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矛盾を許容する文化

日本人とはつくづくジレンマを抱えているんだなあと感じる。

そもそも法治国家でありながら、現在の憲法は戦後アメリカのGHQ下で作成されたものであるし、「知っているけど知らないふり」をするのが上手い。そのほうが、権威者にとっては批判を浴びずに済むし、結構うまくやってこれたからだ。
(内田樹『街場の現代思想』参照)

知らないふりさえもできない囲い込みのメディアが現代日本を責めている。

テレビとネットが相互に影響を及ぼしながら、情報は発信拡散される。(遠藤薫の言葉を借りれば「間メディア化」が進んでいる。)

ネットで話題になったことがテレビで話題になり、

テレビで報じられなかったことや、テレビのコメンテーターの失言がネットに拡散されて炎上する。

そしてコメンテーターがSNSのアカウントを通して「そんなつもりではなかった」と誤解を招いたことを謝る。

最近は完全に見慣れた光景だが、数年前はこんなこと起こりえなかった。

人々は情報に敏感になり、 

自分の持っていない情報に見出す価値は年々上がっているようにも思う。

経済学的に考えよう。

情報市場は、インターネットの普及により輸出入が容易になった。つまり情報の供給が急増した。一方で、日本のデジタル世代は少子化で決して急増することはなく、むしろ将来は先細りである。つまり日本の情報需要は一定か減少と考える。(最近人口の自然減が40万人超えましたし…)

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6326028

この結果当然のように価格は吊り上がる。

これが情報市場で起きているような気がする。

情報価格は上がっていて、それに伴って富裕層は情報へのアクセスがかなり豊富な一方で(これは旧来からそうであるが)、

貧困層や中間層がさらに情報閉鎖に追い込まれている気がするのである。

これは純度の高い情報にアクセスするには高等教育が必要になってくるからである。

人的資本の質にこだわらない国の雲行きは怪しい。

触れずに上手くやってきた矛盾やジレンマが欧米化された厳格な正義と相対するのは目に見えている。

テレビは矛盾やジレンマにそれでもなお触れず、

インターネットは素手で情報を掴んではどんどん明るみにしていく。

日本の報道番組は本当にくだらないことが多い。

教育資本をつぎ込まれてきた人間たちはそれにいち早く気付き、自分で外国語を習得し、よりワールドワイドな正確な情報を外部から受け取る。

結局貧困層は置いて行かれる。

情報社会と言われる世の中で、

情報は人間を振り回し、経済を振り回して笑っている。

残酷でありながら、情報を巡る人間の在り方はこれからも問われ続けるだろう。

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