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エルサレム征服・ハバナギラ(歓喜の歌)の誕生〜トーマス・クックシリーズ ⑰

外務省 1917 年 11 月 2 日
親愛なる(ライオネル)ロスチャイルド卿へ

私は英国政府を代表し、ユダヤ人シオニストの願望に同調する以下の宣言を閣議に提出し、承認されたことをお伝えできることを大変嬉しく思います。

英国政府は、パレスチナにユダヤ人のための民族の故郷を建設することを好意的に受け止めており、この目的の達成を促進するために最善の努力を払うつもりです。

この宣言をシオニスト連盟に知らせていただければ幸いです。                  

        (イギリス外務大臣)アーサー・ジェームス・バルフォア


アレクサンドリア港に到着した男(1925年)

 1925年3月23日月曜日午後4時。
 アレクサンドリアの港にイギリスからアスプリア号の船が到着しました。

 この時代、世界一の造船技術は日本とイギリスでした。島国のいずれも飛行機開発よりも、船の開発に力を注いでいたからです。横浜港ではイギリス船、オランダ船、日本の船を中心に、続々と船が発着しており、「進水式」も行われていました。

 どの船にも「女性の名前」がつけられているのですが、各船の女性名を口々にしシャンパンボトルを割り、出航させる儀式です。
 シャンパンの泡が海にはじき飛ぶ光景はとても美しく、息を飲むものでした。だから進水式には大勢の見学者が毎回つめかけていました。

 エジプトのアレクサンドリア港にも多くの国内外の船が出入港しており、それらの船の名前は「海の女王」「ビーナス」「エルメス」「ジュピタ
ー」…。やはりこの港でも進水式は行われており、いつも大勢のアレクサンドリアっ子が見物に集まり、賑わっていました。

 1925年3月23日月曜日午後4時に戻ります。
 
イギリスからアスプリア号船が到着すると、港に大勢つめかけていたエジプト人たちが大声で騒ぎ始めました。
 しかし、今回は人々が押し寄せているのは、進水式が行われるからではありません。抗議と怒りの表明で、群衆が集まっていたのです。

 その船からアーサー・ジェームス・バルフォア英外務大臣が降り立つと、抗議の声が一気に大きくなりました。

 しかし、万全な警備体制の中、周囲のブーイングを無視しすうっと下船するバルフォアのもとへ駆け寄るある人々がいました。エジプトのシオニスト組織のユダヤ人代表団およびフリーメイソンのユダヤ人メンバー、それにラビが率いるユダヤ人学校の学生たちです。

 港ではそのままバルフォアのエジプト上陸を歓迎するセレモニーが開かれました。それは約2時間続きました。

 その後、厳重体制に囲まれたバルフォアは、特別装備の列車でカイロへ向かい、イギリスのエドモンド・アレンビー・エジプト司令部指揮官のヴィラ(邸宅)に滞在しました。

 カイロに到着すると、そこものものしいこと雰囲気に包まれており、例えばオペラ座の隣にあるエズベキーヤー公園では、バルフォアに対する大規模な抗議デモが展開していました。

 カイロオペラ座(*1970年代に燃やされています)の横にあるエズベキーヤ公園は約四十年前に、イギリスがエジプトからスエズ運河を奪い取るため、当時の副王を強引に廃位させ国外追放にしたのですが、その副王だったイスマイールが作ったパリの公園と瓜二つのフランス庭園です。

 エジプト警察はエズベキーヤ公園に乗り込むと、発砲しながらデモの首謀者らを捕まえ、見せしめとしてその文字のごとく、彼らを街中にひきずり回しました。

 反バルフォア・デモの首謀者らを署へ連行すると、彼らが主張した弁護士の要請と保釈金支払いの申し出を無視し、所有していた書類やたばこまで没収。そして彼らを劣悪な拘置所に翌朝まで閉じ込めました。

 一方、エジプトの最大手新聞社「アル・ハラム」には、エジプト中の国民からバルフォアのエジプト入国を受け入れた政府への抗議を訴える電話が鳴りやみませんでした。

 その内容はどれもこれも
「私たちはバルフォアの不当な宣言を非難します」
「非難すべき約束によって自由を破壊された国に支持します」

 いずれも同じ意見ばかりでした。

 バルフォア英外務大臣は短いカイロ滞在を終えると、鉄道に乗りパレスチナへ向かいました。ただし事前にエジプトからパレスチナに装甲騎兵連隊をそちらへ派遣していました。

 そうしてパレスチナに入ると、まずシオニスト居住地「カラ」を訪れ、そこでゆっくりと優雅な昼食をとった後、側近と共に「ヤッファの近くに建設された現代のユダヤ人の都市」である春の丘市こと、新しい街テルアビブへ移動しました。

 テルアビブの街では、すべての家や建物が英国とシオニストの旗で飾られており、歓迎ムード一色の圧巻でした。
 それだけではありません。大勢のユダヤ人の群衆がバルフォアの顔写真入りの垂れ幕や写真を手に持ち掲げて、出迎えに殺到していました。

