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MMTに対する賛否を論じる前に前提としておくべきこと

(全裸不動産 全裸幡随院)
数年前、日本でも、「現代貨幣理論Modern Monetary Theory」に関する一般読者向け書籍がベストセラーとして躍り出たことがありました。これは、日本国内で特に根強く残っている「財政破綻論」に対する反駁の書として受け入れられたからかもしれません。日本は、歳出を補うだけの歳入が不足する事態が慢性化しており、その不足分を赤字国債を発行することで糊塗をしのいできました。

政府債務が巨額に膨れ上がる赤字財政を危惧する声の一つに、「このままでは、日本政府は財政破綻してしまう」というものがあります。政府の財政状況を家計に準えることが許されるならば、この危惧は当然といういうべきでしょう(その前に、破産しているでしょうが)。しかし、国家財政は家計とは異なりますので、家計に準えて説明することがそもそも誤っていることくらいは誰でもわかります。

とはいえ、このままだとよくわからないけれど、とんでもない事態に至ってしまうのではという漠然とした危機感が蔓延している中、「財政破綻論」が誤りであることを論じたものとして受け入れられました。経済産業省の現役官僚であり、かつその職位とは独立した形で評論家として旺盛な執筆活動を展開している中野剛志氏による著作も影響して、“MMT”という言葉を耳にしたことがあるという人は多いのではないかと思います。

MMTつまりModern Monetary Theoryとは、米国の経済学者でニューヨーク州立大学で教鞭を執るステファニー・ケルトン教授が主唱者である学説で、学説史的にはおそらくポスト・ケインジアン左派の系譜に位置づけられる学者であろうと思われます。

完全雇用や緩やかなインフレショーンを実現するために、積極的に政府支出を拡大することで経済の“エンジン”を吹かすことが有効で、そのために財政赤字が拡大しようと、少なくとも変動相場制下における自国通貨発行をする国であるならば、財政破綻の心配の必要はないし、自国通貨建てで国債を発行している場合、国債の償還が不可能ということはない。乱暴に言ってしまえばそうなります。

もちろん、野放図に通貨発行すればよいというのではなく(そんなことになれば、とんでもない速度でインフレーションが進行してしまいますから)、インフレ率との関係でフレキシブルに調整することも念押ししています。

このMMTに対する賛否があちらこちらで見られますが、賛否を論じる以前に、そもそも貨幣に対する考え方が根本的に違っていることからくる誤解が蔓延していることに気づかされます。そこで、MMTに対する賛否を論じる前に前提にしておくべき貨幣についての考え方(信用貨幣の意味)を確認していきたいと思います。少々、小難しい話になりますが、お付き合いください。

特にMMTに限ったことではありませんが、現在のような銀行システムが完備されている経済システムにおいては、伝統的な貨幣観である“商品貨幣”の考えで、貨幣の実体を説明しきれませんので、“信用貨幣”という考えを基礎において出発しなければなりません。そこが共有されていないと、いくらMMTに対する賛否を表明しても全くの無意味な言説で終わってしまいます。そこで、“信用貨幣”とは何かを見ていきましょう。そこでのキーポイントは、“循環”と“信用創造”という概念です。

“信用貨幣”とは何かを見ていくために、“循環”と“信用創造”にスポットを当てながら確認しておきたいと思います。“信用貨幣”論や利子率決定論としての“流動性選好論”について確認しておきましょう。先ほども触れた通り、MMTを提唱しているステファニー・ケルトン教授は、“ポスト・ケインジアン左派”の系譜に位置づけられる学派にいる経済学者ですから、ケインズの言う“流動性選好論”は、MMTを理解するための前提と言えます。
 
学説史の基本的知識のおさらいになりますが、ケインジアンとマネタリストとの論争の対象になった争点の一つが、“貨幣数量説”への賛否です。物価変動は貨幣数量変動に比例するという考え方は、かなり昔から存在しました。これを明確に定式化したフィッシャーの交換方程式は、貨幣数量と貨幣の流通速度との積が、物価と取引量との積に恒等的に等価の関係にあることを示すものですが、“貨幣数量説”は、この恒等的関係に「流通速度の一定」という仮定が付加されます。“新貨幣数量説”を主張するマネタリストの旗手であるミルトン・フリードマンは、“マーシャリアンk”の安定性という前提に立って、貨幣数量が物価水準を決定すると主張しています。

