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ユダヤ系ハンガリー人建築家が復活させたカイロのイスラミック地区

  まずは感謝です。かわい いねこ さんは私がNOTEを始めた初期から繋がっている方なのですが、プロフィールに書かれておられますとおり、視力障害をお持ちだそうです。かいわさんの記事を拝読しますと、様々な「気付き」を教えていただき、非常に勉強になり考えさせられ、また励まされています。
 そのかわいさんが、「エジプトの輪舞(ロンド)」を記事に取り上げてくだ
さいました。感謝感激です。そんなかわいさんにはヴァリデ・スルタン(母后)の称号を差し上げます👑

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 カイロの旧市街の観光に行きますと、エジプト人ガイドさんたちの説明でもガイドブックでも「ウマイヤ朝の建物で〜」「マムルーク朝のモスクが〜」という情報ばかりです。

 しかし思いませんか?
何世紀も昔の建築物がなぜこんなに見事に残っているの?

 そうなんです、そうなんです。ガイドさんもガイドブックも触れない事が多いですが、ある一人のユダヤ系ハンガリー人のおかげなのです。彼がいなければこのカイロのイスラミック地区は消えていたはずです。


マックス・ヘルツ 1856−1919 文章までもが美しかったそうです。

カイロで就職・若きユダヤ系ハンガリー建築家


 1856年、ミクサ(その後「マックス」)・ヘルツはハンガリーの小さな村の貧しい農家で生まれました。ちなみに現在はその地域はルーマニアで、トランシルヴァニアのグラニチェリです。

 ユダヤ系ハンガリー人のマックス・ヘルツは頭の良い学生で、ブダペストの工科大学に進学し、その後ウィーンの大学で建築を専攻、著名な建築家に弟子入りもします。

 卒業後、ヘルツはイタリアへ旅をし、ルネッサンス様式の建築を見て回りました。でも何か彼の琴線に触れなかった。そしてふと思い立ち、そのまま地中海を渡りアレクサンドリアまで向かいます。1880年のことでした。

 アレクサンドリアーカイロ区間はとうにイギリスが鉄道を作っており(全額エジプト負担)、ヘルツは汽車に乗り首都へ移動します。

 カイロにはヨーロッパ人が大勢いました。当時ヨーロッパからの移住者は20万人おり、そのうち4,5万人はユダヤ人だったと言われています。ヘルツはそこでオーストリア人のユリウス・フランツに出会います。
 フランツも建築家で、エジプトの古い教会修復などを手掛けているエジプト宗教省に勤める人物です。
 フランツは
「君をアラブ芸術記念碑保存委員会の主任建築家として迎え入れたい」
とヘルツをヘッドハンティングします。

滅びかかってていたアラブ・イスラム建築の街

 アラブ芸術記念碑保存委員会というのは、当時のエジプト総督のアッバス・ヒルミー2世が設立したばかりの委員会です。

アッバス・ヒルミー2世。お顔が全くエジプト人ではありませんが、当然です。エジプト人の血は全く入っていません。

 ムハンマドアリ朝のそれまでの総督はフランスの方向ばかり見て、カイロをパリのような街にしたいということしか念頭になく、イスラミック地区を放置していました。 特にヒルミー2世の祖父のイスマイールは「アフリカ大陸のパリ」宣言をしたほどで(!)、カイロをパリの街そっくりにすることしか頭にありませんでした。

 だけどもヒルミー2世は「それではだめだ」と先代たちが無視していたその地区をどうにかすることを決意します。

 中世時代のカイロはイスラム建築に関して世界で最もハイレベルの街だったのですが、前述のとおり、それまでの総督が放置し続けたせいで、前世紀のイスラム建築は破壊し消え失せようとしていました。急速に修復しなければ完全に間に合わない状態です。

 ヒルミー2世もヨーロッパ(ジュネーブとイタリア)で教育を受け西洋の影響を強く受け成長しているのですが、彼の祖母は元々スーダンから連れて来られた奴隷女官で信仰に厚く、また母親もコンスタンティノープル生まれの非常に信仰の厚い女性でした。きっと彼女たちの影響が強かった可能性があります。
 フランスかぶれしていた他の異母兄弟の母親たちは全員白人系だったのに、ヒルミー2世だけが「黒人奴隷」の孫息子だったので色々あったのかもしれません。