 しかもです。バルフォアを迎えるために、150人ほどのユダヤ人青年が「警備志願兵」に立候補していたくらいです。

 今回、バルフォアがテルアビブにやって来た最大の理由は、ヘブライ大学の創立祝賀会に出席し、再度「バルフォア宣言」を明言するためでした。

 この祝賀会にはファード大学…のちのカイロ大学の理事長アフマド・アルサイードも招待されていました。

 アルサイードは「アラビア語世界のおけるプラトン」「アラブの哲学の父」と評される大物哲学者で、エジプトの宝です。

 だから、エジプト人たちは氏の出席に反対をし抗議をしていたのですが、おそらく英国政府から圧力がかかっていたのでしょう。アル・サイードはテルアビブ大学創立を祝うセレモニーに出ざるをえませんでした。

 バルフォア英外務大臣はハイファの街では多くの権力者に会い、彼らと食事も共にし二週間そこに滞在したのち、次はしれっとシリアへ移動しました。

 後年、このバルフォアは南アにおける中国人奴隷の解放(中国から南アへの奴隷輸出阻止)、エジプトにおけるスーダン人とルーマニア人らの奴隷売買阻止活動に尽力を果たしたことについては、何も言っていません。

 だけども、エルサレム建国に関わる自身の「バルフォア宣言」の一連については後悔とも取れる発言をしていたとも言われています。(*複数説あり)

 もしそれが本当ならば、後年バルフォアはもし…もし「ハバ・ナギラ」の音楽が演奏された1923年のヘブライ大学創立祝賀会に出席した時のことを思い出すこともあったならば、どのように回想したことでしょうか…。

「エルサレム征服は英国民へのクリスマスプレゼントになった」(1917年)

 バルフォア英外務大臣がエジプト・パレスチナを訪れる数年前ー

 パレスチナにおけるユダヤ人入植者が凄まじい勢いで増えていることに苛立ちを募らせた宗主国のオスマン帝国は、ユダヤ人大虐殺を企てることにしました。

 前のスルタン・ハミド2世の時代には、アルメニア人の大虐殺が行なわれていました。

 このジェノサイドにより、ハミド2世は「異教徒であり(*ムスリムもいましたが)、ロシア寄りで、反抗的だったアルメニア人」の数を一気に減らしたわけですが、この時、逃げることに成功したアルメニア人はエジプトのアレクサンドリアに向かいました。

 エジプトもオスマン帝国の領土でしたが、自治権があったので、同じ領土でもパレスチナよりも遥かに安全だったからです。

 それはともかく、オスマン帝国新政権は、今度はユダヤ人抹殺を計画しました。
 このことを知って仰天したのは、ドイツのファルケンハイン将軍と彼の参謀でした。

 ファルケンハインらは親ユダヤ派というわけではなかったのですが、人道的に見過ごすことはできないとし、オスマン新政府に圧力をかけ、その恐ろしい計画を阻止させました。

 その結果、大勢のアルメニア人の命が救われ、そのうち約1万6000人のロシア系ユダヤ人がかつてのアルメニア人同様、エジプトの国際都市アレクサンドリアへ逃げのびることに成功しました。

 この話が明るみに出たのは第二次大戦以降です。なぜならナチス・ドイツがファルケンハイン将軍らがユダヤ人たちを助けたこの件を闇に葬り、隠蔽したからです。

 
話は変わります。
 1917年6月27日。


 イギリスのエジプト遠征軍の新しい司令官であるエドモンド・アレンビー将軍が夫人同伴でカイロに到着しました。

 アレンビー将軍はエジプト遠征軍の再編成の後、シナイ半島を抜けてシリアとパレスチナを侵略。(フランス軍の役割も重要ですが、長くなるのでフランス軍のくだりは全カットします)

 そして同年11月。今度はガザへ侵攻し、オスマン帝国のトルコ人軍隊に対して決定的な勝利を収めました。

 その勢いに流れを任せ、次にエルサレムへ迫りますが、アレンビー将軍は苦悩しました。

 というのは
「エルサレムで敵軍が待ち受けていても、一切発砲して聖都を破壊してはならない。しかしクリスマスまでにはエルサレムを制覇するように」
 
こんな無理難題をジョージ・ロイド英首相に命じられてしまっていたからです。

 そんなことを言われても、エルサレムでドイツ軍およびオスマン軍が迎撃してきたら大砲を放ち銃撃戦にならざるをえず、教会など宗教建物や遺跡に損害を与えないわけにいかないではありませんか。

 困ったアレンビーは考えに考えました。
「最初から敵に白旗を上げさせるしかあるまい」

 そしてある作戦を思いつきました。飛行機ビラ巻き作戦です。

 飛行機を飛ばし、エルサレムの上空からアラビア語で書かれた「降伏せよ」のメモをばらまくことを思い付いたのです。しかも、それには「アル・ナビよりのメッセージ」と書かれていました。アル・ナビとは預言者の意味です。

 ライト兄弟が飛行機を発明したのは1903年でしたが、1917年当時、エルサレムの人々もオスマン帝国の軍人もまだ飛行機を見たことがなかったので、それが上空に飛んできただけで人々は度肝をに抜かし、しかも空からばらかまかれは紙には「アル・ナビ(預言者)」…。

