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ウィスキーと青酸カリ、深夜の満州

 (トップ画像は家にあった昭和13年発行の朝日の雑誌のサントリー広告ページ。「ウ井スキー」….)

 先日、代官山に生まれて満州、そして下北沢 の記事で端折った部分ですが、ちゃんと書いておきます。1945年の敗戦直後、満州でウィスキーが少女たちの命を救った話です。

 ※約百歳の老婦人(仮名大連さん)の話をそのまま要約しています。大連さんのお話は御本人とご家族の承諾の下、全て録音しています。名前など伏せる約束で公に出すことも了承をいただいています。
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 大連さんー父親の赴任で満州へ渡り、各地を転々とし今の北朝鮮にも在住。二十歳前後まで向こうで生活していたので、記憶が鮮明に残っておられます。

 大東亜戦争が激しくなり、女学生の大連さんは◯◯の山奥(◯◯部分は録音したヴォイスレコーダーで確認せねばなりません。何しろ長時間のインタビューで、途中死んだ夫の悪口も始まったりしたので、再生して聞くのがちょっと大変🤣)に日本軍に連れて行かれました。

 その女子学生の中には「第二日本人」こと朝鮮人の同校生も大勢いました。前々から日本人と第二日本人の違いなど全く無かったので、こういう時も公平に一緒に連れて行かれたそうです。(中国人への差別は確かにあったし中国人は別の人種という認識だったが、日本人朝鮮人は同じであるという感覚で、両者の間に隔たりはなにもなく全て同等だったとのこと)
 
 山奥に到着するとそこには何もありません。女子学生たちはキョトンとしました。
「工場なんてどこにもないじゃない」
 すると地下室に案内されます。驚きました。地下に広大な火薬爆弾工場があり、これから毎日ここで火薬爆弾を作れと、命令されます。
 しかし、そう簡単に言われてもひきつります。何故なら地下なので窓がなく換気も悪いです。案の定、そんな場所でマスクもなく火薬爆弾を作らされ、具合の悪くなる女の子は多発しました。

 寮は地上の建物でしたが、四畳一間に女の子二人で生活することに。清潔感はあり普通の建物だったそうです。
 大連さんのルームメイトは第二日本人の女の子で、ちょっと日本語に訛りがあったけれども励まし合いながら仲良く共同生活を始めました。毎晩寝ながら色々なことを語り合い、親友になっていきます。(少なくとも大連さんはそう思っていました)

 食事はちゃんと出ていました。足りなくて飢えるということはなかった。ただし生理だけは困り、脱脂綿を何度も手洗いし使用していました。軍人たちの暴力や罵声などもなく、威張り横柄というのはなかった。少女たちはひたすら劣悪な環境(地下)にて、(鼻から吸い続けると危険な)火薬爆弾を黙々と(マスクもなしに)作り続けるだけだったそうです。
 
 ある日、工場の前に数台のトラックが来ました。すると一斉に第二日本人の女学生たちがそちらへ走って行きました。彼女たちはすでに支度を終えておりました。
 大連さんたちは呆気にとられます。その後に日本が負けたことを知りました。この日はそうあの年の8月15日でした。
「おそらく情報の速い朝鮮人ネットワークがあって、あんな山奥だったのに彼女たちは私たちよりもいち早く日本敗戦を知り、素早く迎えが来たのです。なぜなら私達とそこに残っていれば、一緒になってソ連兵に連れて行かれるかもしれないことを知っていたからでしょう」
 大連さんと同室だった第二日本人さんは別れの言葉もなく、素早く消え去りました。

 その次に今度は火薬爆弾工場の日本人軍人が一気に去って行きました。逃げたのです。女の子たちを置き去りにして。ソ連軍がすぐにやってくることも分かっていたのに(だから逃げたのですが)、少女たちを見捨てました。
 しかしまだ数名の軍人はまだ残っており、そのうちの一人が女子学生全員に青酸カリを配布し、今ここでそれを口に入れて自決するよう命令しました。こうなった時には少女たちを処分することを命じられており、事前に全員分の青酸カリのストックがあったのです。

 唐突に死ねと言われても、はい分かりましたと大人しく従えません。少女たちは躊躇し互いに見つめ合っていると「さっさと口に入れろ」と怒鳴られます。
 するとスズキ大尉(仮名です。命の恩人なので大連さんはこの大尉の本名は今でもはっきり覚えておられます)が血相を変え飛んで来て、それを命じた同僚を怒鳴りつけ全員に青酸カリ服用を禁じます。その後、青酸カリを命令した軍人も逃げてしまいますが、スズキ大尉ただ一人は残ります。
「君たちを置いていかない」
 (しかしその後スズキ大尉もソ連軍に連れ去られそれっきりに)
 
