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Mita_Yonda_10 『ポエトリー アグネスの詩』と読んだことのある本たち

『ポエトリー アグネスの詩』イ・チャンドン監督 2010年 韓国
TSUTAYAでレンタル。

あらすじ

ミジャは古いアパートで、生活保護を受けながら、娘から預かった中学生の孫チョンウクの面倒を見ている60代の女性。ある日、町内の文化院で偶然に「」の講座を受講したことで、詩を書く喜びや歌う喜びを初めて知る。詩の世界に没頭していくミジャだったが、アルツハイマーを発症する。また、チョンウクが同級生を数か月間にわたり輪姦し続け、その女子中学生が自殺したことを知る。関係者たちは事件を公にすることを嫌い、被害者の母親に示談金を支払って、ことを収めようとする。

 最近観た映画と読んだ本について書くというコンセプトの記事なんだけど、近頃は全然本を読めていなくて、最後に読んだのはサリンジャーの『ナイン・ストーリーズ』の再読で、7月の終わり頃だったと思う。
「バナナフィッシュにうってつけの日」は折に触れて読み返していたので覚えていたのだけど、そのほかの短編についてはだいぶ記憶がぐちゃぐちゃで昔好きだったおぼえがある「笑い男」や「小舟のほとりで」なんかも結構印象が違って、今回の再読で一番好きだったのは「エズメ——汚辱に寄せて」で、ほとんど初読みたいに新鮮だった。
ほんとうに、優れた文学は何度読んでも新しい発見があってうれしい。

 そんでその流れで、というか夏の課題図書みたいな感じでサリンジャーの作品を発表順に読もうと考えていたので『フラニーとゾーイー』を読み始めたんだけど、ゾーイーが登場して風呂場でべシーと長々と会話する場面で中断したままもうひと月以上止まってしまっている。

 サリンジャーは『ハプワース16、1924』と最近出た2冊の短編集以外の作品は既に一度読んでいて、『フラニーとゾーイー』も20代の頃に初めて読んで、いたく感動した覚えがあったんだけど、再読してみるとやはり手触りのようなものが違って、覚えているつもりでいた内容との乖離みたいなものが思った以上に甚だしくてちょっとくらくらして、暑さとかそのほかの様々な要因から栞を挟んだまま鞄に突っ込んで忘れたふりをしてる。

 長々となんの話をしているかというと、読んだことのある小説について思い出すとき、あの本の何行目とか、256段落目で〜みたいな思い出し方をしたことがなくて(そういう人もいるのかもしれないけど)個人的には小説の場面を思い出そうとするときには頭の中でその場面が再生されて、自分なりの登場人物が喋ったり動いたりするんですね。言ってみれば『自分なりの映画』みたいな感じで。

 で、ようやく『ポエトリー』の話になるんだけど、本作は65歳くらいの女性が主人公で、割と早い段階で彼女がアルツハイマー病を患っていることが明かされます。主治医は病名を告げられてショックを受けている主人公に追い討ちをかけるように「まずは名詞を忘れます。それから動詞」と続け、それに対して主人公は「でも、名詞は大事ですよ」と返します。
なぜ彼女にとって名詞が大事なのかというと彼女はその診断を受ける直前にカルチャーセンターみたいなところで開かれている詩の講座に通い始めたからで、詩を書くためにどうしても彼女は名詞を忘れるわけにはいかないんです。
それで考えたのが、私たちが記憶について語るとき、たぶん頭の中で先述した『自分なりの映画』みたいなものを再生して、それを言葉にして語ると思うんです。だから詩を書くにしても物語を書くにしてもそれを語り聞かせるにしても、頭の中では一度、ほんとうにあったこととは最早違ってしまっているかもしれないけれど、自分なりの後悔だったり、幸福感だったり、そのときに感じていたと自分が信じている感情のともなう記憶の場面が再生されて、それからそれを目の前の人なのか、遠くにいる人なのかはわからないけど誰かに伝えるために苦心して言葉にするんだと思うんです。
『ポエトリー』の主人公がその後どうなるのかは映画を見てほしいし、ラストシーンは様々な解釈ができると思うんだけど、アルツハイマーの末期はともかくとして、名詞が失われ動詞が失われても、もしも頭の中で、たとえばゾーイーがフラニーに「太っちょのおばさん」について語る場面や、バディが蒸し暑いアパートメントで来客にしぶしぶトムコリンズを振る舞う場面、フィービーがでかいスーツケースを持って現れる場面や、テーブルの下で初めて手を繋ぐ場面、嵐の前の回転木馬や、緑色の灯火、そういう『自分なりの映画』が流れ続けているなら、それはそれで一つの希望なんじゃないか。多分この映画の大方の解釈とは真逆だとは思うんだけど、わざわざ映画という映像の芸術で詩という言語の芸術を扱って記憶と言葉をなくしていく主人公の行為を描いているのだから、やっぱり最後の、それまではずっと画面に映り続けていたミジャが消えてからのシークエンスは、そういう救いだったんじゃないかとわたしは受け取りました。

イ・チャンドンさんの映画は『オアシス』を最初に観て、それから別の作品を再生しようとするたびに今回は『オアシス』よりつまんなかったらどうしようと考えるんだけど、今のところ全部の作品が派手さはないのに画面からずっと目が離せないし、観終わった後にしばらくのあいだずっと考えてしまうので、多分全部おすすめ。

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