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”大人になる”という言葉が意味するもの~思春期すっ飛ばして福岡に出戻ったら、知っているようで知らない場所、知っているようで知らない友人に囲まれた話~

私は幼いころ、「はやく大人になりたい」と思っていた。

とりわけ小学生のころは、その願望が顕著だった。

同じような通学路を通って、中学校に通っている中学生の姿を見て、
別に制服が可愛いわけでもなく、小学校へ着ていく私服を選ぶのが面倒だったわけでもないのに、ひたすら羨ましいと思っていた。

近所の本屋に行って学習参考書スペースを覗けば、
たくさん並べられてあるチャート式、数学、物理、などという言葉をひたすら凝視した。
そして、先ほどの中学生に対してと同じ要領で、高校生に対してひたすら羨ましいと思っていた。

”お菓子を死ぬほど食べたい”だとか、”大好きな友達と世界旅行をしたい”とか、”友達とシェアハウスがしたい”だとか、小学生には到底叶えられない願望をたくさん抱いていた私にとって、”はやく大人になりたい”という願望はその一部に過ぎなかった。

しかしながら、神様というのは今の私からすれば皮肉、当時の私からすれば優しいもので、”はやく大人になりたい”という願望だけは、きちんと叶えてくれた。
しかも、子ども時代の終わりである小学校時代までは福岡で過ごさせたのに、自分の中の”大人”が、かたち作られる中学高校時代は宮崎で過ごさせて、じゅうぶんに大人になったら、子ども時代を過ごした福岡に帰らせる、という、何とも言えない秘策とともに。
(こう考えると、私はまるで、産卵の時だけ産まれた川に還ってくる鮭のようだ)

子ども時代は福岡で過ごして、宮崎で”大人”をかたち作り、じゅうぶんに大人になったら、また福岡に戻ってきたため、子ども時代における福岡での感覚と、大人になってからの福岡の感覚では、全く違う。
つまり、私はずっと福岡に居た人たち、もしくはずっと宮崎に居た人たちと比べて、子どもの感覚と大人の感覚の違いを、よく理解している。
(と、思っている)

ただの思い上がりかもしれないが、私はその感覚の違いを通して、”大人になる”という言葉が、いったい何を意味しているのかということを、他の人の何倍も自分なりに考えて、自分の中で意味付けしている自信がある。
今回は、私の思い上がりに過ぎないかもしれないその自信をもとに、
”大人になる”という言葉が意味するもの、について書いてみようと思う。

”大人になる”ということは、抽象的な言い回しになってしまうが、

自分自身と、自分自身の置かれた場所の輪郭が、自分の心の中できっぱりと明瞭になるということ

であると思う。

もちろん、”大人になる”という言葉には、様々な観点から、様々な意味がある。
身体的観点からすれば、身体が成熟して生殖可能な年齢に達する意味を持ち、精神的観点からすれば、様々な経験を積むことで、以前よりも成長する意味を持ち合わせることが多いかもしれない。
しかしながら、身体的観点、精神的観点など、他にも無数に挙げられる”大人になる”ということに対する観点に思考を巡らせても、やはり私は、”大人になる”ということは、自分自身と、自分自身の置かれた場所の輪郭が、自分の心の中できっぱりと明瞭になるということ、だと思う。

では、それは一体どういうことなのか、を説明する。

先ほどの、自分自身と、自分自身が置かれた場所の輪郭が、自分の心の中で
きっぱりと明瞭になるということ、をもっと簡単に言い換えると、

「自分自身と、自分自身が置かれた場所について、他人から見た視点、いわゆる客観的な視点から考察をしたうえで、それを自分なりに理解する」 

という言葉になる。
今までは主観的な立場からのみ、自分自身やその周りを見つめていなかったものの、客観的な立場に立って自分自身やその周りを見つめ始め、自分なりではあるものの、自分自身とその周りについて、理解をしていくこと。

これが、”大人になる”ということだ、と私は思う。

思春期について数多く挙げられている特徴のなかで、子ども時代は、自分や自分の周りについての自己評価しか気に留めていなかったのに、思春期になると他者評価に対してかなり過敏になる、という特徴は有名なものである。
私は思春期のこの特徴こそ、自分の思う、”大人になる”という言葉が意味するもの自体の根幹になっていると考えている。

主観的な立場からでしか、自分自身やその周りを見つめていなかったのに、
ある日突然「自分や自分の周りって、他の人から見たらどうなんだろう」と
思いつき、客観的な立場から考察をし始めると、
良い意味でも悪い意味でも、見える世界は変わる。
自分やその周り(環境はもちろんのこと、家族や友人、好きな人、などの人間関係も含めて)に対して、自分が抱く感情や自分の見方は、ガラリと変わる。
大胆な言い方をしてしまえば、”子どもの世界”から”大人の世界”へと移り変わっていく。

