見出し画像

( 思索の旅④ ) イノベーションに感じる違和感

前回、一般的なイノベーションが及ぼす悪い影響と課題について考えた。ここでは、一般的なイノベーションに対する “違和感” からイノベーションで大切なことを挙げ、その大切なことから “イノベーションとは何か” を次の思索の旅⑤で探っていく。

違和感① イノベーションを起こすことが目的になっている

一般的なイノベーションを私は次のように考える。一言でいえば、「何かを変えること」。この何かは、技術であり、切り口など。この何かの解釈が、人それぞれである。

「新しい発想から、新しい価値を創造し、人や組織・社会を変革すること。」

イノベーションとは、人や組織・社会がよりよくなるように、変革を起こすこと。変革を起こすことが目的ではなく、人や組織・社会がよりよくなることが目的である。イノベーションは手段にすぎない。しかし、イノベーションを起こすことが目的であるかのようなケースがある。
「イノベーションを起こして何をしたいのか」や「イノベーションを起こした後、どんな社会像を描くのか」などがあっての、イノベーションである。この手段の目的化に、違和感がある。

またイノベーションを “技術革新” や “新機軸” と定義しているが、シュンペーターは「経済発展の理論」の中では、違う言葉を使っている。

「新結合」

この言葉がもつ意味(概念)が重要になってくる。詳しくは後述するが、一般的なイノベーションと私が考えるイノベーションの違いがここにある。イノベーションを起こす前に必要なことが、この言葉に隠されている。

これまで、次の三つの違和感があることについてふれてきた。

・(安易に誰にでも起こせないのに)
   イノベーションを起こすことが当たり前のようになっている
・(社会をよくすることが目的なのに)
   会社をよくするために目的が変わっている
・(イノベーションは手段にすぎないのに)
   イノベーションを起こすことが目的になっている

最大の違和感は、イノベーションの “創造性” を表現する「 “無(0)” から “有(1)” を生み出す」という思考にある。

違和感② “無(0)” から “有(1)” を生み出す

わかりやすい言葉に置き換えるなら、「無いものから、新たな何かを創りだす」という考え。この考えは創造性を表現したもので、以前は理解できていたが、あるきっかけから理解できなくなった。そのきっかけは次の4冊の本を読んで、それも下記の順番で読まなければ、イノベーションの考え方への違和感は生まれなかった。

「無限」に魅入られた天才数学者 :アミール・D・アクゼル著 (科学)
異端の数ゼロ :チャールズ・サイフェ著 (科学)
世界はなぜ「ある」のか? : ジム・ホルト著(西洋哲学)
東洋的な見方 :鈴木大拙著 (東洋思想)

これらの本から「 “無” とは何か」について、科学(数学)と西洋哲学と東洋思想から問われた気がして、探究を始めた。西洋哲学と東洋思想の “無” の違いの説明は、まだ整理しきれていない。かえって混乱と誤解を生みかねないので、改めて書くことにする。4冊以外にも関連する多くの本を読み探究していく中で顕れた問いと要点を書き記す。

ここでいう “無” とは、何を顕しているのだろうか。
果たして “無” から何かが生まれるのだろうか。
そこに在るのは、本当に “無” なのだろうか。
何が、 “無(ない)” なのだろうか。

イノベーションの “無” は、科学や西洋哲学の “無” だと思う。それは、経営学には科学や西洋哲学がベースにあるから。過去の経験から理解していた「何も無いものから何かが生まれる」が、突然私には想像できなくなった。途中のプロセスが抜けていることに気づき、論理の飛躍があるように感じた。私は数学を専攻していたから、違和感があるのかもしれない。

私のこの違和感は、西洋哲学や科学そして宗教においても古代から問われてきた。しかし、東洋思想で “無” を考えると違う。存在と意識(認識)が途中のプロセスに入ることで、論理の飛躍がなくなる。無だと思っている(思い込んでいる)中にみえていない何かが在って、その何かから別の新しい何かが生まれるプロセスが明らかになる。
イノベーションの創造性を表現した考えには、このみえていない何かの存在については、ほとんどふれられていない。まるで、当たり前かのように。

また「無から何かを創る」という考え方は、非常にわかりやすい。シンプルで結果や成果も見えやすいから、人は安心する。しかし、わかりやすいから、見えやすいから、といって安易に信じてはいけない。当たり前だと思っている前提や固定概念を疑うことが、今重要になっている。
社会が変われば、今までは当たり前だったことが、今の社会では当たり前ではなくなる。前提が、固定概念が違えば、その後の行動も大きく変わっていく。思い込んでいる前提や固定概念が正しいのかを、探ることをしているのだろうか。

イノベーションが生み出した結果や成果ばかり目を向け、結果を生み出すまでのみえないプロセスには光が当てられない。光があたっていないから、 “無” にみえるのかもしれない。光があたっていないだけで、何もないのではなく、何かは在る。

本当に大切なことは、「何かを創造することよりも、何かの存在に気づき・発見する」こと。そしてそこから、発想し・創造へとつながっていく。

ここで、私の “無” についての考えを少し説明する。まず、 “無” は存在するかどうかと聞かれれば、存在するとこたえる。ただし、多くの “無” は何もないのではなく、「知らない/みえていない/気づいていない/意識していない」だけのこと。“無” ではなく、何かは “存在” している。
“無” だと思っているものの視点をずらせば、視野を拡げれば、視座を変えれば、何かの存在がみえてくるのではないだろうか。自分がみているものが全てで正しい、と思い込みすぎていないだろうか。

“創造” について、ビックバンを研究していた著名な物理学者のジョージ・ガモフが、次のように言っている。ガモフがいう意味の “無” (正しくは無形)ならば、私は理解できる。無形とは何もないのではなく、形がないことを顕しているから。

「creation(創造)」という言葉を使うことに対して、何人かの書評子から異議が出されたことに鑑み、著者はこの言葉を、「無から何かを作る」という意味とは考えておらず、「無形なるものから形あるものを作る」という意味と考えていることを明らかににしておくべきだろう。
(『宇宙創成(下)』サイモン・シン著 P320より)

本当に目(注意)を向けるのは、外側のみえやすい世界ではなく、内側のみえにくい世界である。“ない”と思っている中に“在る”ものに、目を向けることが大切である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?