 慌ててオスマン帝国軍は急いでエルサレムから逃げ去りました。1917年12月8日です。

 オスマン帝国・トルコ軍はさっさと退散しましたが、ドイツのファルケンハイン将軍はぎりぎりまで苦悩していました。
「イギリス軍に迎え撃つかどうか…」

 ファルケンハイン将軍も聖地の宗教遺跡と建物に敬意を持っていたため、イギリス軍をやっつけたいものの、聖都を戦場にすることに激しい抵抗を感じたのです。

 さんざん悩んだ結果、
「やはり聖地を戦場にすべきではない
 
 そこで結局、ドイツ軍をエルサレムに配置させませんでした。

ドイツのエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン将軍
アル・アクサ(岩のドームのモスク)に立つドイツのエーリッヒ・フォン・ファルケンハイン将軍とシリア・パレスチナのトルコ総督ジャマル・パシャ、1917年。(議会図書館所蔵)

 オスマン帝国・トルコ軍は恐れをなし逃げており、ドイツ帝国は聖地に畏怖の念と敬意を持ち、あえて軍の配置をさせなかった…。

 よって、アレンビー将軍がイギリス軍を引き連れエルサレムに到着すると、そこはもぬけの殻で、唯一姿を現したのは、白旗を掲げた部下を連れたエルサレム市長のアラブ人フセイニでした。

 フセイニ市長はアレンビー将軍にエルサレムの街の門の鍵を手渡ししてきました。
 大きな城壁で囲まれた古都のエルサレムにはいくつかの扉門があり、それぞれには鍵があるのですが、それらの鍵をそっくりそのままアレンビーに寄越したのです。

 街の門鍵一式を受け取ったアレンビー将軍は徒歩(on foot)でゆっくりと、ヤッファ門へ向かい、歩いたまま抜けエルサレム市内に入りました。

 ヤッファ門はトーマス・クックオフィスや多くの土産店や銀行、飲食店が並ぶエルサレムの街への入口で、約20年前、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世もこのヤッファ門から、入りました。ただし乗馬したままでした。

ドイツ皇帝ウィルヘルム、エルサレム入城(1898)

 ヴィルヘルムドイツ皇帝に限らず、これまでいわゆる「大物」で今までエルサレムを徒歩で入った者は皆無でした。

 それなのに、なぜアレンビー将軍はまるで襟を正すかのように、馬から下りて徒歩で厳かに入城したのでしょう。

 これはいかにも日本で言うところの、土足ではなく靴を脱いで敷居をまたぐという気遣いです。だけども決して、現地のムスリムのアラブ人たちに気遣ったわけではありません。

 英国植民地から徴兵されたイスラム教徒兵士への配慮と、メッカのシャリフ・フセインとの同盟に悪影響を恐れ、十字軍の侵略に見えるイメージを避けたかったからです。

 エルサレムは整然としていました。
 先になされていたフセイニ市長の的確な指示と計らいにより、どの宗教の建物もすでに各管理人に委託されており、市民たちも冷静にイギリス軍を迎え、何も混乱もパニック騒動も一切起きませんでした。

 市内に入ったアレンビー将軍は、まずダビデの塔に向かいました。ダビデとは古代イスラエルのユダヤ人の君主です。

 大勢のエルサレム市民と英軍兵士が見守る中、行進するアレンビー将軍はほっと胸をなでおろし、すっかり感極まっていました。
 それもそのはずです。英首相の命令とおり、無事クリスマスまでにエルサレムを征服できたことに安堵し、それにです。

 これは英軍によるエルサレム入城が673年ぶりになるクリスチャンの聖地奪回です。そう、673年間ここはアラブ人、次にトルコ人に支配されていました。感激もひとしおです。

 時間がある方は、下記の動画を見てみてください。貴重なアレンビー将軍のエルサレム徒歩入城カラー映像です。全部で13分ちょっと。

 3分45、46秒目が要チェックです。画面の背後にトーマス・エドワード・ロレンスが映っています。

 「アラビアのロレンス」の映画では長身ですが、実際のロレンスは165cm。イギリス人の成人男性としては小柄なので、映像でもよく見ないとみつけられません。

 また動画の最後の方に、エルサレムの各宗派の牧師や神父らが順番にアレンビー将軍と握手する場面もあり、トルコ人らが引き上げる場面も映っています。

 あと、この動画でも、撮影カメラにはそわそわし喜んでいるものの、地元民は英軍に熱狂して迎えていません。むしろ淡々とし、冷めて見物しているようにも見えます。

 かたや当時のイギリスの報道をみると
「エルサレム市民は泣いて喜び、英軍兵士の靴にキスをし感謝感激だった」と…えっ!?
 