 命はスズキ大尉のおかげでこの時助かりましたが、とは言えソ連軍がやってくるのは時間の問題です。彼らがやって来たらどうなるのか分かっています。どうしようどうしよう、、、大連さんをはじめ女の子たちはみんな青酸カリをお守りのように肌見離さず持ち歩きました。

 そんなある夜ー
突然男たちがやって来ました。
「ああソ連兵が来た、もう駄目だ。青酸カリを飲んで死のう」
 女の子たちはそう思いました。大連さんの部屋のドアもいきなり開きます。大連さん、心臓が止まりそうになります。
「ああソ連兵が来た!もう駄目だ」
 ぎゅっと目をつぶり震えます。ところが耳に入った言葉が
「迎えに来たぞ!」
 日本語でした。

これも昭和13年発行の朝日の雑誌より。
↑ビールもジュースの銘柄も今でも存在するものばかりで驚きました。


「迎えに来たぞ!」

 山奥の火薬爆弾工場の女子学生集団の救助計画の発起人は大連さんのお父さんでした。
  大連さんお父さんは日本人男性たちに
「自分が死んでも誰か困ることのない男だけ募集する」
と話しました。
 すると予想以上に大勢が手を挙げ、山奥の女子学生たちを救助することに協力すると名乗りあげてくれました。

 大連お父さんの計画はこうでした。
まず中国人の偉い人に満鉄列車を動かす許可書をもらう。その中国人の偉い人(八路とは関係のない中国人)と大連お父さんは前から親交があり、すでに協力を了承してくれているといいます。
「動かす列車は一両しかないあの電気列車だ」
 それには理由があり、車両一両だけしかない方が目立たない。またその車両一両電気列車はもともと貨物運搬専用。なのでそれが走っていても、一見人を運搬しているとは思われにくい。

 ただし最大の問題は線路に沿って点在するソ連軍の検問所でした。中国の通行許可書をもらえていても、果たしてソ連兵が大人しく自分たちを通してくれるか、、、。

 そこで大連お父さんの計画では
「各検問所で揉めたら、このうちの誰かが犠牲になる。その人間が射殺されている間、列車を進ませる」

 だから身寄りのいない、妻子がいないような大人の男たちの希望者を募ったのです。そして男たちは殺される犠牲になる順番を決めていきました。年寄が先に犠牲になることにしました。体力のある若い男が生き残る方が女子たちの救助に役立つのは間違いないからです。

 ところで、なぜこの記事タイトルに「ウィスキー」があるのか、、、、
ここからです。もう少しお付き合いください。

 救助決行日ー
 男たちが集まりました。するとそこに見たこともない男の顔があります。誰も知らない男です。
 リーダー格の大連お父さんが眉をひそめました。
「あなたはどなたですか?」
 見た目は四十ぐらいで細くて飄々とした感じで、どこか雰囲気が満州の日本人とは違っています。服装など同じなのですが、なにか「匂い」が異なります。
「私はソ連から来ました」
「えっ?」
 その男はにこにこしこう言いました。
「私はね、実はロシア語と日本語がべらべらなのでソ連軍に雇われているのですが、今回の計画には私も協力します」
「なぜ縁もゆかりもないあなたが力を貸してくれるのですか?ばれたらあなたこそ危ないでしょうに」
「なあに、少女たちに同情を寄せたのとあなたたちの計画を知り心を打たれたからですよ。しかも自分の命と引き換えに救助しようと手を挙げた者たちの大半が、その少女たちとは関係ない人々なんでしょ?びっくりですよ。
 なのでちょっとばかし、私も手を貸したいなと思ったんですよ。だから私を仲間に入れなさい。ロシア語を話せる人間がいるといないのでは計画成功に大きく関わりますよ」

 大連お父さんは半信半疑で悩みますが、不思議と何かその謎氏には頼もしさが感じられました。
 もっとも仲間たちには
「あいつはどこの馬の骨かも分からない男だ。第一ロシア語べらべらというのが怪しい。やめたほうがいい」
と止められます。しかしお父さんは自分の勘を信じ、その謎氏を受け入れます。確かにロシア語が話せる人間がいた方が成功するのは間違いなかったからです。
 なぜなら既に述べたとおり、至る所にソ連兵の検問所があり、大連お父さんの計画では各検問所に着く度に、大人の男性の誰かが囮(犠牲)になってその隙に、、、というものでしたが、全員死なずにすむならそれに越したことはありませんから。