フィッシャーによって定式化された交換式は、MV=pXの形をとります(Mは貨幣量、Vは貨幣の流通速度、pは物価水準、Xは実質生産量です)。pX=YのYは名目国民総生産にあたり、Xは実質国民総生産で、pはGNPデフレーターに対応します。そうすると、MVは総需要、pXは総供給を意味することがわかります。

ここに因果関係を読み込んだ解釈をしなければ、上式は単なる恒等式です。“貨幣数量説”は、この式に特定の因果関係を読み込む解釈と言えるかもしれません。すなわち、貨幣量Mの増減が実物的関係とは無関係に、一意に物価水準pの変化を規定すると読むわけです。もし、これが正しければ、貨幣は実物的関係を覆う“ベール”に過ぎず、貨幣量の変化は物価水準を変化させるだけに終始し、実物的関係に何の影響も与えないということになります。いわゆる“貨幣の中立性テーゼ”です。
 
こうした主張を展開する“貨幣数量説”の問題点は、以下のように指摘されてきました。問題点の一つは、方程式の諸変数間の因果関係の問題です。これは、貨幣量の外生的付与の可能性に対する疑問でもあります。仮に、一時的な貨幣量を規定しえても、貨幣による購買量の変化は企業の生産決定や投資決定に影響を与え、実質生産量Xを変化させる点が重要です。このことは、商品を購買するためには、それに先立って貨幣の保有が必要だということからわかります。このため、実質生産量Xは貨幣量Mから独立ではないので、貨幣量の変化が長期利子率や投資需要に影響を与え、それが実質生産量に影響を与えることになります。そうすると、貨幣と実物との間の相互作用があるとの結論に至り、“貨幣の中立性テーゼ”は成り立っていないということになります。

問題点の二つは、流通速度Vは、利子率やストックとしての貨幣に関わる金融市場の制度的編成の変化によっても影響を受けて変化しえます。そうすると、貨幣量の変化は、財・サービスの取引に使用される貨幣と金融資産の取引に使用される貨幣との比率を変化させることになってしまいます。とりわけ、今日の金融取引における超高速度取引では、貨幣の流通速度を高めてしまいます。以上のような理由から、貨幣と実物の二分法である“貨幣の中立性テーゼ”は成り立っていないという批判に繋がります。
“貨幣数量説”を批判するケインズは、貨幣需要を流動性選好関数と呼ばれる特殊な関数関係に立脚して説明するわけですが、その前に、この“貨幣”という概念は、従前の“商品貨幣”論に立脚した概念ではなく、それとは異質な“信用貨幣”論に立脚する概念であることを押さえておかなければなりません。世間一般の貨幣イメージが“商品貨幣”を前提とする貨幣概念だから、なおさら重要になります。ここからが本番です。
 
“信用貨幣”論でいう“信用”とは一種の債権債務関係であり、“信用貨幣”とは「銀行債務が貨幣化したもの」です。信用創造は銀行から企業への貸付が行われることによって発生するものであって、その信用が結果として貯蓄をもたらします。その逆ではありません。一般の人々が素朴にイメージするような描像、すなわち貯蓄が預金され、その預金を元に借手に貸付けられるというわけではないのです。
 
信用供与の基礎となるのは、企業の投資計画が生み出す収益性に関する“期待”です。それが信用の返済可能性の基礎を与えます。貨幣の創造と消滅のプロセスとしての“循環”においては、経済主体による貨幣の支出は、必ず他の経済主体の貨幣的な所得となっています。つまり、「支出こそが所得を生み出す!」のです。
 
