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日本でリバタリアニズムが流行らない理由の考察

  しばしば、日本では「自己責任論」が唱えられる。

 自己責任論とは、なにか問題が起きるとそれを社会や周りの環境ではなく、専ら個人の責任に帰す考え方だ。あんなことになったのはお前が悪い、自分でなんとかしろ、周りに迷惑をかけるな……典型的な自己責任論者の主張は、このようなものだ。現実世界でこんなことを言う人がどれくらいいるかはともかく、ネットやSNSでは決して珍しくないタイプの物言いである。

 私は日本以外の事情には通じていないから、自己責任論が日本に特に見られる思想なのか、あるいは世界で広く見られる発想なのかどうかは分からない。ただその何れにしても、ある疑問が生じる。自己責任論と親和性の高いはずの「リバタリアニズム」が、日本では流行しないのである。

 リバタリアニズムとは、個人の自由を最も価値あるのものとして重視する政治的、経済的な思想だ。これだけ聞くと「良い考えじゃん」と思われる方もいるかもしれないが、必ずしもそうとは限らない。

 例えば、リバタリアニズムでは政府による国民の財産の徴収なんてものは忌避されるべき行為だから、税金は極力少なくするべきだとされる。「やっぱいい考えじゃん」と思われた方、税金をなくすということは社会保障もなくすということだ。具体的には、年金や医療保険は勿論のこと、失業保険や介護保険、生活保護も廃止するべきとなる。なぜなら、政府が個人の財産を取って勝手に再分配するのは個人の財産権を侵害する悪いことだから。仮に金持ちが貧乏人に施しを与えるとしても、それはあくまで金持ちの自発的な意思によるべきで、政府が率先して行うことでは断じてないのだ。

 リバタリアン(リバタリアニズムを支持する人)はアメリカには一定数存在するとされるが、日本ではリバタリアニズム的な政策、先ほど述べたように社会保障を全て(あるいはほとんど)なくして、税金も可能な限り低くしよういう政策や政党はほとんど支持されていない。生活保護をなくそうとする人はいても、年金も医療保険も全部なくして国民の「自由」を最大限尊重しようと言っている人なんて殆ど見たことはない。

 自己責任論が唱えられているにも関わらず、リバタリアニズムが流行しない原因はなぜだろうか。いくつか理由を考えてみよう。

自己責任というのは、あくまで唱えた本人にとって都合のいい「自己責任」であって、何から何まで自己責任にするべきだとは考えていない。例えば、生活保護なんかは個人の「努力」でどうにでもなる問題だから生活保護は廃止するべきだが、年金は個人の努力によって補填することは難しいから廃止するべきではない、等。(部分的な自己責任論)

経済的には自己責任論者ではないが、それ以外の点では自己責任論を支持する。痴漢に遭うのは自己責任、海外に行って勝手に拉致されるのは自己責任なんて言うのは、これに該当するだろう(語源的な意味での自己責任論)

③歴史的な文脈が原因。自己責任は日本に古くから存在するが、個人の自由や権利という概念は日本では希薄だったため、現代においても自己責任論が唱えられることはあっても、個人の「自由」を大原則とするリバタリアニズムが流行ることはない。(歴史的、文化的な意味での自己責任論)

個人の自由なんてどうでもいいが、責任だけは個人のせいにしたい。年金だけで暮らせないのは国家の責任だと言う前に、国民一人一人が将来のために資産形成するべきだ、等。(責任逃れの自己責任論)

他人を攻撃する材料として「自己責任」という言葉を利用しているというケース。この場合、本来の意味での自己責任論者だとは言えないだろう。この人たちは自らの憂さ晴らしを第一義的な目標にしているため、状況が違えばリバタリアンは勿論のこと、自己責任論者のことまでも批判する可能性がある。(偽装自己責任論)

⑥リバタリアニズムの求心力の低さ。具体的には、リバタリアニズムという思想の知名度の低さや、リバタリアニズムは無政府主義に通じる危険な考えであるという認識によって、自己責任は受け入られてもリバタリアニズムが受け入られられない。(反リバタリアニズム的な自己責任論)

そもそも自己責任なんて一部の人しか言っておらず、従ってリバタリアニズムも日本で流行らないのは当然である。(自己責任論の否定)

 他にも考えられるだろうが、とりあえずこんなところだろう。そもそも議論を無に帰してしまう⑦を除くとすると、6つの理由が挙げられた。

 最後に蛇足になるが、こんな投稿を書いた理由でも書いておこう。といっても理由はとても単純で、「リバタリアニズム 自己責任」という言葉で検索した時に、満足のいく答えが見つからなかったである。なんだが昨今見かけることの多い「自己責任」という言葉だが、(「氷河期世代」の問題に代表されるように)その社会的な背景が語られることはあっても、アカデミックな背景について語られることはあまりない気がする。

 まあ、「自己責任論」という言葉自体が「KKO」(キモくて金のないオッサン)などと同じく専らインターネット上で使用されることが多いから、ネットで議論されることはあっても、その背景にある思想がほかのどんな思想に通じているかとか、どんな思想的な意義を持つかについて真面目に論じられないのも当然だとは思うのだ。それでも、自己責任論をただ肯定、あるいは非難するよりは、少しでも立体的なモノの見方をするために、リバタリアニズムとの比較は無意味でもないなと思ったのである。


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