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「チッソは私であった」と「責任」という言葉について

 福岡市の福岡アジア美術館で『水俣福岡展』が11月14日まで開催されていた。水俣病についての網羅的な展示とともに、連日充実した講演プログラムが展開され、私が参加した回はどれも満員となる盛況ぶりだった。

 加害企業であるチッソをはじめ、地元行政や国による無責任な対応が被害を拡大させた公害事件「水俣病」。私は、数年前に水俣病資料館を見学した程度の知識しか持ち合わせていなかったのだが、「犠牲のシステム」の典型的な例でもあるこの事件について、理解を深めたいと考えた。

 『水俣福岡展』のスタッフの方に薦めていただいた、書籍の中から一冊を取り上げ、水俣病と「責任」について考えたことを記していく。


緒形直人『チッソは私であった』

 本書は、水俣病患者の緒形直人が、その半生や、水俣病の未認定運動を通じて得た自らの哲学について、1992年~2000年に語った内容がまとめられたものである。2001年に単行本が刊行され、2020年に河出書房新社より文庫化された。緒方は今年、70歳になり、『水俣福岡展』の講演プログラムにも数回登壇している。

 緒方は1953年に、水俣市から北に12キロ離れた芦北町で生まれた。6歳の時に、父親が急性劇症型の水俣病で亡くなり、同じ年に自身も胎児性水俣病を発病した。家業の漁業を継ぎ、患者運動に精力的に参加している。しかし、1985年、31歳の時に患者認定申請を取り下げ、患者団体を脱退して訴訟活動からも退いた。その後、緒方は独自の闘いを続けていくことになるのだが、そこに至った「責任」や「制度化」についての考えが本書のメインテーマとなっている。

 題名となっている「チッソは私であった」という認識。この事について緒方は次のように記している。

 言葉にすればたった三文字の水俣病に、人は恐れおののき、逃げ隠れし、狂わされて引き裂かれ、底知れぬ深い人間苦を味わうことになった。そこには、加害者と被害者のみならず、「人間とその社会総体の本質があますところなく暴露された」と考えている。つまり「人間とは何か」という存在の根本、その意味を問いとして突きつけてきたのである。
 私自身、その問いに打ちのめされて八五年に狂ったのである。それは「責任主体としての人間が、チッソにも政治、行政、社会のどこにもいない」ということであった。そこにあったのは、システムとしてのチッソ、政治行政、社会にすぎなかった。
 それは更に転じて、「私という存在の理由、絶対的根拠のなさ」を暴露したのである。立場を入れ替えてみれば、私もまた欲望の価値構造の中で同じことをしたのではないか、というかつてない逆転の戦慄に、私は奈落の底に突き落とされるような衝撃を覚え狂った。
 一体この自分とは何者か。どこから来てどこへゆくのか、である。それまでの、加害者たちの責任を問う水俣病から自らの「人間の責任」が問われる水俣病へのどんでん返しが起きた。そのとき初めて、「私もまたもう一人のチッソであった」ことを自らに認めたのである。


『チッソは私であった』pp.10~11

 水俣病患者たちの運動は、加害企業であるチッソを防波堤として守る国や熊本県の責任を追及していくものだったと緒方は振り返る。制度上、水俣病の認定申請は熊本県に行なうこととなり、そこで認められなければチッソは患者と認めないということが定着していたからだ。

 人と人との関係性の間で交わされる「本当の詫び」を求めた闘いの相手となったのは、医療制度や金銭補償といった「制度」であった。その闘いの中にチッソの姿は見えてこなかった。

「チッソってどなたさんですか」と尋ねても、決して「私がチッソです」という人はいないし、国を訪ねて行っても「私が国です」という人はいないわけです。
[……]
チッソから本当の詫びの言葉をついに聞くこともなかったわけです。県知事や大臣、いわゆる国からも、いまだに水俣病事件の本当の詫びは入れられていないと思います。

