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異常な博士の偏狂

「一日十本コーラを飲んでるんですよオ、私は」老人は言った。多分嘘だろう。

 私はとある週刊誌の記者である。週刊誌というと芸能界のゴシックネタばかり取り上げている印象があるかもしれないが、案外真面目なテーマを取り扱うこともある。私は「真面目」担当なのだ。

 ここ数年私が調べているのが、過去に不正な研究を発表した研究者たちの末路である。数年前に嫌というほど話題になった研究(あるいは、研究論文)の不正だが、別に最近になっていきなり科学者たちが不誠実になった訳ではない。自らの業績を誇示するためにデータを改ざん、捏造する人間は古くから存在する。ちなみに、撤回論文数ランキング第一位の科学者は日本人だから、日本はこの分野でも世界のトップランナーと言っていいだろう。

 私の目の前にいる老人もまた、かつて不正な論文の発表によって地位を追われ、惨めな境遇に陥った人間である。もう二十年近くも前のことだ。それまでずっと助教授の地位に甘んじて来た彼は論文、「適度にコーラを摂取したマウスの飛翔」を発表した。題名の通り、コーラ(炭酸水)をマウスに対して適量与えると、ゲップをしたマウスがその反動で勢いよく飛ぶ、という趣旨のものである。論文はこの技術を応用すれば、マウスのみならず人間が飛行することも可能である、と結論付けていた。あまりに突飛な内容の本論文は一部で話題になったが、誰も再現実験に成功しなかった。つまり、まるきり嘘だったのである。

 このつまらない事件によって彼は解任された。それ以降科学の世界とは丸きり関りを絶って、本人の弁によれば「占い師のようなセラピストのような仕事」で生計を立てて来たのだと言う。尤も、具体的な活動は一切口にしないからそれも嘘だろう。あるいは、つまらないアルバイトか何かで糊口をしのいできたから、本当のことを喋りたくないのかもしれない。 

 長らくこの仕事をやっている私は直ぐ彼の居所を突き止めることができたが、取材に応じてもらえる保障はなかった。私のやっていることは要するに、忘れらた晒し者を、今一度晒上げようとしているのだから。いくら「社会正義」とか「真実の追求」なんて言葉を出しても、趣味の悪い仕事だなとは思う。まあ、だからこそ自分にあっているのだろう。

 だが意外なことに、彼は取材に応じてくれた。かつて研究者であった面影はどこにもなく、どこにでもいそうな貧相な格好をした老人であるが、過度に雄弁である。「話したいことがいっぱいあるんですヨオ」と言ったが、その全てを書き記すことはとてもできない。特に注目すべき箇所だけ抜粋しよう。

―なぜ不正をしようと思ったのか。

「いや、そこから間違っているんです、ええ、間違っていますとも」

―間違っているとは。

「私はネエ、あなた、嘘なんてついてませんよ。ええ、そうです。嘘なんてついてないですとも。私のことを嘘つき呼ばわりする連中こそ嘘つきなんですヨォ……」

―ご自分の発表した論文は正しいと。

「その通りです。一語一句、嘘偽りはありませんデ。ヘヘ、書いてあること皆本当ですとも」

―だが、あなたが論文で示したような、コーラを与えて空を飛んだマウスは確認されなかった。

「簡単ですヨオ、私を陥れようとしたんです、奴らは。つまりですネェ、私の研究が知れ渡ると、それこそ誰もが空を飛ぶことが可能になりますから、一部の連中にとっては非常に都合が悪いんデスウ。一部の連中とはですね、アナタ、既に空を飛んでいる人間ですよ!この国で金を持っている奴や権力を握っている奴らはネ、ミンナ空を飛んでますから。自分たちの保身のために、奴らは機密を隠し通さねばならないんです、エエ……。おや、信じておられない?まあ、いいでしょう。フン、畜生!分かっているんだ。自分の信じたいことしか信じないんだ、あなた方は!おっと、これは失敬。私も人と話すのが久しぶりなものですから、ついつい汚らしい言葉を使ってしまうんですよ、ハハハ!まあ、私の業績は永遠にまっとうな評価を得られんでしょう。正義はこうして敗北するんですよ、あなた。エエ?」

―実は私もあなたの論文の通り、マウスにコーラを与えてみたのだが、やはり飛ばなかった。

「イヤイヤ、分かっていますよ。落ち着いて下さい、アナタ、落ち着いて?分かっていますカラ。アナタ、簡単なトリックですよ、これは。つまりですネエ、つまらない間違いというか、認識の違いが、一時的に我々の仲を引き裂いているんです。エエ。こういう事です。アナタ、あなたが飲ませたのはコカ・コーラでしょう?この国にはコーラというとコカ・コーラをイメージする人間が多いですからネエ。でもですよ、実は私が与えたのはペプシコーラです。ええ、そうなんですよ、ペプシコーラなんです、あなた!これがトリック、これが真相、これが正義!ああ神よ、ありがとうゴザイマス!」

―ペプシコーラを与えればマウスは飛ぶ?

「その通りデス。いいえ、この答えだと不十分だ。マウスだけじゃない。人間だって飛びますよ。ホラ、一日十本コーラを飲んでいると言ったでしょう?これもまた全て、空を飛ぶためなんです。あなたも一度お試しになってみてハ?空を飛ぶとね、世界がまるきり違って見えますヨ。ホントウ……」


 ……私は老人の言っていた通り、2リットルのペプシコーラを十本買った。空を飛ぶためと思えば、安いものである。

 十本のコーラを一気に飲み干した。2本目の時点で辛くなり、半分を超えた辺りから気持ち悪くて仕方がなかったが、やはり空を飛ぶためと思うと手を止めることはできなかった。そして苦闘の末、遂に十本目のペットボトルを空にした。

 信じられない程大きなゲップが出た。ゲップは止まらなかった。それと同時に気持ち悪さがこみあげてきて、たった今腹にぶち込んだ物を私は思い切り吐き出した。残ったのは空を飛ぶ人間ではなく、地面に撒き散らかれた汚物である。

 記者の仕事は、こんなのばかりだ。

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