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眠い時なんも出来んくなるし、実際出来てなかったわって話。

うわ、今日もうダメだ、眠すぎる

みたいな日が週に1日以上は訪れる。つい先日もあったばかりだ。最近日に30分ほど勉強をするようにしているのだが本のページを開き、ノートに書き込み問題を解いていた時だった。眠い眠い、口を開けば眠いという言葉が出てくる。何だかいつもより問題を解くペースが異様に遅い。眠すぎる、目が開かない、目がしょぼしょぼする、あくびが止まらない、などなど実際に身体に表れるものもあった。しかし私の場合どちらかというと思考に大きく影響する。眠いということ以外考えられない。圧倒的な集中力の欠如。問題を解くための思考が一切合切働かない。
流石に諦めて17分ほどで断念した。進捗はいつもの2分の1ないし3分の1程度だった。

次の日はさほど睡魔もなく、取り組むことができたため先日の分を丸つけした。するとまあひどい結果だった。基礎的なところを物の見事に外すだけでなく問題文の読み違い、勘違い、視野の狭さを明確に感じ取った。眠い時なんも出来んくなる、は本当だったし、実際になんも出来ていなかったのだ。

睡眠時間は何をするにもかなり高確率で削られがちなものだと思っている。例えば仕事や課題、やらなければいけないことがある時に多少なり睡眠時間を使うことが多いのではないか。また、自分が見たいテレビや動画、つまりやりたいことを優先して睡眠時間を削る(まさに今の私である)こともあるのではないか。何かと睡眠を取らないと能率が下がって結局効率が悪い、健康にも悪いなどなどあるがどうもこうも削らざるを得ない人がいるのも事実だろう。

こういうことを考えると自由ってなんなのだろうか、と思うことがある。自分がやりたい時にやりたいことをする、好きなように過ごす、ここで言ったようなやりたい事をやって睡眠時間を削るも自由だと言える。一方で健康を考え、やりたいことはあるが寝なければいけないから寝る、これが自由でないかと言われるとそうとは言いきれない。寝るにしろ寝ないにしろ、いくつかある選択肢に間違いなく社会生活、一般的な意見、自分が持つ当たり前像、様々なものが影響しているだろうが選んでいるのは自分であるとも捉えられる。そうと考えれば全てが自由なのだろうか。自由という漢字、「由」を調べたところ、「よる。したがう。」という意味があるらしい。自らにしたがう、自ずとしたがう。どちらも自由と取れるとすると、私が挙げた上記どちらも自由らしい。自由らしい、まるで自由、この曖昧さも結局のところは自由なのだろう。

今これを書けているということはきっとそれほど眠くないのかもしれない、だけれども寝ることにするのは、私が自ずとしたがうからである。自由らしいからである。

「眠い時なんも出来んくなるし、実際出来てなかったわって話。」


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