、短編集のほうが好き。どこか不穏で浮世離れしていて、それでいてまぎれもなくあたたかい。

エッセイはさらに好きで、本棚に一通り揃っている。彼女が書くもの同様に浮世離れした筆者本人の、頭の中をのぞき込める感覚が楽しい。
食にまつわるエッセイ集「やわらかなレタス」の、たとえば、鱈について書いた文章の冒頭はこんなぐあいだ。

 鱈という魚が好きで、寒い季節によく食べる。鱈はすばらしいと思う。身の、あの美しい白さと舌触り、繊維にそってほどけるような噛みごたえ。
 鱈はでしゃばらない。控えめで、心根がよく、思慮深い魚だという気がする。(中略)自分の身を惜しげもなくさしだしてくれる寛大な生きもので、そこには殉教者のように高潔な精神を感じる。

江國香織「やわらかなレタス」より「鱈のこと」

とても敵わない、と思う(そもそも自分とくらべることじたい烏滸がましい、ということはさておき)。いったいどういうバックグラウンドを持てば、「鱈」と「殉教者」に共通項を見いだせるのか。でも言われてみればたしかにそうだ、と思わせてしまうのが、江國香織のすごいところ。

収録されたほかのエッセイもこんな調子で、他の作家の食エッセイに比べて、食材そのものに着目したものが多い気がする。調理する前の、素のままの食材をクローズアップすることで、食べ物やそれにまつわる事ごとの、たたずまいの美しさにいちいち気づかされ、あたらしい愛着がインストールされる。
そういった意味では、食べ物エッセイだけの収録ではないけれど、「とるにたらないものもの」も私の中では同じカテゴリに属する一冊だ。特に「塩」で描写される食塩の様子は、私がふだんの生活で常用している塩化ナトリウムの結晶とは別物のようにうつくしい。

かと思えば直球でおいしそうな(手作りの、あるいはお店で食べる)料理の話も出てきて緻密な描写にお腹がすくのだけれど、それはグルメ料理番組を見た時のリアルなお腹のすき方ではなく、幼いころ絵本や童話を読んでいて出てきた、未知の食べ物への憧憬に近い。ぐりとぐらの、鍋一杯につくるカステラとか。はらぺこあおむしが平らげるチェリーパイだとか。

「童話のなかの食べ物をたべたい」というのは実際に現実世界でそれに対応する料理を食べてみても満たされない欲求なので、結局その味わいをどうにか手に入れたいと、このエッセイを読み返すことになる。何度も何度も。

その満たされなさも含めて、この本の魅力だと感じる。

「オムレツ」シリーズ(石井 好子)

「食べ物エッセイ」にはまったきっかけの本がこちら。
アンティークの壁紙のように可憐な三色すみれの模様とロマンティックな題字のフォントに惹かれて「巴里の~」をジャケ買いし、読んでみるとあまりに面白かったので翌日「東京」を購入した。

シャンソン歌手の筆者が、長年住んだフランスや東京、旅行先での食にまつわる思い出を綴ったエッセイは、おそらく私が持っている本の中で最も「チャーミング」という言葉が似合う。あっけらかんと明朗な文章は、周囲の人や愛着ある土地への優しいまなざし、食の喜びに満ちている。

食べることも人に食べさせることも大好きな筆者は、自分がおいしいと思った料理のレシピを分量や手順の詳細まで気前よく載せてくれている。食材は「バター」は「バタ」、「ワイン」は「ブドー酒」、鶏肉は「トリ肉」というふうにちょっと時代を感じさせる表記で呼び馴らわされ、よく知っているものでも別物のように魅力的だ。クラシカルなフランスの家庭料理やおなじみの和食のレシピのほか、「ナスのキャビア」や「ヴェベールの卵」なんて物珍しくておいしそうなレシピを発見できるのもうれしい。

この本に出合ってから10年、ホワイトソースはかならず、「春はふわふわ玉子のスフレから」にあるレシピで作ると決めている。今度オーブンを買い替えたら、スーパーではなくお肉屋さんで丸鶏とレバーをそろえて、トリの丸焼きを作ってみたい。

いとしい/こいしいたべもの(森下 典子)

食品加工機械メーカー「カジワラ」のHPで連載されている食エッセイが文庫化されたもの。

もともとHPで読んではいたのだけれど、どうしても本の形で読み返したくて購入した。(紙の本は、ページをぱらぱらめくって目についたところを読み返す、ということができるところがとても好き)
ユーモラスな文体で書かれた食べ物への思い入れは時にとても局所的(鮭の皮、鯛焼きの耳、カレーパンの中の空洞……)で、そのぶん筆者と自分の目線の先、ピントがいやおうなしに「ぎゅんっ」と合わさる。

そしてそのうち、そういえば、と思うようになる。

そういえば、私もメロンパンには初回騙された気がする。ホワイトクリームソースのかかったオムライスは「わたしのオムライスじゃない」気がする。中学校のお昼休み、お弁当を持参せずパンを買ってくる同級生がやたらうらやましかった気がする……。

共感を超えてほぼ「記憶の改竄」まで行ってしまう。自分の主体性のなさがちょっと怖い気もするけれど快感だ。

崎陽軒のシウマイ弁当もクリーム白玉あんみつも、このエッセイに出合ってから特別な好物になった。

 私の顔を見て、祖母は、
「そりゃあおまえ、昔から、『塩鮭の皮の厚みが三寸あったら、大名の首と
取り替えてもいい』って言うくらいサ』
と、秘めやかに笑った。
(中略)
 猫も、生まれつきマタタビの味を知っていたわけではないだろう。いつもどこかに、こうやってマタタビの味を教える長老猫がいるのだ。

森下典子「いとしいたべもの」より「端っこの恍惚」

私にとっては、森下典子も「長老猫」の中のひとりだ。

私の本棚の一角には、「長老猫」たちの書いたものが連なっている。日々それらをぱらぱらめくっては、夕食のメニューを考えている。

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