『チッソは私であった』p.44

「応答可能性」としての「責任」

 「責任」というものが、制度の中に組み込まれていき、その主体が不可視化されていったことが、「人間の責任」を問えない歯がゆさを緒方に抱かせたのである。

 ここで、「責任」について、哲学者の高橋哲哉の議論を援用して考えたい。少々長くなるが、引用する。

私は責任ということを、英語のresponsibility(レスポンシビリティ)という言葉、これが日本語の「責任」にほぼ対応するとされているわけですが、この言葉のもともとの意味、つまり「応答可能性」ということから考えられないか、と思っています。
[……]
英語の「責任」に当たる言葉、responsibilityという言葉は、だれだれに答える、応答する、respond to という動詞表現に関係していて、要するに応答できるということですね。他者からの呼びかけ、あるいは訴え、アピールがあったときに、それに応答する態勢にあることを意味すると考えられるのです。ですから、いわゆる罪責、英語のguilt(ギルト)に当たること、つまり犯罪crimeを前提とする罪責としての責任とか、宗教的な罪を意味するsinなどとは語源的に違ったニュアンスの言葉なのです。
[……]
では、責任=応答可能性というのはいったいどういうことでしょうか。[……]私たちのまわりには、他者からの呼びかけがあふれているということです。そもそも言葉というものは他者への呼びかけ、あるいは訴えを含んでいます。聞いてほしいという呼びかけを含まずに発せられる言葉はありませんし、読んでほしいという呼びかけを含まずに書かれる言葉はありません。
[……]
こういった無数の言葉による呼びかけをいっさい受け取らない、聞きたくないとしたら、私たちは社会生活をやめざるをえない。他者と関係をもつことをやめてしまう以外にないんです。
[……]
あらゆる社会、あらゆる人間関係の基礎には人と人とが共存し共生していくための最低限の信頼関係として、呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”があることになります。もちろんこの応答にはさまざまな形がありますが、とにかく応答する、呼びかけを聞いたら応答するという一種の“約束”がある。この“約束”はいつ、どこで、だれとなされたのか分かりませんけれども、そういう非常に古い、原初的な“約束”ですが、私たちは言葉を語り、他者とともに社会の中で生きていく存在であるかぎり、この“約束”に拘束されるとわたしは考えるのです。この“約束”を破棄する、つまりいっさいの呼びかけに応答することをやめるときには、人は社会に生きることをやめざるをえないし、結局は「人間」として生きることをやめざるをえないでしょう。

高橋哲哉(2005)『戦後責任論』講談社学術文庫 pp.29~32

 緒方が言う「人間の責任」とは、高橋の議論での「responsibility」である。一方で、チッソや国、県によってなされた医療補償や金銭補償はguilt=罪責に対する対価であった。

 患者たちの「私たちが味わった底知れぬ深い人間苦をどうしてくれるのか」という問いかけに対して、「制度」からの応答は金銭という非言語的なものであり、生きた「人間」としてのやりとりではなかったのだから、根本的な解決にならないのは当然だった。

 では、国や県、企業といった「システム」に応答可能性=責任は無いのであろうか。勿論、そんなはずはない。

 国や行政の首脳が、システムを代表してことばを紡ぎ「赦しを乞う」姿勢を示すことができる。実際に1995年に当時の村山富市首相による談話では「私は、苦しみと無念の思いの中で亡くなられた方々に深い哀悼の念をささげますとともに、多年にわたり筆舌に尽くしがたい苦悩を強いられてこられた多くの方々の癒しがたい心情を思うとき、誠に申し訳ないという気持ちで一杯であります」と述べるなど、一定の応答は行なわれてきた。(しかし、この談話は一部の患者を置き去りにして行なわれた「水俣病問題の解決」にあたって出されたものであることは強調しておかなければならない)。

 一方で、呼びかけと応答との関係は、「一度謝ったから」とそれで終わるものではない。被害者からの呼びかけが続く以上、それに応え続けなければならず、応答責任は終わり無く続いていくのである。しかし、これらのシステムによる「応答」は持続することなく断ち切られ、被害者たちの呼びかけは置き去りにされてしまっているのだ。

