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痛みを思い出す 〜障害受容再考〜

何日か前に、右手の人差し指の先っちょを洗面台の扉に挟みました。

我が家の洗面台の扉は大きな鏡になっていて、重量もあるので、軽く挟んだだけでも結構なダメージを喰らいます。1週間くらい経ってやっと痛みが引いてきた訳なんだけど、その間はこうしてPCのキーボードを打つのにもジンジンと痛んで、せっかく書き始めた「架空理学療法士日記」の更新もプツリと途切れてしまった訳で。

この痛みは、不思議なもので、一度気にするとすごく痛くって、なんだか指先にもうひとつ心臓があるみたいにドクドクして、ああ、もう私の指って一生このままなのかな、って不安になってしまうんです。で、そうこうしているうちに挟んだ部分が緑色っぽく変色してきて、すごく気持ち悪くて、病院に行った方がいいのかな、とか、ひょっとして骨折してるのかな、とか居ても立っても居られません。でも、所詮はただの打ち身みたいなものだから、時間が経てば治るんじゃないかな、って楽観的な気持ちがいつも側に佇んでいるのが不思議です。

それからもうひとつ不思議なのが、普通にしていれば、この痛みはそんなに気にならないのです。PC作業をしたり、洗い物をしたり、ふとした時に思い出すんだけど、気にしさえしなければ何ともなくて、我が子を抱き上げることも好きな人と手を繋ぐことも、何の支障もなくできるのです。

で、何が言いたいかというと、障害受容ってこういうものなのかなって思っていたんです。

普段は気にならないちょっとした「生きづらさ」が、例えば何かをしたり、誰かと会ったりした時に、くっきりと浮き彫りになって、何だか不安で、何だか痛くて、損をしたような、自分だけが不幸であるような気持ちになる。
でもね、それを苦にして嫌だなぁと思いながら過ごす時間と、そのことを忘れてしまっていて、好きなことをしたり、好きな人と過ごしたりするのを楽しむことができる時間の、その両方が、例えば半分ずつくらいになったら、その人は「生きづらさ」と上手く付き合えるんじゃないかなって。

「生きづらさ」っていうのは、当然のことながら人によって違うから、手足が痺れたり動かない人もいれば、心や精神にハンディを抱えている人もいるのかもしれない。物理的な負担が軽くても、本人にとっては手足がないこと以上に苦しいものなのかもしれないし、反対に手足がなくても生きづらさは感じてなくて、然程気にしていない人もいるのかもしれない。

『障害受容再考』には、私が勝手に「生きづらさ」に言い換えてしまった「障害」を「受容」するという行為を、様々な視点からの考えた筆者の想いが記されています。そこには障害を抱える本人だけじゃなくて、彼ら彼女らを取り巻く環境や、それまで歩んできた人生の多くが影響していることが書かれているのはもちろんのこと、本人だけじゃなくてそこに関わるセラピストが抱える葛藤なんかについても書いてあって、ああそうだな、私もそんな風に苦しい気持ちになったことがあったな、って、これっぽっちの臨床経験しかない私でも、深く頷けることばかりでした。障害について一度でも頭を悩ませたことのあるセラピストは、読んでみて損がないと思います(頭を悩ませたことがないセラピストなんて居ないと思うけど…)。

他人の気持ちを理解するのは不可能で、例えばそれは夫婦でも親子でも叶わないのが前提だから、私には麻痺で手足が動かなくなった人の気持ちや、生まれつき目が見えなかったり耳が聴こえない人の気持ちはわからない。職業柄、こんな風にはっきりと断言したら、何だか怒られそうでドキドキしてしまうんだけど、だって本当のことじゃない、仕方ないじゃない、とも思うのです。

でもね、これは河合隼雄先生の「こころの処方箋」にあった一節なのだけど、「他者を理解しようとするのは命がけの仕事」なんだそうです。私はこの章にすごく救われた時がありました。で、その章の最後に「人間理解などということは、できるだけしないようにしようと思う人が居ても結構だが、せっかく生まれてきたのだから、死ぬまでにはときどき『命がけ』のことをやってみないと面白くない」というのがあって、正直に言って度肝を抜かれてしまいました。
それと同時に、生きるって、大変だけど面白いんだなぁ、って。たぶん、距離感とかそういう話になると思うんです。私は無力だけど、「生きづらさ」と向き合っている人や、向き合おうとしている人のそばを離れない、そういう人になりたいな、と思いました。

今感じているこの気持ちは、仕事に限ったことだけではないので、言葉の選び方が稚拙だったりするのかもしれないけど、少しだけふわふわとした感想でまとめます。

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