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「意思決定」と「評価軸」の話 (建築の話 その5の2)

昨日の話で、建築に関わる人はあまりに多いけれども「意思決定」の主体は、一義的に建築主だ、という話をしました。

今日は豊洲の話をしますが、正直記憶に頼ったところで、正確さを欠いているかと思います。(ちゃんと調べてから書けよ、という話もありますが、ちゃんと調べると時間がかかって書くのを途中で嫌になるはずなので、勢いだけです。詳しくはWikipediaの豊洲市場築地市場移転問題に譲りましょう。←確認したら、Wikiさんも迷走していました笑)

豊洲市場の問題とは、小池さんが公約で「豊洲市場の移転の見直し」を謳い都議選で当選した後、「盛土」の話を発端に安全性や計画そのものの妥当性についてマスコミで取り沙汰されて、小池さん自身もいろんな世論に板挟みになりながら、結局移転延期、追加工事等の後移転したというゴタゴタというあれです。

「市場」というプログラムの特殊性

「市場」というプログラムは、非常に特殊です。というのも、市場の恩恵を受けるのは間接的には税金を納める都民ですが、そこで日々働くのは市場の卸業者の方々(都民の一部)であり、移転前は築地という場所で既に働いている人たちです。加えて、生の食品を扱う場所であり、衛生面や安全面などは、通常のオフィスや商業施設の何倍も気をつけないといけないものですし、「東京中央」の名を冠するスペックの市場は規模や性能もそれなりのものではいけません。築地は狭小だ(ターレーが魚のすぐ横を通り過ぎるみたいな、それに比べて豊洲は広すぎて困る、割には一区画の間口が狭くなる???)という問題と、築地市場の伝統的な景観の保存(それに比べて豊洲は殺風景で倉庫のようだ!)とか、築地と豊洲の対比なども議論にあがりました。

土壌汚染の話

そんな複雑で特殊なプログラムに輪をかけて話をややこしくするのが(というか議論の発端になったのが)土壌汚染と盛土の問題でした。元々東ガスの工場があった場所に市場を作っていいのか、このあたりも当初から相当の議論がなされ、念には念を、と万全の土壌改良を行ったはずが、当初説明していた「盛土」がなされていないことが発覚したり、モニタリング調査ではやはり汚染物質がまだ検出されていることが発覚したり、、、いろんな陰謀論も飛び交い正直、毎日のニュースに辟易としていました。

盛土の必要性やそれを地下ピットで代替できるのか、あるいはどの程度の土壌汚染の改良が必要か(無尽蔵に金を突っ込むわけにもいかない)等の専門的な話は、本来「その筋の人がしっかりやっています」で済ませないと素人が首を突っ込んでもよくわからない話だと思っています。情報の非対称性の話です。

しかし、現実には、そこに議論がフォーカスされ、マスコミも食いついてしまったため、「地下ピットのコンクリートで汚染土が地表の方まで上がってくるのは防げます」とか「地下水中にどれだけベンゼンが含まれていたとしても、その地下水を毎日1リットル飲まないと人体に被害がない、そんなレベルの汚染です」とか言ったって、何も理解されませんでした。なぜなら、「聞いている話と違う」という不信感が根底に有るからです。科学的な根拠と人間の信頼関係を分けて考える必要がありますが、そんなに人間は理性的ではありません。

この時には移転の白紙撤回まで選択のテーブルにあげられましたが、その際に問題となったのは、建てちゃった豊洲はどうするの?という問題です。また築地の老朽化やネズミ問題、土中汚染についても取り上げられ完全に泥沼でした。数千億円の税金をかけて建てた建築の運命を考えても、移転しない決断は現実的でない、そこで最終的にはうまい具合に懸念事項になる部分だけを追加工事して(それも数億かかっていたと思いますが)移転にこぎつけたわけです。

豊洲市場の建築主は「東京都」

建築主は「東京都」なわけですが、東京都という行政の代表である小池さんやその前の都知事である石原さんの対応も問題視されました。迷言として「豊洲は安全であるが、安心できない」というものがありました。これはまさに上の科学と人間の信頼関係の話の違いを端的に表しています。

建築主は全ての意思決定権を持っているわけですが、残念ながら多くの場合は素人なので完璧な判断ができるわけではありません。素人が判断できる材料を専門家がせっせと用意するのですが、その際に大事なのは信頼関係です。石原さんは事務方や専門家を信頼していた、しかしそういった人たちのミスやコミュニケーションの齟齬があった。小池さん(やその周辺の取り巻き、あるいはマスコミ)はそのミスやこれまでのコミュニケーションの齟齬を修正するのではなく、犯人探しをし、問い詰めました。

小池さんが「~委員会」をたくさんぶち上げたのも記憶にある方は多いと思います。問題は「~委員会」はどの法令に基づいているのか? どのような目的で設置されているのか? どのような権限を持っているのか? その決定にどのような影響力があるか? 意思決定をサポートする機関なのか? あるいは意思決定を委譲された期間なのか? など、そういったことがはっきりしなかったのも問題です。

「意思決定」を行う主体は責任を持ちます。当然です。国や行政の場合は、首相、大臣や知事、事務次官、本部上、部長、課長、、、と案件の大小により、どんどん権限も移譲されますが、最終的な判断は空気感ではなくそういった人たちのハンコです。これを通常、決裁権者といいますが、決裁権者は誰に責任を負うかというと、国家や行政の場合は、国民・住民です。そして、当然ですが、その責任を誰かに擦りつけたり、責めたりしても、何の解決にもなりません。

「意思決定」の重さとスピード

私の職場でもそんなことがたくさんあります。先程も書いたように、トップ(決裁権者)は素人であることが多いので、部下や外部の専門家に信頼を置くことも必要です。信頼を置かれた側は誠心誠意で仕事をしないといけないのも当然です。そして、意思決定に誤りがあったとき、トップは部下や専門家を責めながら、同時に外部(行政なら住民、会社なら顧客と株主)に説明責任を果たす必要があります。その両立をするのがリーダーの仕事でしょう!!!しかし、それができない人がどれだけ多いことか!!!

「意思決定」には相当の重さが伴います。どれだけの責任を負うのか、その重みに耐えるのは並大抵のことではないから、慎重になるし、何なら責任を避けるため意思決定のスピードはどんどん遅くなっていきます。すると今度は、どこまで材料があればあなたは判断してくれるんですか!!!という話になってきてイライラします。

なかなか決められない、意思決定が遅い、それはトップの責任か、部下の責任か、いやどちらもなんでしょうが、、、どうしても、間違いもあるだろうし、失敗もすると思います。万人が手を挙げて良いと思える建築なんてないと思いいます。「評価軸」が人によって違うから。最大公約数を目指すのが果たして良いのでしょうか。何がよいのでしょうか?

良い建築を作り上げるにはこの「意思決定」の主体となる組織と決裁権者の建築的なリテラシーと度量の深さ(権限委譲)、そしてその権限委譲される側とする側の信頼関係が必須だと思います。

そんなことを日々考えています。当然、レベルの低さは甘んじて受け入れる必要があります。お前は所詮口だけ、綺麗事だけ、と言われてもおかしくありませんが、どうすれば良い建築主が多くなるか、ということは私的には永遠のテーマです。

新国立の話も似たような感じです。新国立の場合は、その発注者すらふわふわしたもので、責任の所在が曖昧になる構図になっていました。コストの話とコンペの話なので、少し論点は違いますので、次回は新国立の話をしようと思っていたのですが、多分まとまりませんので、次回はまとめに入ります。「評価軸」の話をあまりできていませんでしたので、その辺りも書きます。

ざれーご

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