 では、そのようなシステムを支えているのは誰なのだろうか。それは、主権者である国民一人ひとりである。主権者の多数が被害者たちに、応答可能性としても罪責としても、真摯に向き合うように求め、行動すれば、システムはこのようなかたちになっていなかったはずである。そうであるならば、水俣病患者を含めてすべての主権者に、このシステムに対する責任が均等に負わされているのだろうか。

 作家の徐京植は歴史認識の問題にからんで「中心部日本国民」と「周縁部日本国民」という概念を提示している。単純に国籍を持っているとか、有権者だからという枠だけでなく、エスニックな差異にもとづく歴史的な責任の違いもあるという考え方だ。

 水俣病問題をこの図式に当てはめると、チッソの活動が少なからぬ力となった経済発展の恩恵を享受した大多数が「中心部日本国民」であり、水俣病の患者らが「周縁部日本国民」ということができるだろう。国全体の経済的発展のために、あまりに過酷な被害を押しつけられた「犠牲のシステム」に取り込まれた人びとだったともいえる。

 水俣病問題について考える時に意識しなければならないことは、日本に暮らす日本人の大部分は、この問題に対して法的な責任と区別される、道徳的な責任を負っているということである。なぜならば、私たちは水俣病患者たちの被害の上で発展してきた、この日本という国の連続線上に生きていて、その恩恵を今も受けているからである。

 他方、企業としてのチッソを支えているのは、株主であろう。チッソの幹部は型どおりの謝罪のことばを折に触れ述べてはいるが、2010年に当時の社長だった後藤舜吉氏が補償会社と事業会社の分社化にあたって「水俣病の桎梏から解放される」と述べたほか、2018年には「救済は終了した」と発言するなど、とても患者らからの呼びかけに誠実に応答しているとは思えない姿勢を繰り返している。このような会社のあり方に、どのような意思を示していくのか、株主らの姿勢も問われている。

自対自の呼びかけと応答

 緒方は、自らの問いかけに、自らに対して応答した。その結果が、患者としての認定申請の取り下げだった。そこに至る心境を、緒方はこう記している。

熊本県庁や環境庁や裁判所や、いろんな所に行動を起こしていく闘いの中で、その問いを受けてくれる相手がいつもコロコロ入れ替わって、相手の主体が見えないわけです。そして投げかけたものを受け取ってくれる相手がいないもんだから、逆に自分のところに跳ね返ってきてします。[……]「おまえはどうなんだ」と問われたんだろうと思います。かつてチッソが毒を流しつづけて、儲かって儲かって仕方がない時代に、自分がチッソの一労働者あるいは幹部であったとしたらと考えてみると、同じことをしなかったとはいい切れない。そうした自分を初めて突きつけられたわけです。私がチッソの中にいたらどうしただろう、三十年、四十年前、チッソの中にいたらどうしただろうかと考えることがヒントでした。今まで被害者、患者、家族というところからしか見ていないわけですね。立場を逆転して、自分が加害者側にいたらどうしただろうかと考えることは今までなかったことでした。

「チッソは私であった」pp.47~48

 緒方は応答責任の矛先を自らに向け、制度による補償を拒み、被害者でありながら、自分が加害者の立場にいたらどう動いたかというところまで考えるに至った。

 ユクスキュルが『生物から見た世界』で論じたように、見る者の知覚と行動がつくり出す“環世界”によって、同じ「世界」は全く違ったものになる。水俣病というあまりに不条理な被害にあってもなお、他者の視点に想像力を膨らませた緒方の言葉から、社会で起きる事象をさまざまな角度から考えることの大切さを実感せずにはいられない。

 他にも、苛烈な犯罪の被害に遭いながら、多角的な視野を持って発言している人物に、松本サリン事件の被害者である河野義行氏などがいるだろう。彼らの行動を追っていると、自らもそうありたいという尊敬の念を持つと同時に、被害者一般にそのような態度を求めてはいけないし、求めるべきでもないということは記しておかねばならない。被害を訴える人たちの声は至極正当なものであるし、なによりその「責任」が問われるべきなのは、人間としての応答をしようとしない加害者であるのだから。

(本文中敬称略)

 


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