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いちじくの実Fig Leaves…メッカ巡礼ツアー、第一回アテネオリンピック、イスラエル建国の父〜トーマス・クックシリーズ⑨

プロローグ 「将来、僕もスエズ運河のような運河を作る外交官になる!」(1869年)

 1869年11月17日の翌日
 少年は口をぽかんとあけ、あんぐりしました。
「え?二つの海を繋げちゃったの?」
「そうだよ、見てごらん」
 実業家の父親が世界地図を指しながら説明してくれました。
「運河を作り、この海とその海を結合したんだ。昨日行われた開通式には、オーストリアハンガリー帝国の皇帝フランツ・ヨーゼフもご出席されたんだよ」

「ヨーロッパとアジアを繋いだスエズ運河…」
 しかしまだ9歳の少年はぴんときません。なぜなら少年の生まれ育ったハンガリー王国には海がないからです。でも、お父さんがこんなに興奮しています。

「運河が完成して二つの海がくっついたということは、何か壮大なドラマチックなことで、世界中も驚嘆しているんだなあ」
 おぼろげにそれだけはなんとなく分かりました。そこで
「お父さん、スエズ運河を作った人は誰なの?」
「フランス人外交官のフェルディナン・ド・レセップスという人だよ」
「外交官?」

 外交官が運河を作るなんて前代未聞ですが、そこは子どもです。
「そうかぁ。外交官とかいうのになれば、運河を作る人になれるんだ。僕も将来、運河を完成させるようなすごい外交官になりたい」

 レセップスに憧れ、自分も将来大きな運河を作る外交官になりたいと夢を抱くようになった少年の名前はティヴァダル・ヘルツル(またはベンヤミン・ゼーブ・ヘルツル)。

 生まれ育ちはハンガリー王国のブダペスト七区のドハーニ通り(*ただしドハーニ通りと呼ばれるようになったのは1874年以降)にある、大シナゴーグ。

 このトーマス・クックシリーズの最終回(Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ、Ⅳ、Ⅴ)では、イスラエル建国の父ティヴァダル・ヘルツルとトーマス・クック旅行社が交差する話です。

※レセップスについては、ぜひ⬇️お読みください


ドハーニ通り 
ヘルツル一家  
    

ブリティッシュ・ラジ(イギリス領インド)(1886年)

 ガラリと変わります。

 ハッジ(ムスリムのメッカ巡礼)ツアーを聞いたことがあるでしょうか?
 色々な日本の旅行会社も出しています。日本国内のムスリムをサウジアラビアのメッカまで巡礼ツアーの手配をしますよ、と。

 1886年に、このハッジのパッケージツアーも最初に売り出したのはトーマス・クック旅行社です。

 当時、大英帝国は西アフリカから東南アジアに至る地域にわたって支配していましたが、これは言い方を変えると、世界のイスラム教徒の約半数が大英帝国の領土の民でした

 ここまで領土内のムスリムの人口が多いことは軽視できません。ですから1920年、チャーチルもその事実を重く受け止めて
「イスラム教徒の感情と調和する政策を打ち出すのは、私たちの義務です」
と発言しています。ようは「彼らの感情を逆なでさせては大英帝国の領土支配に支障が出るので気をつけよう」です。

 ところで、British Raj(ブリティッシュ・ラジ)とはイギリス領インドのことを指しますが、英領インドにも大勢のムスリムがおりました。

 ムスリムは生涯に一度はアラビア半島のメッカへ巡礼に行かねばなりません(とされています)。インドのムスリムたちも当然そうです。そのことをBritish Rajも理解しています。しかし問題や悩みがありました。

 問題とは、巡礼(ハッジ)シーズンには世界中のムスリムが一気にメッカに押し寄せるのですが、これはすなわち感染症の大移動およびパンデミック拡大も意味しました。巡礼シーズンの度に、彼らがウィルスを持ち運び、多くの地域で感染拡大するのです。

 1800年代は感染症パンデミックの100年でもありました。世界中でしょっちゅうそれが起きていたのです。言葉を変えれば、19世紀は蒸気船や汽車が生まれた時代で、18世紀以前とはがらりと変わり、人間がグローバルに移動するようになった百年だったからです。

