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私はヤングケアラーとして生まれた。

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私はヤングケアラーとして生まれた。をまとめてみました。
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記事一覧

私はヤングケアラーとして生まれた。⑩

今現在、実家を離れて結婚し
とても幸せな日々を過ごしている。
本当に報われた…頑張ってきた私に神様から
ご褒美を頂いているように感じる。

この記事を書くことを提案したのは
旦那さん。
色々躊躇うこともあり書き切る自信がなかったが
なんとか終わらせることができました。

そして、書き始めてからより今の生活に感謝の気持ちが湧いています。

ヤングケアラーとして過ごしてきたこの30年
特に、多感な時期

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私はヤングケアラーとして生まれた。⑨

専門学校に入学し
朝3時起き→介護→学校→バイト→0時就寝という
スーパーハードな平日
朝4時起き→介護→バイト→介護→教習所→介護→0時就寝という、楽しみがない休日を
2年間過ごしました。

その間に、父方の祖父が他界。
父方の祖母の認知症が悪化。→暴力的になる。
母方の祖父を引き取る。→寝たきり&胃ろう設置と
介護が終わることなく、次から次へとやってくる事に嫌気がさしながらも、
私にはこの道し

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私はヤングケアラーとして生まれた。⑧

前回の記事からだいぶ時間が経ってしまった。
実は、これを書いていて両親を悪く言って
共感を得ようとしている自分が嫌になって筆を置いていた。

そこから色々考え、吐き出すことにした。
私自身が前に進む為、良い意味で卒業する為に。

高校に入学してからの3年間は介護から離れて
学生らしい生活ができたと思う。
夏休みなのどの長期休みはバイトをして
なるべく、家族から離れる時間を生み出して過ごした。

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私はヤングケアラーとして生まれた。⑦

中学3年になった私は、進路指導の先生に
今の家庭環境について相談した。
その結果、介護から離れることができる全寮制の高校を勧められた。

私は今の生活から離れられるならと
即決した。

両親の反対を押し切り
私は実家から逃げるようにして
晴れて全寮制の高校に入学した。

そうして私は祖父母の介護から一旦
離れることができたのだった。

私はヤングケアラーとして生まれた。⑥

祖父母の介護が始まって6年がすぎ
小学生だった私は中学生になった。

多感になった私は今まで両親に対して
気づかなかったことに気づき始めた。
それは、前回言及した介護が必要な祖母に対しての不誠実さや
言葉が悪くなるが、世間体を気にした行き過ぎた外面の良さである。

私の住む地域では
町内会主催でお祭りなどが定期的に行われていた。
父は町内会の役員なので必ず参加する。
母も婦人会に入っていたため、お

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私はヤングケアラーとして生まれた。⑤

始まった祖母の認知症は祖父のそれとは違う症状だった。

それは妄想や幻覚幻聴
祖母は朝から晩まで物が見えなくなれば、誰かに盗られたんだと大騒ぎ。
さらに夜中になると突然祖母の悲鳴が聞こえてくる。
「空襲だっ!逃げないとっ」「死んだはずの○○がいるっ!」と
大きな声を出して家の中を四つん這いで這いずり回るのである。

祖父の介護に慣れ始め、
私はやっとゆっくり眠れると思っていた矢先の出来事だったので

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私はヤングケアラーとして生まれた。④

私の生活は在宅介護が始まって一変した。

私は朝5時30分に起きる。
起きたらお湯が入ったペットボトルを持って
祖父の寝ている部屋へ1人でおむつ交換に行く。
排便がシーツに漏れていたり、祖父がおむつを外してしまい
寝具やパジャマが汚染している時も多かった。
始めは汚さや面倒臭さがあったが
次第になんとも思わなくなっていった・・。
さながらロボットのようである。
それが終わったら手を洗って台所へ

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私はヤングケアラーとして生まれた。③

毎晩行われる祖父の徘徊が続いた。
手に負えなくなった両親は行政の支援を受けるため
嫌がる祖父を精神病院に連れて行った。
そして祖父は石巻市の介護認定を受けた。

行政のディサービスなどを利用することができるようになったが
祖父は、利用を拒み
迎えに来た職員を怒鳴り散らすようなこともしばしばあった。

両親も仕事でいないので、
そんな時は私が祖父をなだめてディサービスの送迎車に乗せていた。
ディサー

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私はヤングケアラーとして生まれた。①

私は東北の沿岸部にある小さな港町の石巻市
父は製鉄工場の作業員、母はかまぼこ工場の事務員兼作業員という
一般的な家庭に生まれた。
家族構成は父方の祖父母、両親、私、年子の弟。
周りとの違いと言えば両親の年齢だろうか。

私の両親は結婚がその当時としてはだいぶ遅く、私が生まれた時の年齢は
両親ともに40歳に近かった。

そして私が生まれた頃には祖父の認知症が静かに進行していた。
介護と子育てが同時に

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はじめます。

私の名前は小豆(あずき)。
どこにでもいる31歳・・・だと思う。

なぜ「だと思う。」なのか。
それは私の生きてきた31年間が怒涛だったからである。

このノートは怒涛の人生を過ごしてきた私小豆の今までの経験と
サポートしてくれた人たちとの出来事について綴っていこうと思う。
これを読んで、ほっこりしていただけたら幸いです。