怒りとは何か? 怒りを許すこと

 貪欲や怒りに駆られて、攻撃的になっている人のことを、お釈迦様は「悪」ではなく「馬鹿」として扱った。悪いのではなく、知らないだけなのだ。

 アングリマーラという純粋な青年が、師匠に騙されて、千人殺せば解脱できると勘違いした。九百九十九人殺したところで釈迦に会い回心するが、釈迦は罰を与えず、教団に出家させた。
 ダイバダッタという従兄に嫉妬で殺されかけた時も、全く怒らなかった。

 「貪欲」は「苦しみ」である。「怒り」も「苦しみ」である。僕は欲望よりも怒りが強い性格なので、しみじみ感じるけれど、怒った後というのは喉やお腹に暗い不快感が溜まって、最低の気分になる。普段から身心の観察状態を続けていると「怒りというのは苦しみだ」という智慧が生まれる。怒りが苦しみだということが骨身に染みている人は、もう怒らないだろう。苦しみたい人などいないのだから。
 今もたまに怒ってしまうが、昔はもっと酷かった。怒る対象を探して、自ら怒っていた。悪口を言うとドーパミンが出るという記事を読んだことがある。怒りには中毒性があるので、どこかで断ち切らなければならない。

 「怒り」というものの、そもそもを考えた時、怒りというのはまさに「無知」そのものだと思う。「怒り」がなぜ有効に働くかというと、怒っている人は、何をしでかすか分からないからだ。怒っている人の行動が推測できるなら、怒りは怖くない。「怒っている人自身」も、自分が何をするのか分からない状態に陥っている。
 「あいつは怒ったら何をするか分からないから刺激しないでおこう」と他者に思われることは、石器時代などには有効な戦略だったのだと思う。
 昔、仲の良かった政治活動家が「許せない行動にはキチンと怒るようにしたい」と言っていた。徒党を組んで「怒り」を表明すると、何が起きるのか分からないので、政治的に有効な脅しなのだと思う。

 攻撃や中傷をされることがある。そういう時には「なにくそ」と思って反撃するのではなく、「この人は怒りが苦しみということを知らないのだ」「この人は今自分が何をしているのか分からないのだ」と考える。そうすると簡単に許すことができる。もしも自分が怒ってしまったとしても「仏教徒としてあるまじきことをしてしまった」と自己嫌悪するのではなく「自分には気づきと智慧が足りなかった」と考える。そうすると自分のことも許せる。
 「他人を傷つける人は、傷ついている人だ」という言葉をどこかで見かけたが、いい言葉だと思う。
 
 「怒り」という「脅し」は、自分の意見を強硬に主張したい時には有効だと思うが、それでも禍根が残ると思う。たまに親に叱られる時があるが、呼吸に意識を集中させて、全く反論しないようにしている。結果的に、前より関係性は改善した。怒らない方がいいと思う。怒ることは苦しい。

父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。

ルカによる福音書 23章34節


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