 中でも一気に大人数が移動するのはムスリムの巡礼シーズンでした。British Rajは毎回毎回、大勢のムスリムの移動により、感染症が拡大することにもはや我慢の限界点が達していました。

蒸気船で紅海のジェッダまで行き、そこから鉄道のルートだったのかと思いますが、当時はこの地図のような「サウジアラビア」の国はまだ存在していません。

 もう一つの悩みは、この数百万人の大移動でもあるメッカの旅では様々なトラブルが勃発しており、取り締まるのに苦労していることでした。
 それにです。すでに領土内のあちこちでは反英運動が始まっており、4年前の1882年にはエジプトのアレクサンドリアで、イギリス支配に楯突くエジプト人たちの大暴動が起き、それがきっかけでイギリスエジプト戦争(または「アレクサンドリアの火」)が勃発しています。

 ですから、クリスチャンのイギリス人が入れないメッカでムスリムたちが集い、そこで何かを企むのではないかというのが心配です。

 そのため、すでに1860年代からアラビアのジェッダにある英国領事館は「大英帝国を脅かす可能性のある巡礼者たち(つまり、今でいうところのテロリスト集団や反英、民族主義集団)」を監視し、注意していますが、メッカの巡礼者らまで監視できません。
かといって、数百万人ものムスリムが一斉に移動するメッカへの巡礼の旅そのものを禁止にもできません。

 British Rajは頭を抱え、考え込みました。
「何とかして、ムスリムのメッカへのハッジ(巡礼)を我々が見張り、コントロールできないだろうか」
 しかし、クリスチャンの軍隊をメッカに送り込むことは決してできないし…。
 植民地政府当局の一人がふと思い出しました。
「そういえば少し前の1882年にトーマス・クック社がフランス人カトリック教徒1000人の聖地パレスチナ巡礼ツアーを任せられていたっけ」

「あっ、そういえばそうだ。見事に団体グループをオーガナイズし、揉め事も感染症問題も起きることがなく、成功させたんだよな」
「大勢のスタッフも同行したから、ツアー客をよく見守って監督し、無事終了したはずだ」
「トーマス・クック、巡礼ツアー…」

 大英帝国政府がトーマス・クックを頼るのはこれで二度目です。1度目は政府がスーダンにイギリス軍を派遣する時に、クック社にナイル川移動の蒸気船を貸してもらっています。
「中東やインドの征服と旅行会社は切っても切り離せないのかもな」

 こうしてBritish Rajの要請により、トーマス・クック社は大英帝国の公式ハッジ(巡礼)旅行代理店となりました。

トーマス・クック社が手掛けたイギリス軍のエジプト侵攻の際の観光の一コマ

インドのムスリムをボンベイからメッカまで巡礼ツアーへ(1886年)

 ジョンはインドに住むイスラム教徒が英国王室臣民として、ハッジを行えるようにするためのチケット、鉄道旅行、船舶、その他の物流を手配する契約をBritish Rajと結びました。これにはボンベイとメッカの間の蒸気船と鉄道の手配も含まれています。

「トーマス・クックのメッカ巡礼・ボンベイーメッカ往復チケット」

               §
 余談ですが、2013年頃?にメッカにメトロが通りました。メッカの地下鉄工事を請け負ったのは国有の中国鉄道建設総公司ですが、メッカにはムスリムしか入れません。
 そこでなんと。この工事のために千人以上の中国人労働者及び現場責任者らはイスラム教に入信したそうです。

↑メッカメトロ。全長 18.25 km の鉄道路線には 9 つの駅があり、毎年恒例の巡礼に関連する 3 つの聖地を結んでいます。地元の気温は 50度前後に達しますが、この鉄道サービスは巡礼者に冷房を提供。メッカ巡礼期間中24時間体制で運行しているとか。
メッカ駅の外観
メッカージェッダ区間のサウジ初の高速鉄道は中国、フランス、サウジ三カ国の協力。イギリスも出資はした模様。

                §
 さて、トーマス・クックのメッカ巡礼パッケージツアーにはツアーエスコートも同行させ、衛生管理をコントロールし、感染症拡大を防止するように務めました。British Rajの狙い通りです。