 そして一両しかない電気列車を明りを付けずそろりそろり動かします。中には満鉄技術部門責任者も乗っていました。ちなみに満鉄技術部門責任者は今の東工大の前身の工学学校を出ていたのだそうです。

 最初のソ連兵検問所で案の定、列車は止められました。トップバッターで犠牲になることを決めていた年配の男がそちらへ死ぬ覚悟で行こうとします。すると謎氏がその年配者の腕を引っ張り止めました。
「まあまあ、私に任せてください」

 どのくらい経ってか、その謎氏は車内に戻ってきて
「さあ列車を出してください」
 全員狐につままれた表情です。
「一体どういうことですか?」
 誰かが聞きました。すると謎氏は事前に何やら持ち込んでいた大きな荷物を見せました。男たちはその中身を覗きました。びっくりしました。たくさんの日本製ウィスキーの瓶が入っていたのです。

「やれやれ、あなたがたは何かとすぐに命と引き換えにと言いますが、いやいやまずはウィスキーと引き換えにというのが先だというのを覚えておいてください。いいですか、物事にはまず交渉。それにはウィスキーが必要。死ぬのは最終手段です」

 次のソ連軍検問所でも謎氏はそこの兵士にロシア語でべらべらとフレンドリーに話しかけ、ウィスキーの瓶を上着の中から出して
「一緒に飲みましょう」とウィスキーを飲ませ酔わせました。
「その列車には誰を乗せているんだ?」
 ソ連兵に聞かれましたが、
「ああ貨物ですよ、ほらね、中国の許可書もご覧のとおりです」
 そう答えながら日本製のウィスキーをさらにぐいぐい飲ませます。
「分かった分かった。その代わりこのウィスキー瓶は置いて行け」

 余談ですがここでちょっと私自身の思い出ですが昔、カイロで働いていた時ー
 ある日本人要人のためにイラクの入国ビザを欲しいことがあってエジプト人スタッフに
「イラク大使館に行ってくれない?」とお願いをしました。
すると
「分かりました。では日本のウィスキーと日本の腕時計と日本のペンとライターを用意してください。特に日本のウィスキーは絶対必要です」
 私は言われた通りに全てを用意しました。すると案の定、すぐにヴィザが下りました。大連さんの話でそのことを思い出しました。日本のウィスキー、最強です。

 話を満州に戻します。
 お父さんをはじめとし、日本人の大人の男性集団が助けに来てくれたことが分かり、大連さんら少女たちは泣いてへなへなとなります。
「めそめそしている時間はない。15分しかない。急いで支度しろ」

 急ぐ理由は日が昇る前の目立たない時間帯でなければならなかったこと。すぐに電気列車が戻っていないと怪しまれること。さらに一番厳しく恐ろしい満州におけるソ連軍の責任者のA将軍が今夜だけ満州不在中で、そのA将軍將軍がいないうちに計画を遂行し終えたかったのです。

 あまりにも突然のことなので、大連さんはリュックサックに枕を入れてしまいます。もっと大事なものがあったはずなのですが、その枕は火薬爆弾工事に行く時に母親が手作りをしてくれた愛情のこもった枕だったので、無意識にそれだけをリュックサックに入れてしまったのです。

 女子学生は合計46人いました。列車は40人乗りでしたがそれにぎゅうぎゅう詰めに乗ります。明りはむろん消したまま、暗闇の中少女たちは髪の毛を丸坊主にされていき、こそこそ男子服に着替えるように大人たちに言われます。万が一車内の中をチェックされた時に、少なくとも年頃の女の子たちを乗せているとばれないほうがまだ安全だからです。

 とある検問所のところで、大連さんはこっそり列車の中から外を覗きました。すると機関銃を背中に背負うソ連兵相手に謎氏が何やら笑い声をたてながらべらべら話し、ウィスキーをぐいぐい飲むように勧める場面を目撃しました。
「あれはとても驚きました。一生忘れない光景でした」

 なお大連さんたちは、みんな顔の肌の色が白かったので、大人たちは
「色が白い日本人男子はいない。色を見ればすぐに女子だとばれる。街に到着できたらみんな、ちゃんと太陽に浴びて真っ黒になりなさい」
と言いました。なのでその後、大連さんも無理やり太陽に当たり一生懸命日焼けをしたそうです。