歩いてヤッフォ門へ向かっています
インド槍騎兵とニュージーランド槍騎兵がシナイ半島とパレスチナ侵攻で大いに活躍しました。
このエルサレム制覇の時の写真を見ていくと、ほとんどが英軍の顔ぶれの多くがインド人ですね
インド部隊が多いことよ!
インドの槍騎兵はトルコ人捕虜連行を担当。
オーストラリアとニュージランド部隊が一番ラクダ乗りが上手だったようです。

英軍の卵探し奔走とエルサレム市長「降伏状を早く受け取ってくれ」(1917年12月)

 アレンビー将軍の率いいる英軍がエルサレムに入城した翌日の早朝。

 英軍厨房の料理人たちは町中へ飛び出し、卵を求めてあたふたしていました。
軍隊の朝食の用意をせねばならないのですが、朝食に不可欠な卵がないのです。不手際があり、卵が足りておらず
「足りない分は街中のどこかで調達すればいい」
と最初はそのように呑気に構えていました。

 ところがいざ卵を求めて市場へ出かけても、売っていないのです。卵がどこにもないのです。エルサレムは英軍が想像していた以上に、深刻な食糧難であったため、卵すらも入手困難な状況に陥っていました。

 英軍の厨房担当たちが卵を求めて街中を駆け回っていると、ある小さな集団と何度もすれ違いました。エルサレム市長のフセイニとその仲間たちです。

 エルサレム市長のフセイニらは白旗を掲げて、街中に分散する英軍の建物を行ったり来たりしていました。
 降伏状を提出したいのですが、英軍のどこの誰に渡せばいいのか分からず、イギリス人軍人たちに聞いても答えはまちまちでした。

 エルサレムの12月は寒いです。こんな真冬の朝から、決して若くはないエルサレム市長フセイニは英軍の駐在する建物の外に長時間、立ったまま待たされたり、「あっちに行け」「いやそっちへ行け」など翻弄させられました。

 最終的になんとか、オスマン帝国領エルサレムの降伏状およびエルサレムの街の引き渡し状を英軍に受理されたのですが、フセイニはすっかり風邪を引き、そこから肺炎をこじらせ寝込む羽目になりましました。

 イギリス軍料理人たちが卵を求め奔走し、同時に同じ街中をエルサレム市長の方は白旗と降伏状を持ってあたふた駆け回っていたエピソードは、非常によく知られています。想像すると、なんともシニカルな光景ではありませんか。

 それはさておき、こうして約400年、、、約400年間に渡るオスマン帝国が完全撤退し、この地はイギリス領になりました。

この画像では、左手に杖、右手にタバコを持ち赤いトルコ帽を被っているのがエルサレム市長のフセイニです。そして銃を持っている二人のイギリス人は、アレンビー将軍の主力部隊偵察兵士です。

「十字軍の言葉は使わないように」⇒メディアは「十字軍」多用

 アレンビー将軍がエルサレムを征服するよりも前に、イギリス政府は11月15日付の「非公開かつ機密」メモで、
「トルコ(オスマン)に対する軍事作戦をいかなる意味でも聖戦、現代の十字軍のように宗教的表現に置き換えて言及しないよう」
と報道機関すべてに言い渡していました。

 しかしイギリスのマスコミはその指示を無視し、「十字軍勝利」だとか「ジハード(聖戦)キャンペーン」などという、ムスリムの神経を逆なでする言葉を書きたてました。「THE SUN」のタブロイド紙はまだ発行されていない時代なのですがね。

 中でも最悪だったのはイギリスのメディアが
「南パレスチナ作戦で多大な役割を果たした司令官のうち二人は十字軍の戦争で戦った騎士の子孫である」
と大々的に報道をしてしまったことでした。これはムスリムのアラブ世界を大いに刺激してしまいました。

 そこをもってトドメは、肝心なジョージ・ロイド首相自身の発言です。
エルサレムを手に入れたのは、イギリス国民へのクリスマスプレゼントとなった(The city would be a“Christmas gift for the British people.”)」

 浮かれすぎたのでしょうね。
 その後、イギリスで次々にエルサレム陥落のドキュメンタリー映画が製作されました。驚くべきことに、すべてのタイトルに「十字軍」が入っています。
「新たな十字軍」(1919年)、「カーキ十字軍」(1919 年)、「一時十字軍」(1919 年)、「現代十字軍」(1920 年)、「最後の十字軍」( 1920年)、「アレンビーの十字軍とともに」(1923年)、「最後の十字軍のロマンス」(1923年)等々。

 その昔、マケドニアのアレクサンダー大王やフランスのナポレオン・ボナパルトも中東を侵攻・征服しました。
 だけども、彼らはそこの地元の宗教に配慮する言動を見せていたので、現代でもアレキサンダー大王とボナパルトはイスラム世界でも比較的に尊敬されています。 

イギリス軍によるエルサレム征服およびバルフォア宣言祝賀コンサート(1918年)

 1917年12月11日。
 アメリカから飢えていたエルサレムの人々へ大量の食料が届けられ、そして孤児たちの救済など人道的援助が始まりました。

 当初、地元民たちは喜びました。特にクリスチャンたちが感激しました。

 第一次大戦勃発後、街は荒れくれて人々は飢えと蔓延した疫病に苦しみ、1915年以降、オスマン帝国によるムスリムのトルコ人以外の市民への弾圧が強まると、敵国イギリスと同じクリスチャン(厳密には宗派は異なりますが、しかし同じキリスト教徒)が差別されました。

 エルサレムの教会も一切鐘の音を鳴らしてはいけなく、信者も増やしてはならないなど、締めつけがエスカレートしていたのです。だからオスマン帝国への憎悪を増幅しており、そういう意味でもイギリス軍の制覇に感謝していました。

