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蟻の巣観察キット、そして私の処世術 蟻の気持ちを考えた文学部学生の夏休み

世間の一般的な夏休みが終わろうとしていた9月、スーパーで自由研究用の蟻の巣観察キットが売れ残っていた。
どうやら、透明な容器のなかにジェルを入れ、蟻を入れ、巣を作らせて、その様子を観察していくというもののようだ。
大学1年生の夏休み、横たわる漠然とした時間をどう有意義に処理するのか血迷っていた私は、初心に還るといって知育菓子に片っ端から手を出してみたり、「おかあさんといっしょ」のうーたんぬいぐるみを何の不満をぶつけているのかの如く振り回して遊んだり、1日中宝塚歌劇に耽ったり、なんとなく映画を観に行ったりと、完全に暇なる者の王と化していた。
暇と言ってもバイトがある日はあるし、お金もほとんどないので、遠出をすることはあんまりできない。
とてつもなく空虚な時間を過ごす、”暇なる者の王”。
そんな”暇なる者の王”だった私は、この蟻の巣観察キットに強く心惹かれていた。
蟻を透明ケースの中で飼育して、「蟻社会」という目の前に広がる未知の世界に思いを馳せる夏休み。暇を極めた、暇のプロフェッショナル、”暇なる者の王”として不可解な行動を繰り返し、母親を半気味悪くさせていた今までの夏休みは、もう、これで、おわり。
もう知育菓子片手に血迷うこともなく、私は残りの夏休みを目の前の「蟻社会」をひたすらに一途に見つめながら、有意義で素晴らしいものとして過ごすのである。
そう思っていた矢先、小学生くらいの男の子が蟻の巣観察キットを取っていった。自分のこれから先の夏休みを彩るはずだった、蟻の巣観察キットは、用いるべき人のもとへ行ってしまったのだ。その男の子と蟻の巣観察キットの取り合いをしても良いんじゃないかと思う邪念、いやいやそんなことしたら大人げない、まったく恥ずかしいよ、と思う良心。
色々なものが混ざり合って、喧嘩するうち、その男の子は会計を済ませて母親に連れられて帰っていった。自分の目前には、先ほどまで観察キットが置かれていた商品棚が、まるで私のこれからの夏休みを象徴するかのように、空虚に佇むだけだった。家に帰っても何もすることがなく、とりあえずこの前買った文芸春秋に目を通したものの、結局直ぐに飽きてしまった。
自分の机の半分を、もう西日が侵食している。黄昏時特有の憂鬱な気分に包まれながら、先ほど逃した蟻の巣観察キットにまるで死んだ恋人に思いを馳せるかのように心を寄せた。西日の侵食のなか、死んだ恋人に思いを馳せるなら、それはそれは絵になるが、今回の場合、思いを馳せているのは蟻の巣観察キットだ。さすがにロマンチックもクソもない。

蟻はいったいどんな気分だろうか。
ある日突然捕獲されて、透明ケースのなかのジェルでつくられた世界に閉じ込められて、それでも懸命に仲間と巣を作るのに励むって、いったいどんな気分なんだろうか。辛いだろうか。いや、透明ケースに入っている方が幸せではないのか。外の世界は怖いじゃないか。
いくら考えても、答えはいっこうに出てくることは無かった。当たり前だ。私は蟻じゃなくて、人間である。蟻の気持ちなんて、知らんがな。
西日は私の机の4分の3を侵食して、ひたすら傾き続けている。そろそろ自分の黒々とした髪の毛も熱を帯びてくるころ、私はあることに気付いた。
蟻の目線に立って考えずとも、そういえば自分が人間として生活するこの世界こそ、誰かの蟻の巣観察キットならぬ、人間観察キットの内部かもしれないじゃないか…。と。
この地球という透明ケースに入れられて、私だって誰かに観察されている可能性、つまりこの世界が誰かの観察キット、つまり人間観察キットである可能性を否むことなどできない。こうやって、自分が観察対象なんじゃないかと疑いはじめた人間である私を、ほくそ笑んで観ている”誰か”が、もしかしたらどこかにいるのかもしれない、と強く思った。
そう考えると、つまりもしもこの世界が誰かの人間観察キットの内部だとすると、最近の自分の身の周りの出来事はあまりにも陳腐に見えてくる。
日々過ごしていると、楽しいことだらけなわけではないし、辛くて悲しいことだって沢山あるけれど、所詮は誰かの人間観察キットのなかの、”人間”どうしの妙な揉め事や争いにしか過ぎないのかも知れないのだ…。

昔、かの有名なシェークスピアがこう言ったらしい。
「この世は舞台、人はみな役者だ」…と。
まさにその通り、と私は思ってしまう。
シェイクスピアはもちろん自らの演劇論の一部としてこの言葉を残したのだろう。が、もしかしたら、ひょっとしたら、自分が生きている世界が所詮は誰かの人間観察キット、誰かに対する見世物小屋(ショーテント)にしか過ぎない、と感じてこの言葉を残したのかもしれない。
私たち人間は誰かの人間観察キットという舞台の中で、人間という役者として、誰か(観客)に観察、いや観劇されているだけの存在という可能性だって大いにあるのだから…。

先ほども書いたように、人生はあんまり楽しいものじゃないと最近思う。
神様がもしいるとするなら、残酷である。人間をみんな平等に作りあげているわけではない。
人間かそれ以外の動物に生まれるかの「生物ガチャ」、どんな国に生まれるかという「国ガチャ」、どんな親の元に生まれるかの「親ガチャ」…、自分で選べないものを挙げるとキリが無いが、私たちはこれらの「ガチャ」、つまり自分では選べないものによって、人生をかなり左右されている。私だってそうである。他人と生まれた国を比べ、容姿を比べ、学力を比べ、家柄を比べ…。様々な自分では選べないものを他人と比べては、他人に対して強烈な嫉妬心を抱いたり優越感を抱いたりする。時にそれが何かの原動力になることもあるが、大抵は落ち込むことが多い。
でも、どうせ所詮はこの世の中、誰かの人間観察キットなのかもしれないのだ。そう考えると、少し気が楽になるような気がする。そもそも自分たち人間が何者かなんて分かっていないのなら、この世界は誰かの人間観察キットの中だと都合よく信じたのちに、耐えられそうにない苦しみも悲しみも、やり場のない他者への怒りや嫉妬心も、観察者の”誰か”からすれば、なんか人間が怒ってんなあ、泣いてんなあくらいのことに過ぎないんだよなと考える。そうすると、自分の心にあるものがかなりどうでもよく思えてはこないだろうか。

これは私が身に着けた、この世界を生き渡っていくための一種の処世術であると言えるだろう。別に自分の中の嫉妬心や怒りが消えるわけでもない。明日も街中でカップルを見かければ心に強烈な嫉妬の炎が燃え上がるし、人に嫌がらせをされたら悲しい気持ちになって憎悪の念が湧き、場合によっては何千倍にして仕返しをすることだってある。
ただ、そんな中を生き抜いていくために、私は処世術として、今日もこの人間観察キットの世界を観察する”誰か”のことを思いながら、観察対象としての役割を果たしていくわけである。













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