 ヒルミー2世はアラブ芸術記念碑保存委員会を設立させると、彼らにイスラミック建築の保存を依頼し、ここでヘルツが大活躍をします。ほとんど情報もない知識もない時代の建造物の修復も完璧にこなしていきます。
 あのアズハルモスクの修復もユダヤ人(←あえて強調します)のヘルツが修復しました。アレクサンドリアのカイト・ベイ要塞なども100%ヘルツのおかげで、これは間違いなくヘルツがいなければとっくに消えています。

ヘルツの書いたアズハルモスクの修復工事プランの図


 アラブ芸術記念碑保存委員会のメンバーの半分はヨーロッパ人で構成されているものの、責任者はエジプト人の大臣でした。そのエジプト大臣はヘルツの実力、根気強さ、誠実さ、正確さ、熱心さにたいそう感心し、主導権と決定権をヘルツに与えていました。そのくらい信頼を寄せられたのです。

マックス・ヘルツの出版したスルタン・ハッサンモスクの建築本
これもヘルツが修復

 そして、委員会メンバーらはそれまでさほどやる気がなかったのものの、ヘルツの才能と技術により劣化し滅びる寸前だった建造物が次々に蘇るのを見て驚愕。その後、全員、本腰を入れヘルツに協力しイスラミック地区に息を吹き返らせます。
 ちなみにヘルツは個人的にネオ・マムルーク朝の建物が一番好みだったそうです。「ネオ・マムルーク朝建築って?」
という疑問には目を閉じましょう。

 これは言葉で言う以上に大変なことでした。なぜならイスラミック地区の建造物や記念碑はほとんど壊滅状態になっており、そもそもオリジナルの状態がどうであったのか資料が何もないのです。
 その上、予算は全く不十分であり、当時すでにオスマン帝国のエジプト州はイギリスの支配化に入っております。 イギリスは古代エジプト遺跡の発掘と修復には熱心でしたが、イスラム時代のそれらには基本的に力を入れていませんでした。そのため、委員会の活動は非常にやりにくいことが多々ありました。  

伝説のアラブ・イスラム建築のカタログ

 以前、ユリウス・フランツがアラブ博物館を設立していましたが、それは小規模なものでした。そこでヘルツが1887年にアラブ古代遺物博物館として大きく建て直しました。
 七世紀のウマイヤ朝のものから最近のオスマン帝国の美術品まで展示されたのですが、1600点を超えると手狭になり、彼はその博物館を別の場所に大幅リニューアル再設立させます。

 この時、ヘルツは博物館の二種類のカタログを製作。
それらにアラブ時代の美術品、建築の詳しい情報をフランス語で記しました。実際に修復を手掛けたヘルツしか書けない内容です。二つともその後、英語とアラビア語に翻訳され、今日でも非常に役立っています。

 同時代の人々がこのカタログを賞賛したのは、紹介されている品物の重要性や、その品物の説明のためだけでなく、カタログの各セクションに書かれたヘルツ自身によるエッセイのためのでした。 
 これらのエッセイは、コレクションに含まれるアラブ・イスラーム美術のさまざまな分野(石膏、石、大理石、モザイク、羽目板、マシュラビーヤ、象牙、木工、金属細工、扉、ガラス、陶器、織物、革細工など)を個別に扱っており、両版の序論では、アラブ・イスラーム・エジプトの歴史と建築についても簡潔な説明がなされている点が重要かつ貴重でした。

 なおヘルツの建てたこの古代遺物ギャラリー博物館は今ではもうありません。現在のイスラム美術博物館の建物はヘルツの建築ではありません。
 2014 年 1 月 24 日、向かいにある警察本部を狙った自動車爆弾により、博物館は深刻な被害を受け、多数の遺物が破壊されました。

 復元が必要なオブジェクトは約 20 ~ 30% であると推定されています。この爆発により、博物館の建物のファサードも損傷し、貴重なイスラム風のデザイン要素が破壊されました。同じ建物内にあるエジプト国立図書館も被害を受け、2017年に建て直しされています。放火OR爆弾はエジプトあるあるです。

 ヘルツはコプト教会の修復も手掛け、現在旧市街にあるコプト博物館もヘルツの作品です。

エジプトの母后はルーマニアから来た誘拐奴隷少女

 アッバス・ヒルミー2世もヘルツの奇才には感心をしており、そしてついに「アル・リファイモスク」の建設を依頼します。これはヒルミー2世の曾祖母のホシャールが生前、望んでいたモスクです。