 謎氏のおかげでこの深夜の電気列車護送は無事成功しました。その後、謎氏はするっとどこかへ消えてしまい、二度と誰も会うことがなかったそうです。結局最後の最後まで何者だったのか分からないままでした。

 大人たちもへなへなです。計画が成功し全員でバンザイです。
だけども、結局ソ連軍にこの時の男性たちは連行され、一人とてその後生きて帰ってきませんでした。なお大連さん父だけは、(八路ではない)中国人要人の懇意のおかげでソ連軍に連れて行かれずに済みました。
 また大連さんと一緒に深夜の電気貨物列車で脱出した少女たちの多くもソ連兵に連れて行かれそれっきりでした。数名は街中または自宅でソ連兵に乱暴をされました。
 日本より迎えの船が来なかったのは、大連さんの見解では
「日本政府は好きで満州に移住した日本人よりも、日本軍に命令されて南太平洋ほうぼうの戦場へ行かされた徴兵の若者たちの救助を優先した、そっちに必死だったのだと思います」。

 ある時、大人たちがこんなことを会話しているのを耳にしました。
「中国本土の方は蒋介石が動いて日本人救助のための船を動かした。いいよなあ」
「ああ蒋介石は日本の士官学校を出ているから、日本人に親切なんだよなあ。羨ましいよねえ。満州の日本人はもう見捨てられたな」
 大連さんはそれを聞きながら肌見放さず持ち歩くお守りを握りしめました。そのお守りの中には火薬爆弾工場で渡された青酸カリを入れており「これを飲む時が来るかもしれない」と思っていたため、捨てられずにいましたが、この時
「青酸カリはやっぱり持っておこう」と決心しまたお守りの中にそれをしまいました。

 大連さん(まだ二十歳にはなっていません)は丸坊主で男の格好をしたまま、わざと日焼けしまくり真っ黒になって男のように振る舞い生活をします。もともとペチャパイでお尻もぺったんこだったのも良かった(!)ようですが、それでも中には
「あれは実は女じゃないか?」
と疑うソ連兵もいました。しかしその都度、近所の中国人たちが(実は大連さんが女子というのを知っているのに)
「いやいや、あれは男だ。昔からよく知っている、あれは男だ」
と嘘を言ってくれました。

 家にはしょっちゅう赤系ロシア人兵が強盗にやって来ました。大連お母さんは食器棚の蓋付き茶飲み茶碗の中に宝石を隠していたのですが、彼らは机の引き出しや倉庫、ベッドの下、クローゼットの中しか荒らさず、茶飲み茶碗の蓋を開けなかった。なので宝石は一つも取られませんでした。ただしネクタイと腕時計はすべて持って行かれました。

「赤系(セキケイ)ロシア人と白系(ハッケイ)ロシア人は顔を見ればどっちがどっちか一発で分かるほどの違いがありました。まず白系ロシア人は何度も申し上げたとおり、男も女も全員美形でした。そして話し方も洗練され仕草や行動にも品がありました。日本人にも友好的でした。
 かたや赤系ロシア人は白人でも顔が悪く、無教養で粗野で乱暴、パッと見た目からして野蛮でした。
 それにソ連軍の兵士、つまり赤系ロシア人は腕時計など持っていなく、持ったこともない人種でした。なので時計の読み方も分からなければ当時はねじ巻き式だったのですが、時計が止まると「ああ壊れた」と捨ててしまう。ねじ巻き式を彼らは知らなかったのです。
 彼らがぽんと投げ捨てる腕時計を父は拾いネジを巻き、机の上に置いておく。すると翌日またソ連兵が現れ
「なんだ、壊れていない腕時計をまだ持っていたんじゃないか」と嬉しそうに満足しそれをまた自分の腕にはめて大人しく出て行く。
 この繰り返しでした。そうそう彼らはいつも腕に十本ぐらいの日本製の腕時計をつけていて、動かなくなった時計はすぐに外して放り投げていたわねえ」

 大連さん一家は裕福な家だったので貯金はかなりあったのですが満州銀行、満州保険会社、満州株式会社全て倒産し、そもそも満州国の貨幣自体もはやただのゴミです。
 なので大連さんは路上で上質な着物販売をします。ソ連兵は着物には一切興味がなかったので手をつけていません。すると中国人だけは親切で好意で高く買い取ってくれ、また中国人の商店が大連さんをこれまた好意で雇ってくれ給料を支払ってくれました。

