見出し画像

消えたい!消えてやる!って悪いことなのかって思った話。

小学四年生の頃から、柔らかい希死念慮がずっとずっとあり続けている。きっかけがなにかあったかと言われると具体的には覚えていない。でも友人との距離感が分からなくなったことや、集団生活に妙に疑問を抱いてしまったことが大きいのではないかと今なら言えるかもしれない。高いところから下を眺めたり、勇気はないが窓を開けてみたり、そんなことをここまで長く長く長く続けてきてしまった。全く考えない時もあればそればっかりを考える時もあった。

趣味や好きなものにワイワイする一方で、おどろおどろしいものが自分にあること、それを目の当たりにすること、逃げたいことが自分の中には沢山あるだろう。そんな瞬間に、

「消えたい」「消えてしまいたい」

消失欲求は逃亡欲求の派生から来ているのではないかとも思う。そして、その逃げ出したいの要因になるものは環境、立場、人、諸々あるが全部自分が見ているからというのもあるかもしれない。全て自分が悪いのだ、と言いたい訳では無い。勿論そんなふうに割り切れていたら今こうして言葉を書くことも出来て居ないだろう。中学1年、高校2年、特に大きな波が来た瞬間だった。

「もういやだ!こんなのはいやだ!」が緩やかに静かに「いやだ、もうこんなのはいやだ、消えてしまいたい」に変わるときがあった。自分や他者の理不尽に怒り、そんなことを思う自分は消えてしまえばいいと唱えた。苦しむ誰かの代わりになって消えてしまいたいと思ったこともある。そんな自分を憐れみたいわけでもなければ、アピールしたい訳でもない。むしろ、「消えたい」って誰でも思うことで、しかしそう思うことが悪いことだという認識もどこかあるのではないか。

自分の消えたい、逃げたいを1番許さないのは自分かもしれないが、許されなかった文化がこの国にはあったのではないか。裏切り者が許されない、謀反という言葉があるように流れに逆らうことはあまり許されない傾向にあるとも考えられる。何かを辞める時は罪悪感があることや、辞めづらさを感じること、そもそも逃げるという言葉にあるマイナスイメージも根強いものになっているだろう。消えたいと言って、消えてしまうことは確かに自分にとって大切な友人や周りの人を思い浮かべた時、消えないでほしいと思うが、そう思う人が消えたいと言いながら消えていない本人を肯定できるならばそれが理想だとも思う。自死は逃げ、という言葉を何かで見かけてから「逃げてはいけないのか」と思う。生きるために逃げることが否定される。かと言って生きないという選択肢も否定される。それが世間一般というような広い流れに感じてしまうことはある種の「生きづらさ」ではないか。

肯定しろ、とは言えない。消えたいと思わずに頑張っている人も居るだろう。消えたいと思わない人も居るだろう。対峙するどちらかを強固にするために片側を否定することはないでほしいと思う。批評は否定では無い、真偽を問うことと否定することは違うと考えてやまない。だからこそ、逃げていいんだと思う人思いたい人が逃げない人を否定することもないでほしい。これは否定に対して強く恐れる私だから思うのかもしれないが。

どうか、どうか、誰もが報われる世界であれ。

「消えたい!消えてやる!って悪いことなのかって思った話。」


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?