泣きながらご飯を食べた話、の考察。
先日「めちゃくちゃに泣きながらご飯を食べた話」を投稿した。
それから数日後、友人が「泣きながら飯食う話、よかったよ」と連絡をくれた。
そしてなぜご飯を食べたら泣くのか?を考察した。
私は『絶望するくらい悲しいのに食べることによって生きている、と実感する。その落差に感情がついていかなくて泣くのではないか』と見立てた。
友人は「現実を受け止められないくらい悲しいのに、食べるという欲求を満たすことで”安心感”が生まれるから気が緩んで泣くのではないか」と見立てた。
同じような結論に見えなくもないけど、私と友人の考え方の決定的な差は涙の原因に希望が見い出ているか、そのまま絶望しているかの違いだと私は思っている。
今回のポイントは
①絶望するくらい悲しい(事実) ⇦同じ
②だけど食べる (行為) ⇦同じ
③生きていると実感 (感情) ⇦同じ
ここからが違う。
④「これからも生きていかなければ」というこれからの試練を予感 (私の体感) 『これからも生きていける』という希望を予感 (友人の体感)
私はその先に悲観というマイナス感情を抱き、友人は安堵というプラスの感情を抱いたと解釈した。
過程の大体は同じなのに事実の受け止め方が異なるのは、元々の性格なのか、性差なのか、人生の中で起こったことから分析されての考え方になったのかはわからない。
だけど、このように同じような体験をしても、どんなに仲の良い友達でも全く違う捉え方をするものなのだと思うと興味深くなった。
あと、noteは投稿して終わりではないことに少し嬉しくなったりした。
(Photo by x4a4n、Thanks!)
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