ところがです。「バルフォア宣言」を知るとパレスチナの9割の人々が最初から反対の声を上げました。しかし、その大半の声は一切取り上げられませんでした。

 オスマン帝国領パレスチナ最後のエルサレム市長だったアラブ人のフセイニ市長が亡くなったのは、その約一月後のことでした。

 降伏状をなかなか提出できず、冬空の下で歩き続け肺炎をこじらせ寝込み、遂に命を落としてしまったのです。

 フセイニの死後、今度は彼の弟がエルサレム市長になりました。ユダヤ人のエルサレム市長の登場はまだ先です。

 同じく1918年。

アレンビー将軍指揮のイギリス軍隊による、エルサレム入城祝賀コンサート」がエルサレムにて開かれることになりました。

すると
「コンサートでとりを飾るフィナーレの曲をどうするか?インパクトのある曲が良い」
「ああ、もちろんだ。オスマン帝国追放とイギリス軍のエルサレム入城そして、バルフォア宣言を声高らかに喜ぶ歌でコンサートを終えるのがいい」
「音楽家は誰に依頼しよう?」

 名があがったのは、エイブラハム・イデルソーンでした。

「ヘブライ語のユダヤ民謡がない!」

 音楽家アブラハム・ツヴィ・イデルソーンは1882年にロシア帝国北西部(現在のラトビア)のフェリクスブルクで生まれました。

 1890年代になるとドイツに渡り、ベルリンのシュテルン音楽院とライプツィヒ音楽アカデミーで学びましたが、もともと体が丈夫ではありませんでした。厳しいヨーロッパの冬が辛くてならず、その後、気候の良い南アへ移住します。

 1907年に入ると、シオニスト入植ブームの流れに乗り、イデルソーンは妻子を連れて、「シオニスト入植者」として、エルサレム旧市街外の新興ユダヤ人西部地区に定住し始めました。
 家の裏庭には、音楽を作曲する仕事場兼書斎を持つ小屋が建てられました。

 音楽家であり社交的なイデルソーンの仕事部屋の小屋には、多くの客人が訪れるようになりました。イエメン人、アラブ人、グルジア人、セファラディ系ユダヤ人、クシム、ガリシア系(スペイン)ユダヤ人などです。

 イデルソーンの息子と娘は、その小屋に近づくと外の窓から中をよく覗きました。父親がさまざまなタイプの人々と議論を交わし、異民族の音楽を教わったりしているのをこっそり眺めるのが好きだったのです。

 中でも一番楽しんだのは、ガリシア系ユダヤ人たちの訪問を覗き見することでした。
 彼らはすぐに何かと歌ったり踊ったりし、大げさな手振りなどで感情を表現するので、いくら眺めていても飽きることがなかったからです。イデルソーンの子どもたちは窓の外でクスクス笑いました。

 イデルソーンは頭に何かメロディーなどを思いつくと、来客中でもすぐに机のそばに駆け寄り、立って歌いながら[歌を]素早く楽譜に書き写していました。

 一切の訪問客が来ないのは、安息日の前夜と安息日と休日だけでした。そういった日にはイデルソーンは子供たちに安息日の歌を教えたり、もしくは安息日の夜明け前に家を出て山にハイキングに行き、日の出を拝みました。空は美しい色と色合いで満たされていました。

 新たに娘が誕生すると、何百人もの人々がイデルソーンの家に祝福にやって来ましたが、子供はもう三人です。
 流石にこの家では手狭になったため、1909年か1910年の初めに、エルサレムのエチオピア通り[英国委任統治下の名前はアビシニアン(=エチオピア)・ストリート]へ一家は引っ越しました。

 エチオピア通りの新しい家の隣には、現代ヘブライ語の父エリエゼル・ベン=イェフダが住んでいました。

 この出逢いは非常に大きな意味を持ちました。イデルソーンはヘブライ語学者イェフダとの交流から影響を受け、それまではドイツ語がメインだったのですが家族の中と使用人とはヘブライ語をメインに話すようになったのです。

 また、それまで他国の民族音楽を研究していたのですが、イェフダの影響で、ユダヤ人の音楽伝統を研究し始め、シオニズムを広めることを目的としてユダヤ人に民族文化的アイデンティティを受け入れるよう促すような曲作りを目指すようになりました。

 数年がたち、赤ん坊だった末っ子の娘が幼稚園に通いだすと、イデルソーンはその子が通う幼稚園で特別に合唱を指導し始めました。

 しかしこの時はっと気がつきます。
ユダヤの民謡に乗せられたヘブライ語の歌詞の歌がどこにもない

 それまで「ユダヤ国」を持っていなかったので、ユダヤ人の子どもたちはそれぞれのルーツのポーランド民謡やドイツ民謡、フランス、イギリス民謡などを歌えるだけだったのです。

