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フランスの「心臓」モナコ公国

モナコはフランスが地中海に面している方向にあり、南は地中海、北、東、西はフランスに囲まれています。世界2番目小さい国、面積は2平方キロしかないが、約4万人がいるため、最も人口密度の高い国です。

1191年、神聖ローマ帝国はモナコ地方をジェノヴァ共和国に与え開発させました。1297年、うまく開発されたモナコを狙って、修道士姿に変装し法衣の下に武装して侵入したフランソワ・グリマルディという人物と彼の従兄弟は要塞の占拠に成功しました。それから彼はモナコの統治者となりました。

モナコの国章は盾の横に二人修道士姿の人はフランソワとその従兄弟です。


こんなことが起きたらジェノヴァ共和国がなんとかするのは普通ですが、当時他国との戦争が忙しくて構う余裕がなかったため、モナコをずっと放置してきました。実は中世紀においてこのような小さな領主が勝手に土地を奪うような事件が多いため、ほとんどの国もあまり気にしない。


これからのモナコも平穏無事で200年近く発展を遂げ、14世紀に新しい問題が起きました。当時ジェノヴァ共和国が衰退し、地中海と黒海の貿易はオスマン帝国に奪われた上、ヴェネツィア共和国と連年の戦争によって国力が急落していました。


モナコの統治者グリマルディ家はこれ以上ジェノヴァ共和国を頼ることができなくなり、新しい保護者を探さなければいけないと認識しました。しかも一つのみならず、保険として同時にスペインとフランス両国と交渉しました。当時のスペインは大航海によって世界強国となり、自分に頼ってくるモナコをすんなり受け入れました。一方フランスのルイ13世も非常に喜び、モナコの申出を受け入れました。


こうやって二人の強い保護者の元でモナコは500年の発展を遂げ、18世紀末幸せな日々が終わりました。フランス大革命によって暴君ルイ16世が打倒され、民衆はすぐ自分の隣であるモナコにも「暴君」がいます。(恐らく当時のフランス人は誰も暴君に見えたでしょう)そしてモナコはフランスに吸収され、親王は海外亡命する羽目になりました。

1815年、ナポレオン失敗後ウィーン会議によってモナコはサルデーニャ王国の保護下に入りました。1860年、フランスはサルデーニャ王国のイタリア統一支援の代わりにモナコの統治権を渡すように契約したが、モナコの二つの県はサルデーニャ王国へ併合を希望したため、再度交渉を始まりました。この二つの県の面積は約20万平方キロ(当時モナコ合計22万)、もしサルデーニャ王国へ併合となったらフランスにとって全く美味しくないわけです。そのため、再度交渉の結果、二つの県はフランスに併合され、モナコは1929年バチカン市国独立するまで世界最小の国となりました。


モナコの位置が大変重要です、水深港及び防御しやすい地形によって他人に渡されたらフランスにとって自分の心臓にナイフが刺されたようなものです。ではどうして直接併合しないでしょう?


それはナポレオン敗戦後、欧州各国はフランスに対して警戒心が強かったからです。そのため、フランスはずっと強引な手段を使うことができず、浸透作戦を行ってきました。関税同盟を作り、国防外交も自分に頼るようにしむけ、1919年、両国は新しい条約を結び、もしモナコ親王は断絶になれば自動的フランスに併合されるという規定です。しかし、100年以来モナコ親王家は子孫繁栄、断絶はほぼないでしょう。2002年、両国再び新しい条約を結び、例え親王家断絶となってもフランスに併合することなく、新統治者はモナコ国民が選ぶことになり、結果に関わらずフランスは依然国防義務を果たすと。


この変化も欧州人の考え方が100年前の侵略拡張から変わったことがわかります。同じ欧州人私が領土が増えれば君が少なくなる、結果意味がないことが理解した。欧州は500年の世界中心にもかかわらず、二度の大戦を経て、世界の中心はアメリカとなってしまい、欧州の最も重要なのは団結することであり、これも後のEU誕生の根本的理由です。


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