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記憶にない想い出。

一人暮らしを始めて、もうじき十年になる。
一様と言っていいのかわからないが、最低限の家事は当然している。

洗濯、掃除だけでなく、料理もしている。
人に言うと、料理とは言わないと言われるが。

最近になって、母の料理を想いだすようになった。
なぜだか、わからないが。

出来上がった料理だけでなく、買い物をしている姿もなぜか想いだす。
ただ、母と一緒に買い物に行ったことはほぼない。
いつも見ていたのは、買い物に行く姿と帰ってきた姿。
だから、想いだすという表現がはたしていいのだろうか。


家族四人分の重たい食材を、かごに入れて曳いている姿が目に浮かぶ。
晴れの日だけでなく、雨の日も買い物をする姿が。

しかし、料理をしている姿は想いだせない。
台所で料理している姿はよく見ていたはずなのに、想いだせない。

だから、どのようにして料理をしていたが、わからない。


今聞こうとしても、それはできない。
二年前に他界して、もういないから。

母が存命していた時は、母の料理を想いだすことはなかった気がする。
いつでも実家に帰れば食べることはできるし、何十年も食べた味だから、
  想いだす必要がなかったのかもしれない。

亡くなる数年前からは、実家近くに引っ越しをした。
引っ越し後に、母は入院して体調を崩し、通院生活になった。
好きだった料理も、簡単な料理しかできなくなっていた。

病院には付き添っていたので、
  私の家で料理を教えてもらえばよかったと今は想う。
当時は全く思わなかったのが、今は残念でしかたがない。


確か、母は料理ノートにいろいろ書いていたが、
  その料理ノートはどこにいったのだろうか。

それすら、想いだせない。
しかし、想いだすことしか、もうできない。

想いだすのは、記憶だけではない。
記憶にないことも、想いだすことがあるようだ。

記憶にないことを想いだす方が、懐かさを感じてしまう。
そこには、記憶という事実以上の
  想いや願いがあるからではないだろうか。

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