 このことに気が付いてショックを受けたのが、イデルソーンがオリジナルのヘブライ語のメロディーを童謡として作曲するきっかけになったそもそもです。

「あのメロディー」

 ある時、クールラント(ラトビア)からイデルソーンの父が訪れたので、一家は全員でエリコの死海旅行へ馬車で出かけました。

 道中は家やテントのない丘や野原が続き、驚くことに途中で一切、誰にも会うことはありませんでした。
 空気は新鮮できれいでした。途中何度も馬車から降りると、イデルソーンは末娘をおんぶし、長男と長女の手を引きながら、いろいろな歌を歌いながら歩きました。

 エリコに到着すると、アラブ人が経営するホテルに泊まったのですが、この村にあるものはすべて非常に原始的な状態でした。ホテルの周りにはナツメヤシの木が生い茂り、その下に日陰を作っているだけでした。他には何もありません。

 一家は遠くから死海を眺めると、そちらへ向かって歩いて行き海水浴をしました。イデルソーンと彼の父親は海辺で長い会話をし、その間子供らは目にしみる塩水に耐えられず、ぎゃあぎゃあ悲鳴を上げていました。

 エリコに数日間滞在している間、イデルソーンは父親に
「一緒にエルサレムに住もう」
と何度も誘いました。

 しかし老父は
「私の祖国はクールランド(ラトビア)なんだ。そちらへ帰るよ」

 再び、来たときと同じ道を戻りエルサレムの家に到着すると、その翌日、イデルソーンの老父はクールランドに帰国しました。

 その後、家の向かいに女子児童養護施設がオープンし、一家は安息日が終わった翌日になると、頻繁に孤児院を訪れました。孤児たちはイデルソーンに非常に懐き
「新しい歌を教えて。新しい曲を弾いて」
といつだってせがんできました。大人にも子供にも好かれる人物だったのでしょう。

 「子供に音楽を教えるのが上手い」
 このような評判が広まると、そのうちユダヤ人以外のお偉いさんからも依頼が入り、富裕層の子どもたちにも音楽を教えるようになりました。

 そこからさまざまな行事や祝い事のために、何か新しい曲を作ってほしいという要望も舞い込むようになりました。

 1913年から年をまたいで1914年。

 シオニズム活動の募金集めおよび楽譜(自伝だった説もあり)出版の売り込みのために、イデルソーンはウィーンを訪れます。ここで「あのメロディー」を耳にしました。

「バルフォア宣言と英軍によるエルサレム征服を祝う歌を作ってくれませんか?」


  ウィーンから戻ると、第一次世界大戦が勃発しました。

 エルサレムはオスマン帝国領なので、イデルソーンはオスマン帝国・トルコ陸軍に徴兵され、軍楽隊の監督に任命されました。

 残された家族の生活は非常に困難でした。食糧不足と貧困のため、あらゆる種類の病気が発生し、エルサレムの都会だけではなくパレスチナ中に蔓延しました。

 戦争はついにイギリスがこの国を征服したことで終わり、イデルソーンは帰国しました。

 この時、疲れきってやつれ果てた妻の姿を見て、大きな衝撃を受けました。そこで妻のリフレッシュのために、家族旅行としてエルサレム近くのモッツァへ出かけることにしました。

 ただし、この旅行の移動手段はロバのみでした。
 なぜなら戦争中、エルサレムからすべての荷馬車と馬がオスマン帝国軍にとられ姿を消し、もはやロバしか残っていなかったからです。

 ロバの従者としてアラブ人が迎えに来ると、それを見た近所のユダヤ人神父がぎょっとし
「何かされるかもしれない、危険だ」
と急いで、ユダヤ人学校で野良仕事をしていたイエメン人に
「あの一家の旅行に同行して、見張ってやってくれ」

 そうしてイデルソーン一家とアラブ人のロバ従者と見張りのイエメン人はエルサレムの街を旅立ちました。

 道中、イエメン人はずっとアラブ人従者をからかいいじめ、ぞんざいな態度で接しました。これはイエメン人は敗戦国オスマン帝国領の地元のアラブ人、すなわちパレスチナ人を格下に見たということになります。

 エルサレムからモッツァまでの狭い道は、山の岩やそこに生える野生の低木の間を曲がりくねっていました。すべてが乾いていて、生きた動物、植物には一つも見ることがありませんでした。

 リフタというアラブ人の村を通りましたが、そこは小さな土の住居で構成されており、村人のラブ人たちは皆汚れた服を着て、ハエに覆われて目がかろうじて見える程度のやせっぽちの哀れな姿でした。

 ついにモッツァに到着しました。周囲には様々な木々が生い茂り、山々の間に数軒の家が点在し、遠くからは滝の音が聞こえてきました。

 一家は灌漑用の水路に水が流れる泉の隣にある、きれいな花や植物に囲まれた別荘を借りました。

 子供たちは泉の池を見て喜び、すぐに服を脱いで飛び込み、旅の汗と埃で体を洗いました。水はかなり冷たく、とてもきれいでした。

 入浴と着替えの後、持参した食材でイエメン人がアラブ風の料理を用意しました。一家は木陰で滝の音を聞きながら、それをむしゃむしゃ食べました。辺りはすっかり静けさに包まれました。

 数日たち、妻がだいぶん元気になったことが分かると、再びエルサレムへ戻りました。すると、そこには英国司令部より使いの者が来ていました。

「バルフォア宣言とイギリスのエルサレム征服を祝うコンサートを開催するのだが、最後は合唱の歌で終わりたいと考えている。そのための、何か新しい歌の用意(作曲作詞)をあなたにお願いしたいと考えています」