 これまで様々な各国の大きなツアーを手掛け、成功させてきた旅行社代表のジョン・クックには自信がありました。しかし出だしこそ好調だったものの、甘かった…。

「えっ?トーマス・クックツアーの客が現地で無銭飲食?」
「モノを盗んだ?」
「ツケをトーマス・クック社に回した?」

 トーマス・クックの巡礼ツアーに申し込んだインド人たちはツアー費を後払いだと約束しつつも、結局ツアー費を踏み倒したり、アラビアでは食いっぱぐれや旅行会社が後払いすると称して、無銭食い放題などしまくり、暴れてモノを破壊したりしました。

 彼らのあまりにも傍若無人ぶりの振る舞いが目に余るので、ジェッダの港から強制送還されることも続き、その都度、連中の尻拭いをトーマス・クック社がせねばなりました。

 むろん、クック旅行社は立て替えた分の金額や未払いのツアー代金の請求を本人たちから取り立てようとしました。ところがです。

 ツアー申込書もしくは借用書に書かれた住所に連絡をしていくと、そのほとんど全ての住所が嘘でした。そもそも読み書きができない貧乏人たちなので、申込書に記入した名前もいい加減だったのです。

 ジョンは激怒しBritish Rajに全額弁償させ1893年、ムスリムの巡礼パッケージツアー販売を中止しました。
「もうごめんだ、嫌だ。二度とやらない」
 British Raj がいくら懇願しても、余程凝りたジョンは首を縦にふりませんでした。
 オリジナルのトーマス・クック社の歴史は1841年から1928年までですが、その間で恐らく会社が唯一失敗した手配は、このインドのムスリム巡礼パッケージツアーですね。あっぱれインド人。

メッカの巡礼者の野営地(1910年頃の写真)

ブダペストのユダヤ人青年、ウィーンで新聞記者に(1880年代) 


 ブダペスト七区の大シナゴーグで生まれ育たティヴァダル・ヘルツルは9歳のときに開通したスエズ運河のことがどうにも頭から離れず、その運河を完成させたフランス人外交官のレセップスに関する記事や伝記を片っ端から読み漁っていきました。

 これがなかなか凄い話でした。
 レセップスはナポレオン・ボナパルトの「エジプト誌」を読み、砂の下に運河が埋もれていることを知ると「自分が運河を作るんだ」という夢に取り憑かれるものの、これでもかというほど次々に壁が立ちふさがります。
 
 にも関わらず彼は決して諦めず、強引にスエズ運河株式会社を設立。
 そしてコンスタンティノープルやパリ、ロンドン、ウィーンなどへ幾度も幾度も足を運び、会社の株購入を説得し、大国に運河工事への理解もしつこく、非常にしつこく訴えていきます。

 ティヴァダル・ヘルツル少年は胸を熱くしました。
「僕も何か目標を持ったら、レセップスのように決して諦めず頑張ろう」 


 そうして、レセップスのスエズ運河が完成した十年後の1879年。
 18歳になったヘルツルはブダペストを離れ、オーストリアハンガリー帝国のウィーン大学へ進みます。

 フランス人外交官レセップスに憧れ、自分も外交官や政治家になる夢を抱き続けていたので、本当は政治学を専攻したかったものの、ユダヤ人はそういった職種にはつけないことを知ったため、大学では法律科を選びました。

「外交官がだめなら、技術者にはなれば運河建設に関わる仕事に就ける」
 それも考えたことがありましたが数学が苦手であったため、これも断念。

 1894年
 ウィーン大学法律科卒業した彼は新聞記者になり、特派員としてパリに住んでいました。

 ある時です。
 パリでユダヤ系フランス人将校のアルフレッド・ドレフュスがドイツのスパイの有罪判決を言い渡される事件が起きました。
 ヘルツルは取材をしますが、どう検証しても、ドレフュスは無罪です。ところが、そこでフランス人の群衆は
「ユダヤ人に死を!」
と叫んでいます。

 取材を続ければ続けるほど、人々のユダヤ人への憎悪を知り、唖然とし全身の血が逆流しました。
 
 ドレフュスはやはり無罪でしたが、この取材をきっかけにヘルツルはユダヤ国家樹立を考え始めました。これがイスラエル建国の第一歩でした。

第一回近代オリンピックの公式旅行会社(1896年)

アテネのシンダクマ広場のホテル(1896年)

