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庶民の哲学

常に半信半疑なので何かひとつのもの(宗教)を信じることができないのですが

原典をひとつのお話として、ひとつの人間として読むのは好きです。

(と言ったらめっちゃ読むひとみたいですが、かいつまんで断片的に)

最近は老子、荘子の老荘思想をおもしろいと思って読み返していました。

(前から思っていたけど、ここにきていっそう)

もともとは「治める」ということ自体を笑い飛ばす「荘子」の方に興味があるのですが(文学的なこともあり)

理想の政治を考えるときには「老子」のことも考えます。

◉無為自然(むいしぜん)

◉小国寡民(しょうこくかみん)

◉愚民策(ぐみんさく)

など。

「山の寺子屋」を終えて、垣間見た和歌山の在り方に(そして「山の寺子屋」というイベントの在り方に)このような「老子」の思想と重なる部分を感じたのでメモしておきたい。

◉無為自然

太平洋岸の道を車で走ったが、この大きな海は確かに偉大でおそろしい。

これほど広大な自然に囲まれて日々を過ごすということはマンション育ちの私にはすぐには想像できない。

人間は小さな存在であり、何を為すにもたかがしれているのだと感じさせられる。

車の後部座席でどこまでも続く海を眺めながら、そこかしこにある「海抜~メートル」標識を見つけては、これは津波が来たらどうしようもないなと東日本大震災のことを想像し、「和歌山に原発はあるのだったっけ?」と考えていた。

www.asiapress.org/apn/2013/11/japan/post_5117/

このような記事を見つけた。和歌山には原発は一基もない。

住民たちが長年反対運動を続けて「何もしない(無為)」ことを自分たちで選んだのだ。

久々に「人間の良心、知性」、「先人たちの恩恵」というものをひしひしと感じた。

そのうえに今日があるのだ。

◉小国寡民

和歌山の方々と触れ合った感想は「小国寡民」ということだった。

誰かと誰かがどこかでつながっており、すぐにたどることができる。

小コミュニティであること、少人数制であること。

「ムラ」であることは、

しがらみと言えばしがらみであり、いろいろ大変なこともあろうが、ひとりひとりの自立を否が応にもうながす恵まれた環境であるように思う。

大人になっても、先生との交流があったり、

「先生」というのも大人数の学校の「先生」とは違うように思う。

すべての職業にいえるが、職住一致、人と人が知られているということは悪いことができないということにつながる。何らかの職業である前に人間であるということが前提として要る。

都会では、学校選びにしろ、電気屋選びにしろ、不動産屋選びにしろ、入念に選んだとしても(スマホで)、「人間」に出会う確率は低い。人がたくさんいる分「人間」はあまり見つからない。「人間」ではないふりをして、すべて他人事のようにして暮らしている。面倒はごめん。みんなが下を向いている教室と同じ状態だ。

なかなか人間と出会い、普通のなんでもない会話をする(相談に乗ったり乗られたり)ということができない。

そんな中で「ハラスメント」や「いじめ」の問題が(その他の問題も)起こるのかもしれない。

関係性が希薄なのだ。

◉愚民策

これは、かつてのナチスドイツや現在日本で行われているようなものとは違い、「知識を用いなくてもいい方法で民を治める」というもので、こむずかしい理屈(ことばや法律)で治めるのではなく、民は純朴なままにしておくのがよいという意味らしい。

「善なるものはわれ、これを善とし、不善なるものもわれ、またこれを善とす。徳は善なればなり。」

いいものはもちろん「いい」とするし、よくないものも「いい」と認める。なぜなら人間の徳は善だからである。よくないものもひとまず認めることで自らよい方に転ずる余地を残す。敵であっても最後まで追い詰めすぎてはいけないのは戦の基本でもある。おとながよければ、いずれこどももよくなる。政治がよければいずれ民もよくなる。

これは勇気と根気がいるかもしれないが、こどもを「信じ」て「待つ」ということをまずおとなが率先してやる。これが「無為の治(何もしないで治める)」ということなのだと思う。

純朴民策ともいえるのかもしれないが、人数が増え、関係性が希薄だとそうも言ってられなくなり、結局こどもを信じない。信じてもらえなかったこどもには、不善を行う道しか残されない。純朴では生きていけない社会になってしまっているのである。

山の寺子屋で関わった方々は、友人や先生や地域の方々ともいつまでも関係があり、人間を「信じている」輝きが感じられた。

不便さ、選択肢のなさ、挫折、災害というものは、人間同士の本当の付き合いを生み、考えるきっかけになるのかもしれない。

孔子の『論語』のように、仁義を重んじる考え方にも惹かれるところはありますし、都会で表の世界でエリート(優等生)として、人間的に修養を積み、人を治める(リーダーになる)という理想は、誰かに言っておいてほしい(理想がないのはこまる)気はするのですが、それだけでは息苦しいし無理もあるのです。

たまには力を抜いて、無為に過ごしてみたいという理想も生まれます。図書館で読んだ本に、儒教(孔子)は「エリートの哲学」、道教(老子荘子)は「庶民の哲学」とありました。なるほど、「優等生(を目指すひと)の哲学」「劣等生(優等生とは思っていないひと)の哲学」といえるかもしれません。

今回、「山の寺子屋」では老荘思想を肌で感じられたように思います。20代は孔子によりすぎた(30歳で学校をはじめるのも同じ)きらいがあるので、30代はもう少しゆるく老荘思想によって、在野の自由人として遊んでいこうと思います。イージーに、クレイジーに。

Photo by Mami Sakura

「山の寺子屋」の写真はコチラ👇

「山の寺子屋」で私がやったこと(やりたいこと)はコチラ👇






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ずぶちゃん

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