「喜びましょう、喜びましょう!ーハバナギラ」

 イギリス軍にそのような依頼を受けたイデルソーンの頭の中に真っ先にうかんだのが、ウィーンで耳にした「あのメロディー」でした。 

 それはもともと19世紀に、東欧のユダヤ人ジプシーが自作したメロディーでした。

 非常に耳に残る旋律のため、人から人へ伝えられました。
 ルーマニアで流行した時、そこでルーマニア特有の軽妙なリズムが新たに加わえ、今度はオーストリア・ハプスブルク家のブコヴィナ地方(現在のウクライナ)にあるサディグラの町まで届きました。

 次に、ハプスブルク家繋がりで、今度はウィーンにそのメロディーは広まりました。イデルソーンはウィーンを訪れた時、このメロディーを聴き、強い印象を抱きました。

  1918年。
 イギリスのオスマン帝国・トルコ人に対する勝利とバルフォア宣言を祝うコンサートが、ヘブライ大学新設立に合わせて開催されることになりました。(*大学ではなく、エルサレム市内の別会場だった説もあります)

 このコンサートのとりを飾る音楽の用意を依頼されたイデルソーンは
「混声合唱を入れた歌にしよう」
と思いつきました。

 なぜなら混声合唱にした方が盛り上がるのと、ヘブライ語の歌詞を発表ができるからです。これまでヘブライ語歌詞の歌はまだありませんでしたし。

 では肝心な曲は…。

 イデルソーンは
「ウィーンで耳にしたあの歌をもう少しアレンジしよう」

 そして、「あの歌」を編曲し、歌詞もつけました。実際、これが初めてのヘブライ語の歌詞だと言われています。

「喜びましょう、喜びましょう、喜び、喜びましょう!
目覚めなさい、兄弟たち、喜びに満ちた心をもって!」

 オリジナルのヘブライ語発音で表記しましょう。

「ハバ ナギラ ハバ ナギラ ハバ ナギラ ヴェニスメハ
ウル アヒム ウル アヒム ウル アヒム ベレフ サメア」

 ハバナギラです。

「Hava nagila、hava nagila / Hava nagila ve-nismeha」—
「さあ、喜びましょう、喜びましょう、喜び、幸せになりましょう」

 これらの行は、詩篇 118 篇 24 節の聖書の一節をよく反映しています。

 エルサレムコンサートは大成功を収めました。特に最後の曲の「ハバナギラ」混声合唱団の歌が観客を夢中にさせ、大いに盛り上がり話題を呼びました。

 その頃、エルサレムのヘブライ語のフリーメイソンロッジでは、イギリス政府に感謝の意を捧げる、以下の表明を出しました。

「今後、我々は神の民の会衆である私たちの同胞たちに対し、英国政府による聖エルサレム占領1周年記念日を祝うよう呼びかけます。この名誉ある日に、すべてのシナゴーグは主の救いと救いに感謝しましょう」  

「ハバ・ナギラ」一世風靡

 イデルソーンによる編曲とヘブライ語の歌詞を乗せた「ハバナギラ」は瞬く間に海を越え、すぐにベルリンでその楽譜が出版されると、人気に火がつき、その勢いは止まらなくなりました。

 特にドイツ国内および北アメリカで大流行し、各国のシオニストの青年キャンプや集会場では欠かせない定番の歌になりました。

 この「ハバナギラ」エピソードはここで終わりません。
後日談があります。

 1920年、ユダヤ人とイギリス人に対する最初のアラブ人の大きな暴動が起こりました。
 この時、ロシア帝国領オデッサ(現ウクライナ)生まれのシオニスト、ジャボチンスキーがエジプトに逃げていたロシア系ユダヤ人に呼びかけ、さらに
「ユダヤ人のパレスチナ入植を守るために、アラブ人を押さえつける軍隊を編成すべきだ」

 これに反応をした若いシオニストたちがアラブ人制圧を開始しました。

 その現場をイデルソーンの長女は自宅の二階の窓から目撃し、大きなショックを受けます。隣の畑でユダヤ人たちにアラブ人がリンチされていたのです。(*ただし、イデルソーン長女はもっと柔らかい表現でこの話をインタビューで答えています)

 決して世の中の不穏の流れのせいだとは言っていませんが、この後、イデルソーン一家はエルサレムを引き払い、地中海を渡ってフランスへ行き、最終的にベルリンに落ち着きました。

 「ハバナギラ」を生み出した音楽家一家がエルサレム(パレスチナ)を離れ、ヨーロッパに移住したのですね…。

 しかし1930年、イデルソーンは脳出血を起こすと、ゆっくりと、しかし確実に病気は悪化し、ついには完全に声を失い、右半身が麻痺してしまいました。

 書くことができなくなり、歩くこともほとんど不可能になり、舌は完全に麻痺しため、最後はヘブライ語の言葉も音楽の旋律を一切話すことも書くこともできなくなり、そうして最終的に懐かしい南アの療養地で息を引き取りました。
 「ハバナギラ」生みの親の彼は二度と、エルサレムには戻ることがありませんでした。