 ホシャールは私の小説「エジプトの輪舞ーロンドー」シリーズの「エジプトの狂奏」(未完成)で非常に存在感のある役どころなのですが、

 ホシャールとはー
 もともとワラキア(現ルーマニア)の村出身の誘拐奴隷少女⇒コンスタンティノープルの奴隷市場⇒トプカプ宮殿(ハーレム)⇒エジプト総督へ献上される⇒エジプトの母后になる。
(*本来は総督の母=「母后」はおかしいのですが、わかりやすくそのように記述しました)

 ホシャールは自分のハーレムで働いていたあるスーダン人奴隷女官に目をかけており、息子のイスマイールと結婚させます。そして二人の間にタウフィクが生まれ、孫のアッバス・ヒルミー2世も誕生しました。アリ一族の中で恐らく唯一スーダン(黒人)の血が入った家系になります。

 ヒルミー2世が十歳になるまで曾祖母ホシャールは生きており、大変可愛がられていました。ヒルミー2世はホシャールを尊敬もしていました。
 その最大の理由が、エジプト人軍人のアフマド・ウラビーがイギリスに向かい大反乱を起こした時(イギリス=エジプト戦争に発展)、ホシャールはアリ一族の女達に号令をかけ、軍馬を提供しハーレムで看護し、とアリ一族の側室正室奴隷妾ら皆でウラビーのエジプト人反乱軍を助けました。

 それでも結局、勝ったのはイギリス軍で、これをきっかけにエジプトはむしろ完全なイギリス支配の開幕になってしまうのですが、しかしホシャールがウラビーらに協力した件は有名になり、彼女は「クィーン・パシャ」と呼ばれ(普通は女性にはパシャの称号はありません)、まさに女の英雄にもなりました。

 1904年、アッバス・ヒルミー2世はその尊敬する曾祖母が願っていた「アリ一族のための墓地のモスク建設」をついに開始しようと決意します。

 実はアッバス・ヒルミー2世の祖父、イスマイールがアル・リファイモスクを建ててあげようとしていたのですが、設計ミス、予算不足、ホシャール母后の口出しが多すぎた…よって工事が止まっていました。

 しかし25年の時を経て、ヒルミー2世は凄腕建築家のヘルツの率いる委員会に正式オファーし、いよいよ再び建設となりました。(それまでのアリ一族の墓はイマーム・アル・シャフィー・ドームにアル・パシャ王墓などあったのですが、それぞればらばらのモスクに安置されていました)

万事を期して、アル・リファイモスク建設

すぐ横には五世紀も昔の有名な建築のスルタン・ハッサンモスクがあるのですが、それとのバランスを考え、アル・リファイモスクはデザインされました。
スルタン・ハッサンモスク(左)、アル・リファイモスク(右) 5世紀の歴史の違いがありますが、そう見えません。見事です。

  ヘルツは周囲の古い建造物の壮大さに引けを取らない壮大なモスクを完成させます。1912年のことで、それがアル・リファイモスクです。周囲の古い歴史的建造物に非常に溶け込んでいるため、見ただけではこのアル・リファイモスクだけ五世紀も新しい建物だとは気がつきません。実際、このアル・リファイモスクは20世紀に建てられたモスクのうちの最高傑作一つと必ず名前が上がっています。

入口

 アル・リファイモスクの工事を終えたヘルツは、このモスクに関する素晴らしい小冊子を私的に印刷し、1912年4月6日の落成式で無料配布しました。アル・リファイモスクはエジプトだけでなく、イスラム世界全般における20世紀の近代アラブ・イスラム建築の発展の大きな宝と考えられており、この小冊子は今でもイスラム建築の最も重要な資料となっています。

アル・リファイモスクのファルークの墓ですが、この花?植物?草?に大笑いしました。
イランの皇帝(シャー)の墓。イラン人たちがよく花を捧げていました。私はいつも感心しました、花がまともなのです。テヘランに行った時も、ホテルなどに飾られている花の生け方がまともで「イランはアジアだわ」と感動しました。
ファルークの妹の一人がかつてイランのシャーと結婚しているのですが(その後離婚)、そのシャーは後のイラン革命でカイロに亡命しました。いつも↑こんなに華やかなわけではないですが、イランのシャーの墓だけこんなん…
ルーマニア出身のエジプトの母后ホシャールの墓。アル・リファイモスク建設の案を出した人物です
ホシャールの息子で、ケディブ(副王)イスマイールの墓。国外追放され、コンスタンティノープルで亡くなった後、アル・リファイモスクに安置されました。
イスマイールがパリから連れて帰ったフランス人側室のファリエルの墓。(元のフランス名は不明)
イスマイールとファリエルの息子ファード(=ファルークの父)の墓。なお、どの墓も簡素なのは、しょっちゅう墓の装飾品(ランタンとか金銀の装飾品など)盗まれているからです。