 1896年、アテネで第一回目となる近代オリンピック大会が開催されることになりました。女性選手は出場が出来ませんでしたが、女性の観客が見学することは許可されました。

 この第一回オリンピック公式旅行会社に選ばれたのがトーマス・クック社でした。ジョンはアテネにやってくるオリンピック競技者とその関係者、そしてオリンピック大会の見学者と観光客両方のための鉄道や船の交通、そしてアテネでのホテルの宿泊手配を請け負いました。

 アテネオリンピックで思わぬ苦労をさせられたのが、ギリシャがまだユリウス暦を使用していたことでした。
 アテネの会場でも、ああ全ての試合予定の日時がユリウス暦のみで書かれています。クック社としては旅行業務そのものよりも、ユリウス暦読解に悩まされました。

 余談ですが、このアテネ大会には日本人はまだ参加しておらず、エジプト人は一人だけ出場しています。テニス選手のディオニュシオス・カスダグリスです。
 カスダグリスはその名前のとおりギリシャ系です。彼の両親は綿花事業に従事するために、カスダグリスが七歳の時にアレクサンドリアに移住し、一家全員、エジプトの市民権(永住権)を取得。
 彼はそのパスポートでアテネに渡りオリンピック大会に出場したものの、なんとギリシャ人選手として記録が残されました。成果を上げたからだと思われます。

 さて、ドイツ帝国はこのオリンピックに19人(21人の説もあり)の選手を送り出していしましたが、
「オリンピックはギリシャとフランスのイベントであり、ドイツ人にふさわしくない」
という国内の大きな声があり、ドイツ皇帝のヴィルヘルム2世はアテネに来ませんでした。よって、まだここではジョン・クックに出会っていません。

 またティヴァダル(この頃、すでにテオドールと名乗りだしています)・ヘルツルはオリンピックの取材に来ることもなく、それよりも彼は別のことで多忙でした。
 そう、第一回アテネオリンピックが開催されたこの年、彼は「ユダヤ国家」を書き上げたのです。

「ユダヤ国家」ヘルツル著、1896年

 ちなみにフェルディナン・ド・レセップスの書いた「スエズ運河」の本は1876年に英訳もされ出版されています。
 その本の中で、レセップスは
「ボンベイとロンドンの間の海上距離を 3,000 マイル短縮することによってもたらされる計り知れない利益」および、
「自分がどのようにしてエジプト総督を説得して建設を許可させたか」
 そして
「いかに自分が英国とオスマン帝国の反対をどのように克服したか」
を書いています。

 エジプト副王、ナポレオン 3 世皇帝、ヨーロッパ全土の国会議員、外交官、政治家に宛てた手紙や、妻に宛てた個人的な手紙、プロジェクトを成功させようとする、彼の断固とした決意を示しす、あらゆる全ても本に掲載。

 ヘルツルがこの本を読んで影響をさらに受けたという記録はないものの、少年時代に尊敬した人物の出した本です。恐らく目を通しているのではないかと想像するのは不自然ではないことです。

「スエズ運河」レセップス著 1876年

ドイツ最後の皇帝ヴィルヘルム2世

左手麻痺を隠すため、どの肖像画でも必ず左手が目立たないようなポーズをとっています。

 ドイツのヴィルヘルム2世は1859年1月27日、プロイセン王太子フリードリヒ・ヴィルヘルム(後の皇帝フリードリヒ3世)と王太子妃ヴィクトリア(英国ヴィクトリア女王の長女)との間に長男として生まれました。
 いとこにはロシアのニコライ2世がおり、ヨーロッパの多くの王族と血縁関係を持っています。

 難産で誕生したため左手に麻痺が残り、そのためイギリス人医師たちに電気療法など、今なら虐待としか思えない酷い療法をされ続けられました。

 幼い時のトラウマは大きいです。ヴィルヘルム2世は幼年期の経験のせいで、イギリス嫌いが激しくなった。
 だから
「もしヴィルヘルム2世がバンザイのポーズで無理やり引っ張り出され左手を悪くせず、最初から帝王切開で生まれていたならば、第一次大戦は起きなかったかもしれない」
と言われています。