現代資本主義において、貨幣とは、銀行システムによって創造される“信用貨幣”です。先述の通り、貨幣供給に関する因果関係の出発点は、企業が投資計画を決定する時の“期待”でした。企業の投資計画に基づいて民間銀行に対する資金需要が発生し、民間銀行から企業への貸付が行われる。これが貨幣フローの発生の起点です。それによって生じる貨幣の“循環”を経て、銀行のもとに預金が形成され、更なる準備金の必要を生じさせます。中央銀行は、未決済通貨残高に対応した貨幣を供給します。これが大雑把に整理された“内生的貨幣供給論”というものです。
 
貨幣供給は、経済システムの内部の期待形成・需要条件・生産条件・価格形成などの諸条件によって決定されます。重要なポイントは、銀行から企業に貸付が行われた時点で、既に貨幣は創出されているということです。こうした考えが、ニコラス・カルドアなどの優れたポスト・ケインジアンによって主張されている内容です。中央銀行が貨幣供給をコントロールできるので、この点においても、貨幣供給はあくまで外生的であると考えるマネタリストと対立します。
 
“内生的貨幣供給論”の特徴は、銀行が企業に対して貸付を行う際に、貸付量が利子率とは独立であると解する点です。企業は、投資計画に基づいて銀行に借入の要求を行います。これに対して、銀行による信用の供与は、所与の利子率のもとで、企業により個々の借入要求に対する可否として決定されます。すなわち貨幣供給は信用によって誘発され、需要によって決定されるというわけです(もっとも、貨幣需要に関しては、利子率の水準が投資決定に影響を与えることがあり得るので、貨幣需要が利子率によって影響を受けないとは言い切れませんが)。
 
利子率の決定においては、①中央銀行の割引利子率、②短期貸付利子率、③長期利子率を区別する必要があります。ケインズの利子率決定論である流動性選好論における“流動性”とは資産の転売可能性であり、この可能性の最も大きなものが“貨幣”です。資産の保有形態としては金融資産を債券として保有するか貨幣として保有するかが問題となりますが、流動性選好は不確実性が存在する場合に、現金や現金転換性の高い流動資産へと金融資産を転換しようとする選好です。
 
したがって流動性選好論では、貨幣に利子が発生するのは資産を流動性が最も高い貨幣の形態で持たないで貨幣を手放すことに対する“報酬”と説明されることになります。貨幣は購買力を行使できるが、債券はそれを保持している限り貨幣に変えることができないし、転売して貨幣に転換しようとしても不確実性が残ります。ケインズは、金融資産の中で転売可能性が最も高い貨幣を「現在と将来とを結ぶ連鎖」と表現しています。不確実性が存在する中で、人々は将来の時点で支払いの必要が発生に備えて貨幣を保持しようとするというわけです。
 
金融資産の転売行為は不可逆的時間において行われるものだから、そこには不確実性が付きまといます。こうした不確実性を伴う過程では、貨幣を含む金融資産が将来においてどの程度のキャッシュフローを生むのかが問われ、それゆえこの可能性に対する期待が各経済主体に形成されていきます。
 
短期利子率と長期利子率の関係は、もし現在のベース・レートすなわち中央銀行から借入れによって資金調達している民間銀行の貸付利子率の基礎となる利子率や、短期貸付利子率が一時的なもので長期的には別の水準に落ち着くという期待を、不確実性下の金融市場で金融資産を取引する企業や家計が持った場合、短期利子率と長期利子率との間に乖離が発生します。ここで重要なことは、ベース・レートに関する中央銀行の政策的慣習は、長期利子率から独立しているという点です(もっとも、これは理論的な想定であって、実際は必ずしもそうではありません。中央銀行が金融資産の意見を市場の意見として聞くことは往々にしてあるからです)。

ごちゃごちゃと小難しいことを述べましたが、貨幣とは、元々何らかの価値がある特殊な“商品”に化体されたものがあって、それを貸したり借りたりすることによって生じるのではなく、銀行システムが完備された今日の貨幣観としては、銀行の貸付行為(債権債務関係の発生)こそが貨幣フローの起点であるということです。この点が共有されないと、いつまでもかみ合わない議論になってしまいます。

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