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本を読むのとか全然好きじゃない

 私は、小学校と中学校の間で幾度か課された読書感想文の宿題を「十五少年漂流記」と「ロビンソン・クルーソー」の無人島サバイバルブック2冊のみで乗り切っている。しかも、国語の音読の宿題は一度たりともしたことがない。本読みカードに虚偽の申告を小学校丸6年間続けた。大企業もビックリの隠蔽ねつ造体質っぷりである。先生ゴメンネ。
 とまぁ、それくらい、幼少期の私は活字の本に興味がなかった。授業などで仕方なく読む本はさておき、自発的に活字の本を読むことはほとんどなかった。両親があまり本を読まない家系だったこともあり、家の本棚に活字の本が並んでいた記憶もない。本を読むのが嫌いとか興味がないとかそういうことじゃなくて、そもそも読書という文化そのものが私の中に根付いていなかったのだ。

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 本好きってのは、今からこの歳でなろうと思ってもそう簡単になれるもんじゃない。それこそ、公務員試験みたいに年齢制限が設けられていると思う。なにより、”本の世界へと没入してゆく感覚”みたいなものを物心がつくころに身に着けられなかったことが、私と活字との間に決して埋められない隔たりを生んでいると思う。 
 足掻いている。この歳にして、私は、どうしようもなく本好きに憧れてしまっている。好きな小説家も、思い出の児童書も、人生を変えた心に残っているフレーズ1つすらもないのに、今さら何を取り返そうと言うのか。

 何度かそれを試みたことはある。自分の興味分野のど真ん中を行くような本や、好きな芸能人や作家が書いたエッセイ本であれば、なんとか知的欲求という隠れ蓑を借りて凌いでいけることに気づき、その勢いで様々な書籍に手を伸ばしては読んでみた。が、結局それは、ただのノルマ達成のための行動に過ぎず、純粋に本が好きであるということに結論付けることはできなかった。知識欲からくるマガイものではない、溢れ出る純粋な読書欲に溺れてみたい。

 好きじゃないなら別に無理して本を読むことも、強引に本の虫になろうとすることもないのだが、本当に私は何を取り返そうとしているのだろう。読書だけがすべての知識の根源ではないというのに。書を捨てよ町へ出ようって偉い人も言ってたジャン。

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 では手始めにまず、私が何故読書好きに憧れているかを3つの観点から考えてみよう。

・かっこいいから


 多分これに尽きると思う。読書家はカッコイイ。何がかっこいいのって、好きな小説のフレーズを会話の中でサラリと引用してきたり、何かしらのセリフを自分の人生の矜恃にしていたりするから。幼少期の私はというと、古本屋で買ってきたこち亀かかいけつゾロリくらいしか読んでいなかったので、変に偏った知識ばかり身についてしまい、こういうインテリチックな土壌が形成できなかった。インターネットミームから品のない引用しかできない。
 小学生や中学生の頃は気づかないものだが、この頃の読書習慣がのちのレースの展開を少しづつ狂わせていくことになる。レース終盤、人間性というものがそのまま名刺代わりになる時期、今まで溜め込んだ知識やトレーニングの成果は水面下で着々と人格を形成しており、それが表象化してくる。ふとした会話の端々に現れる知性の一欠片が不意に私を傷つけていく、お願い私の知らない言葉で喋らないで…。


・情報源が書籍であることに憧れている

 これも上記の「かっこいいから」に通ずる部分があるのだが、デジタルネイティブ世代であるゆえの反骨精神的なものかもしれない。
 スマートフォンなんてものを持つと、世の中のありとあらゆる情報源がインターネットに依存することになる。情報の精度はともかく、「まとめサイトで見た」とか「Twitterで話題になってた」とか、そんな話題提起がダサいと感じるようになった。
 それがどうだ、「POPEYEで特集組まれてたね」「ナショナルジオグラフィックで見たよ」とかにするだけでなんともインテリジェンス。情報の玉石混交、偏屈な愚者が跳梁跋扈するインターネットよりも、確かな情報源や引用元として信頼に足る書籍のほうが良いに決まっている。


・アイデンティティが確立されていそうだから

 読書好きである、好きな本のジャンルがある、好きな作家がいる、というのは自己が確立されていることに他ならないと思う。これは本に限らず、映画や音楽、食などにも言えるかもしれないが、とりわけ文字のみで構成される書籍については、外的要因に大きく左右されないので、その傾向が強いように感じる。読書由来の人格形成は非常に強固なものとなるのだ。

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 「で、この年齢からでも読書好きになれるんですか?」

 いやぁ、どうだろう。私個人の見解としては、それは無理だと思う。あくまで個人の感想だけど。
 本を読むことは別に何ら苦ではない。今でも1か月に1冊は本を読もうと、書店で1時間くらい吟味しに行くし、この歳になればある程度の予備知識も読解力も身に付いているから、いちいち辞書を引きながら千里の道も一歩から式読書なんてことにはならない。エッセイも小説も新書も、読んで内容を理解するだけであればなんてことはない。
 「本の内容を理解する」「作者の言わんとすることを理解する」、それらの向こう側に私の求めるものがあるのかもしれないし、もしかしたら何もないかもしれない。でも少なくとも私には、何かあるような気がしてならない。
 冒頭でも述べたように、読書に対してノルマだとか義務だとかそんな姿勢を取ってしまっている時点で、私が読書家に向いていないことは明らかだ。でもこれはもう仕方のないことなのだ。物心つく頃に読書という文化を享受しなかった時点で、私の本好きとしての道はついえていたのだろう。でももし、その道を順調に歩んでいたら、どんな眺望が待っていたのだろうか、今では知る由もない。
 読書はコレクションじゃない、ましてやファッションでもないでしょ?

 
 結局、自分でばら撒いた伏線を全力で自主回収する結果となったが、明日もとりあえず書店に行ってみようと思います。以上、稚拙な文章ではありますが、ご高覧ありがとうございました。


 

 
 

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