 1898年 
 カイザー(皇帝)のヴィルヘルム2世は少し前からパレスチナに入り、エルサレムを巡礼することを計画していました。

 このことが発表されると、イギリスはざわつきました。なぜなら、もともとイギリスを敵対視しオスマン帝国側のカイザーの真の目的が、明らかに他にあることをわかっていたからです。

 実際、ヴィルへイルム2世はオスマン帝国のスルタン、アブドゥール・ハミド2世と接近しており、イスラム教に非常に理解を示していました。
 皇帝の宗教はルター派教会プロテスタントですが、ハミド2世へあてた手紙「皇帝から皇帝へ」の中で

「もし私がキリスト教徒の国の皇帝ではなく、
もし私が無宗教の人間としてコンスタンティノープルに訪れていたら、ムスリムに改宗していたでしょう」

と書いており、しかもヴィルヘルム2世の治世中に、ドイツ初のモスクが建っています。よって今でもイラン人やトルコ人などの中には
「ヴィルヘルム2世はムスリムに改宗している」
と信じている人々もいます。
 
 オスマン帝国領土のパレスチナ訪問には、確かにもう一つ別の目的もあったのですが、それはさておき、皇帝は
「せっかくなので、ついでにエジプトも見たい、行きたい」
と言い出しました。

 しかしドイツの動きに非常に用心し、ナーバスになっていたイギリスが猛烈に反発しました。エジプトはすでにイギリスの支配下に置かれています。 あまりにもイギリスが嫌がるため、ヴィルヘルム2世は諦め、結局当初の予定どおり、パレスチナを訪れるだけにしました。

 ここで問題は、どこの誰にその旅の手配をさせるかです。しかし一斉に出た意見は
「トーマス・クック社のジョン・クックしかない」

 イギリスのメディアは、ドイツ皇帝がイギリスの旅行社トーマス・クックに聖地に巡礼を手掛ける依頼をしたことに対して、ふんと鼻を鳴らしました。
 イギリスの雑誌「パンチ」などは
「クックの十字軍ツアー(Cook's crusader tour )」
とからかったほどです。

聖地エルサレムに集まる(1898年)

 ティヴァダル・ヘルツルが書き上げた「ユダヤ国家」はユダヤ人の男爵や銀行家たちの目にもとまり、大きな話題と議論を呼び、1897年にスイスのバーゼルで第一回目のシオニズム会議を開催するほどになっていました。 

 そんなある時でした。
「ドイツ皇帝がエルサレムに入城するんだって!?」
 ヘルツルは興奮しました。

 ユダヤ人国家樹立のためには、世界に影響力を持つユダヤ人と非ユダヤ人双方からの理解を得ないとなりません。レセップスだって運河完成のために、エジプトの総督だけではなく、オスマン帝国、イギリス、そして他の大国諸国らからの支持も得ようと必死に説得に励みました。

 ヘルツルもイスラエル建国を叶えるために、ドイツ皇帝という超大物からも「支持」を得たい。ただしベルリンでそれを直訴しても、まず謁見すら拒まれるに違いありません。だけども、旅先なら?

「よし、自分もエルサレムへ行くぞ。トーマス・クックのヴィルヘルム2 世皇帝の巡礼ツアーをつかまえて、直接交渉し、パレスチナでのユダヤ人国家樹立を断固として支持を得てみせるぞ」
 

 やっと駒が揃いました。
 クック、ヴィルヘルム2世そしてヘルツルです。彼らの足音は聖地エルサレムへ向かいます。

パレスチナへシオニストの仲間たちと向う船の上のヘルツル


 
                      つづく

中近東では6000年前からいちじくの栽培がされているといいます
聖書にもコーランにもいちじくの実はよく登場します。コーランではイチジクは薬とし、胃に優しく健康に役立つので、預言者はイチジクを食べることを推奨しています。

※ 参照したサイトなどは最終回の記事にまとめてURLをコピペします。
 なお、ティヴァダル・ヘルツルやパレスチナ、イスラエル建国、オスマン帝国についても複数の説があり、それをかなり簡略化し、かつ私の解釈を入れて構成しています。
 例えば、一般的にはヘルツルが「スエズ運河完成の影響を受けて」となっていますが、私の解釈では運河が出来たそのものの事実よりも、レセップスが無謀であることを執念で成し遂げた「過程」に恐らく影響を受けたのであろう、としました。


 




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