そして、いちど自分自身やその周りを客観的な立場から見つめ始めると、その立場から見えるものが、どれほど残酷で苦しいものであっても、その立場を捨てることはできない。
その立場から、自分や自分の周りに対する考察をすることを、やめることはできない。むしろ、気になって気になって仕方がない。
一度移ろい始めたら、
大人の世界から子どもの世界に戻ることは、絶対にできない。
そして、客観的な立場から見えるものに葛藤しつつ悩みながら、なんにも考えていなかった(つまり主観的な立場からしか物事を捉えていなかった)
子ども時代に戻りたいと、一度は思う。

ここで、私の事例を挙げてみる。
私は始まりにも書いたように、宮崎で自分の中の”大人”が、かたち作られる時代を過ごして、子ども時代を過ごした福岡に戻ってきた。

つまり、先ほどの言葉を用いて言うならば、
大人の世界の住人になったのに、子どもの世界の住人だったころに過ごした場所に無理矢理押し戻された、のである。
(異常事態である…..)

大人の世界の住人になった後、友人たちを始めとする自分の人間関係に関わる全ての人たちに対して、自分が抱く感情、自分の見方、がガラリと変わっていたことに気付いていた私は、子どもの世界の住人だったころ(つまり自分の人間関係に関わる全ての人たちに対する捉え方、抱く感情が変化する前)だけに自分の人間関係を形成していた人たちに会うたび、不思議な感情を抱いていた。
人に会うだけではなく、子どもの世界の住人だったころに過ごしていた場所に行っても、同じように不思議な感情を抱いた。
せっかく福岡に戻ってきたから、と言って、その場所に足を運んだり、その人たちに会うたびに懐かしい、という感情を抱き、時にはそれを声に出して言いながらも、心の中では常に、
この場所や、この人たちのことを、
私は知っているようで知らないなあ、と思っていた。

この経験は、美術館に行き、額縁に飾られた一枚の絵画を、一度目と二度目で見る観点を変えることによって鑑賞を行うことに似ていた。
一度目はある観点から鑑賞を行い、二度目は全く別の観点から鑑賞を行うと、同じ絵画を見ているはずなのに、また、その絵画に対して既視感は覚えるのに、何か別の絵画のように感じられてしまった経験である。

その場所やその人たちに対して、私はかなりの既視感を感じたことから、
懐かしいという感情を抱いたものの、
私は大人の世界の住人になっていた(つまり主観的だけでなく、客観的な観点を持ち合わせるようになったということ、先ほどの絵画のたとえ話で言うと、二度目の全く別の観点から鑑賞するようになったこと)から、
知らないような場所、人たち、に思えたのである。
そしてその感情と同時に、子どもの世界の住人だったころと全く同じように、その場所や人々に対して向き合うことは出来ないということも、即座に理解していた。
子どもの世界の住人だったころに戻りたい、といくら願ったとて、それは絶対に不可能なことだから、である。


”大人になる”という言葉が意味するもの、なんて、人によってかなり解釈が分かれるし、答えがひとつになるわけない。
私の場合、”大人になる”という言葉が意味するもの、に対して、引っ越しを行ったことから多く得られた感覚をもとに考察している。
そのため、生まれてから今までずっとその場所に居る人たちからすれば、中々共感しにくい事柄が多いだろう。

しかしながら、少なくとも私にとっては、”大人になる”ということは
「身長が伸びる」だとか、「初めて生理が来る」だとか、「人として精神的に成長する」だとか、そんな表面的な、分かりやすい事象によって意味付けられるものではなかった。
自分自身と、自分自身の置かれた場所の輪郭が、自分の心の中できっぱりと明瞭になること。
つまり、自分自身と、自分自身が置かれた場所について、他人から見た視点、いわゆる客観的な視点から考察をしたうえで、それを自分なりに理解すること。
それと同時に、自分自身や周りに対する自分の見方、自分の抱く感情がガラリと変わり、子ども時代の場所や、関わっていた人たちが、知っているようで知らない場所、人たちだと感じられること。
そのことが、私にとっては”大人になる”という言葉が意味することだった。

”はやく大人になりたい”と言っていた小学生の私には、こう言いたい。

「小学生の今、つまり子どもの世界の住人である今の、自分自身や周りに対する自分の捉え方や、自分が抱く感情を、とにかく大切にしてほしい」と。

とは言っても、子どもの世界の住人だった小学生の私は、
その細くて小さな顔を綻ばせて、あはは、と笑うだけだろうが。



















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