オスマン帝国領エジプトの終焉


 1914年、第一次大戦勃発。
イギリスは敵対した国の人間全員をエジプトから追放します。この時はまだエジプトはオスマン帝国に属する州であったのに、なぜイギリスが宗主国を差し置いてそんなことをする権限があったのか、これは完全におかしいのですが、実際それは起こりました。

 マックス・ヘルツは再度言うとユダヤ系ハンガリー人です。当時はまだオーストリア=ハンガリー二重帝国ですが、第一次大戦でイギリスと敵対します。
 そこで1915年、彼も財産全て置いていくようにイギリスに命じられ、着の身着のままで妻子とエジプトを追放されることになりました。
 もしこの追放がなければ、恐らく彼はもっとエジプトの古い建造物などを修復し続けていたでしょう。
 
 ヘルツの国外追放について手を差し伸べられる者は皆無でした。この一年前にアッバス・ヒルミー2世はすでにイギリスにより廃位させられていたのです。理由は一言で言えば反英主義です。

 アッバス・ヒルミー2世はその時ちょうどコンスタンティノープルに滞在中でしたが、国外にいる間に一瞬で称号だけではなく、財産全ても奪われます。そして二度とエジプトには帰れないまま(入国禁止令まで設けられていました)、1944年ジュネーブで永眠します。

 しかし第二次大戦後、エジプト最後の国王(この時はもう「エジプト王国」にまた変わっており、よって統治者の称号はスルタンではなく、国王)のファルークがアッバス・ヒルミー2世の遺体をジュネーブから帰還させ、アル・リファイモスクに安置してやります。非常に立派な墓です。

「アッバス・ヒルミー二世のおかげで、アリ一族の墓地となるアル・リファイモスクの建設および完成が叶った。そのヒルミー2世の墓がアル・リファイにはないのはおかしい」
 ファルークの熱意でした。妻のファリダ王妃はそれを見ていました。

ユダヤ人マックス・ヘルツの追放

 ハンガリー人のマックス・ヘルツに話を戻します。
ヘルツの妻がイタリア人だったので、彼は妻の親戚を頼りミラノにしばらく住みます。
 しかしイタリアではエジプトの年金を受理できなく(イタリアも参戦したので)、そこで中立国スイスへ渡るのですが、船の中でまだ17歳だった息子が感染症にかかり(コレラ感染?)、息を引き取ります。

 ヘルツは息子の墓を自分で設計しますが、悲しみのあまり気がおかしくなり、胃もやられ外科手術を受けます。しかし手術の失敗だったのか、麻酔が入ったままの状態で死亡。その後、ミラノのユダヤ人区画の墓地に息子の墓と並んで埋葬されます。1919年でした。

 ヘルツには娘もおり、彼女はわりと生き延びたのですが、1930年代にアウシュビッツで亡くなります。((ユダヤ人ではない)ヘルツのイタリア人妻はアウシュビッツには収容されず、1949年に死去)

 ムハンマドアリモスクではなく、アルリファイモスクがお勧め

10エジプトポンド札にもアル・リファイモスクが印刷(上下)

 日本のエジプトツアーではほぼ100%、アル・リファイモスクには訪れず、ムハンマドアリモスク(ムハンマド・アリが23歳でペストで死んだ息子の墓を安置するために建てたモスク。前王朝の王宮を破壊して、あえてその土地に息子の墓を安置するモスクを建設)に行きます。

しかし、私の個人的意見ですが、あのイスタンブールのブルーモスクの劣化版としか思えない酷いムハンマドアリモスクに行くなら、アル・リファイモスクの方が建築美術が実に素晴らしい。
 ムハンマドアリモスクは高台にあるので、カイロの街を一望できるのだけは最高ですが、それだけです。(私の意見です)

私の持っている「ナショナル・ジオグラフィック」のエジプトガイドブック。アル・リファイモスクの記述がこれだけ(苦笑)↑↓

 アル・リファイモスクにぜひ足を運び、ムハンマドアリ王朝に想いを馳せてみてください。
 そしてエジプト人観光ガイドが決して「ユダヤ系」ハンガリー人のマックス・ヘルツがイスラミック地区を救い、アル・リファイモスクを建てた事については頑なに触れない案内(!)に耳を傾けてみてください…。

マックス・ヘルツのデザイン

ヘルツの建築についての詳細サイト:



 

 

 

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