 大連お父さんは大工の日雇いの仕事を始めました、もともと浅草の宮大工の息子(大連さんお父さん)で、実は大工仕事を手伝って育っていましたから、大工の仕事も出来たのです。満鉄の超エリート幹部が日銭暮らしの大工になったわけですが、生きていくのに必死です。

「ソ連人全員非道に聞こえますが、中にはいい人がいて、こっそりと飢えている日本人に食事を恵んでいた人々もいたようですが、全体的に赤系ロシア人はみんな残酷でめちゃくちゃでした。
 しかし何度もお伝えするとおり、ロシア革命で追われた末裔の白系ロシア人はまるで違いました。本当に美しかった白系ロシア人はむしろ私達の憧れでした。そして白系ロシア人たちも私たち日本人と同じ仕打ちをされずいぶん赤系にしょっぴかれていき悲惨な目にあい、かなり大勢殺されました。

 それから、とにかく私の周囲の中国人はみんな親切だった。なので中国人たちには感謝しかありません。特に八路ではない中国人のあの人たちが私達をどんなに助けてくれたのか、、、。
 慰安婦のごたごたがニュースで出て来た時、最初当時を知る朝鮮人たちが私達のために証言をしてくれたのかと思いました。なぜなら大勢の日本人女の子はどれだけソ連兵に乱暴をされていたのか、朝鮮人たちも見ており知っていましたから、私達のために立ち上がってくれたのかと思いました。
 第二日本人であった彼らはとても優遇されていましたし、我が家の周囲もいいお家に暮らす第二日本人の家族が多かった。あの人たちはなにもかも私達と同じでした。とにかく女学校でも大勢の仲の良い第二日本人の女友達がいました。本当に仲良くしていました。だから本当に驚きました。

 敗戦前の話に戻しますが、第二日本人だけではなく、私たちはロシア人モンゴル人中国人ともみんなでよく遊んでいました。言葉は通じませんでしたが、日本の子どもと全く同じ遊びをしていました。幼い時はおいかげごっこ、かくれんぼ、、、とても楽しかった。
 特に白系ロシア人の子どもの家に遊びに行くと、もうどこもお洒落な家ばかりで私はびっくりしました。食事も美味しかった。
 敗戦後、私たち日本人が中国人朝鮮人に復讐されただろ、とよく言われますが、そんなことをされたことは全くありません。日本人学校を奪われたり、多少嫌がらせがあるだとか、わざと日本語を通じないふりをされるぐらいでした。そもそも日本人軍人も映画やドラマではかなり脚色され大げさに描写されているように思います。
 ロシア人=全員残忍のように言われるのにも抵抗があります。赤系と白系では大きく違うことを私ははっきり言います。繰り返しますが白系ロシア人で嫌な人は一人もおらず、大変皆さん親切でした」

 敗戦から一年経ち、ようやく日本の船が迎えに来ました。
「やっと脱出できるぞ。貴重品をリュックサックに詰めなさい」
 大連お父さんがそう言いました。しかし大連さんは困ります。貴重品なんかもはや何もないからです。仕方ないので写真やまだ手元にある〈女物の〉着物だけをぐちゃぐちゃにリュックサックに押し込みました。男の服は着ているもの以外すべて置いていきました。二度と男装をしたくないし、一生もう男装はしない、、、その決意の表れです。

 「列車に乗り、大連へ向いました。大連はいつだって日本との全ての船の窓口でした。
 大連の港まで歩くと、私はふと首にぶらさげていたお守りを服の外に出しました。そしてそのお守りの中を開封し、ずっと中に入れていた青酸カリを取り出しました。
 手のひらの上にある青酸カリを見つめると、私はそれを放り投げました。と、見張りで近くに立っていたソ連兵が地べたに落ちた私の青酸カリをサッと拾いました。
『あっ、食べちゃうかも』
 口に入れちゃだめと伝えてあげようかなと思いました。だけどもその時、自分を呼ぶ両親の声がしました。私ははっとし、青酸カリを手にしたソ連兵には何も言わないまま踵を返し両親の方へ走って行き、出国審査を抜けその先に停泊する日本行きの日本の船に乗りました」

 
 余談ですが青酸カリを服用する一歩手前だったことと、青酸カリをずっと持っていたことは最後の最後まで両親には打ち明けていないそうです。(言えなかった)

 War isn't overの世界ですが、ハッピークリスマス。
(一気に書く内容だなと思い、前編後編に分けず書きました。長くなってごめんなさい)

何だか笑いました

 

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