「ハバナギラ」著作権問題

 イデルソーンの死後、曲の著作権の問題が起こりました。

 このメロディーは前述のとおり、もともとイデルソーンが作ったものではありません。なので、本当の作曲家の子孫と名乗る者が現れ、さらにです。

「ハバ・ナギラ」という曲名もイデルソーンの弟子が思い付いたものだ、とその弟子を名乗る子孫が裁判所に訴えたのです。特に「HAVA」が独創的であるために、これは大いに問題になりました。

 そこで、イデルソーンの家族は必死に残されたメモやら楽譜の山から「盗用ではない」証拠を探し求めました。あまりにも爆発的に大ヒットし過ぎたせいで、こういった問題が勃発したのではないかと思います。

 このような問題勃発でケチが付いたものの、歌自体は素晴らしい。
 東ヨーロッパの神秘的なルーツ、オスマン帝国領パレスチナおよび次のイギリス領パレスチナにおける現代ヘブライ語の歌詞。傑作です。

 時代が経つと、「ハバ・ナギラ」はスポーツの祭典や結婚式ソングとして定着していきましたが、アラブ側にとっては白々しさと不快感しか感じません。

 理由は言うまでもなく、シオニストが作った歌であり、1800年住み続けたアラブ人を追い出す「バルフォア宣言」を祝うための歌だからです。

 そのため、現在に至るまで、「ハバ・ナギラ」は様々な外国語でカバーされ歌われていますが、アラブ人歌手による「ハバ・ナギラ」のアラビア語バージョンは決して歌われていません。

「きよしこの夜」「ハレルヤ」のアラビア語バージョンの歌はあれども、「ハバナギラ」だけは決して、決してアラブ人は歌っていないのです。              

ネロ少年で有名なフランダースの大聖堂はトーマス・クックのおかげで再建されました(ww1後)

 第一次大戦が行われている真っ最中、トーマス・クック旅行社では 「戦争見学ツアー」に人気が集中していました。

 5,60年ほど前にも、クック社はアメリカの南北戦争の戦場だった地を見学するパッケージツアーを出していますから、今回もそれと同じような企画でした。

 ヨーロッパのどこかで繰り広げられているリアルタイムの激しい戦場を見に行くツアーの参加者の多くは作家やジャーナリストでした。

 中でも一番人気があったのは、今や猫まつりで有名なベルギーのイーペルの街です。

 第一次大戦で、史上初の毒ガス戦で一気に脚光を浴びた街をぜひ見てみたいと、「毒ガス戦いをしているイーベイの街を訪れようツアー」が今の貨幣価値でいうと1500英ポンドでパッケージツアーが出されました。

 また、この第一次大戦中、日本やホノルルにツアーを出していました。第一次大戦では日本も連合軍側についていたので、この時期にも日本行きツアーを出せていました。

1917 年のトーマス・クックの日本ツアー

終戦後の1919年。 
 トーマス・クック旅行社は今度は「戦場だった地もしくは戦争で破壊された街や国を巡るツアー」を販売しました。 
 しかし「商業観光の亡霊によって冒涜されている」と不愉快に主張する者たちも現れ、新聞上で激しい論争を呼びました。

 ところがです。結果的にトーマス・クックの「戦争の跡地ツアー」は、破壊された土地を再建するための資金を切実に必要としている地域に、切実に必要な収入をもたらしました。
 
 中でもベルギーのフランダースの街がそうでした。トーマス・クックパッケージツアーが続々と押し寄せ、一気に現地での観光業の求人が増え何千もの雇用をもたらし、地域経済に大きく貢献したのです。

 そして、トーマス・クック旅行客団体が落としたお金によって、瓦礫の山と化した美しい中世の布陣と大聖堂が再建され、ヨーロッパには本当の意味での第一次大戦終了…春の訪れとなりました。

ヘブライ大学開校(1925年)

 七年前に設立されたヘブライ大学が正式に開校となりました。理事会メンバーの顔触れはアインシュタイン、フロイト、ワイツマンなどです。

 開校式にはユダヤ世界の指導者(ラビ)、著名な学者、公人、著名人それにバルフォア伯爵(外務大臣)、アレンビー子爵(元将軍)、ウィンストン・チャーチル、高等弁務官のハーバード・サミュエルといったイギリスの高官らが出席しました。

 この時、彼らは何を思っていたでしょうか。

 まさかこの42年後に、この大学がエジプトとの戦争「六日戦争」で攻撃されるだとか、

 2002年(7月31日)に大学の学食「フランク・シナトラ」がパレスチナ人建設作業員(東エルサレム在住)に爆弾を爆発させられ、
 9人(イスラエル国民5人、アメリカ国民3人、フランスとアメリカ両国の国民1人)が死亡し、大勢が負傷するというテロに見舞われ、

 さらに、その犯行声明をハマスが出し、それが尾を引き2024年になってもまだ続いているなど、バルフォアもアレンビー、チャーチルも想像していなかったに違いありません。

 これが今回の「ハバナギラ」ストーリーです。
   

                 つづく(次回こそ、本当に最終回です)
 


 


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