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【SF連載小説】 GHOST DANCE 12章

   

   12 あかね


 明くる日の昼すぎ、ノックとともに入ってきたのは貴宏であった。顔色は相変わらず冴えない。それでも、灰色のカードを冬吉に手渡すと、事務的な口調で言うことに、
「もうじき、美也子君が来ます。さっそくのデートの件、よろしくお願いします。外の案内は彼女に……」
 冬吉は手で制して、
「その前に話がある。単刀直入に訊く。おぬしと美也子さん、恋人同士じゃなかったのか」
 答えもせず顔をそむけたのに、
「もし、なんらかの圧力によって仲を裂かれ、言ってみれば研究のためとか……」
「そんなんじゃありませんよ」
「ならいい。ただ俺としても、正々堂々の恋の鞘当てが望むところだ」
「誤解ですよ。僕には別に好きな……」
「別に好きな女がいるてえのか。なのに、てめえ……」
「怒らないで下さいよ」
 確かに、幾分カッと頭に血が上りかけたは惚れた弱みだろう。
「いや、おぬしが昨日からやけに落ち込んでいるのが気になったまでのこと」
「別に、なんでもありませんよ。あっ、それよりも、例の《愛の臓器》うんぬんのコト、くれぐれも彼女には話さないで欲しいんです。彼女には、まだ知らせていないし……それに、パパ、いえ、先生がついペラペラ話した内容なんかも……」
「心得た」
 貴宏は煮え切らぬまま、冬吉の視線を避けるようすぐに引き上げていった。

 次にノックが聞こえたのはそれから一時間ほど後のことで、待っても扉は開かず、冬吉がつい立ってにノブを引けば、そこに美也子が立った。病室ではなく、独立した部屋と見立てているそぶりであった。一週間ぶりである。
「おい、吃驚させるな。やけにめかしやがって」
 確かに、前開きのからし色のワンピースに太いベルトをあしらったこしらえこそ似合っていたが、はて、その持味とは正反対の、いろけを貼りつけたに似た不自然な厚化粧はいかなるわざだろう。看護師を外され、娼婦役を仰せつかったコトへの開き直りなのか。冗談を言おうにも、美也子は重責を担ったけはいの固い表情で控えている。重責とは何か。ふざけるな。プロジェクトのモクロミどおりのデートなぞ、まっぴらごめんであった。
 とりあえず、冬吉はカードをポケットに廊下に出た。そのとたん、二人の目の前にささやきが立ちはだかって、
「美也子ちゃん、おしゃれしてどこ行くの」
 ささやきは答に窮する美也子をからかうこなしに首を傾げ、ついで冬吉の顔を鼻に皺を寄せて見上げると、
「デートね」
 しばし膨れっ面で二人を通せんぼしていたのが、不意に踵を返し、スキップを踏んで遠ざかった。

 並んで廊下を進みつつ、美也子が初めて口を開くには、
「今の子、ささやきっていうのよ」
「ほう、変わった名だ」
 ここは、ささやきとの約束があった。
「ねえ、吃驚するようなこと、教えてあげましょうか」
 緊張をほぐそうと努める、芝居じみた抑揚があった。
 冬吉も砕けて、
「はっは、この時代、めったなことには驚いちゃやらねえ」
「実は、あの子ロボットなの」
「わっ、おどかすな」
「やっぱり、驚いたでしょ」
 話によれば、ささやきは初めからロボットであったわけではないという。十歳の時、なにがしかの事故でいのちを落とした直後、最先端の人工頭脳にささやきの記憶をインプットし、肉体も複製の、いわば『スナッフゲーム』用ロボットの特注精巧品として生まれ変わったものと知れた。どうやら、ささやきのたった一人の肉親である老いた医学博士に対し、これを師と仰ぐ若いやつらの実験を兼ねたやさしい策謀のようであった。いずれにしてもこの医学博士、かかるダミーを血を分けた孫娘と信じ、かれこれ八年がたつという。
「しかし、よくバレないものだ。見た目は人間そっくりでも、てっきり鉄腕アトム、まさか成長まではしないわけだろう。実際は、十八の娘盛りのはずが」
「そこなのよ。いつかは打ち明けようとしてるうち例の先生すっかり耄碌しちゃって、全然そのことを変だと思わないの」
「いや、案外お見通しなのかも知れない」
「そう言えば、頑ななくらいアルツハイマーの予防療法を拒絶したっていうし。それでなくてもささやちゃん、あと二年しか生きられないの」
「どういうことだ」
「実は、インプットされた記憶はあの子の生きた十年分。つまり、その十年を繰り返して、すべてが終るようにプログラムされてるの。いくらこの時代のコンピューターでも、新しい経験を知恵にして生きるのは無理。だから、あの子もぼんやりと自分の死期を知ってるの。もちろん過去にどうやって死んだかってことと重なると混乱するから、そのへんの記憶は消してあるそうだけど」
「それにしても、人間的な反応をする子だ……」
 ささやきとの密会が頭にあっての科白に冬吉は次の言葉を飲んだが、美也子は構わず受けて、
「そうなのよ。おそらく、無意識の部分が意識に混じって作動してるんじゃないかって。実はあの子、小菅先生にラブラブなの。よほど無意識はませてたのね。《記憶ライブラリー》とは違うわよ」
「記憶ライブラリー?」
「あっ、まだ聞いてないの。そうね……あなたにはなんて説明したらいいかしら。言ってみれば、会話能力のある納骨堂……」
 と、語り出すところによると、このシステム、病院階層のエリートのみの特権ながら、死んだ家族の記憶をコンピュータに保存し、死後も会話を可能にした装置とのこと。ただし、インプットされるは生前の意識上の記憶のみの、いわば膨大な日記をコンピュータに丸暗記させたもののようであった。故に、いかにすぐれた芸術家、科学者といえども、《記憶ライブラリー》には新しい創造の能力はないらしい。
「それでも、例えば仕舞い魔だったおばあちゃんと対話して捜し物を見つけたり、あのおじいちゃんのいつもの冗談なんかは生前そのままの声で聞けるわけ。声だけの参加なら一家団欒はいつでもできるし、そのうち、ささやきちゃんみたいに姿かたちも備わった方向に進むかも知れないわね……」

 いつしか二人は広いホールの、病院推奨らしい王朝物語風のバーチャルリアリティーの劇場の前に立った。液晶看板には、愛欲あからさまな男女が燃え盛っている。あらかじめ決められたデートコースなのか、入ろうという美也子を制し、
「それより、『蟻の巣』に出ないか」
 美也子は一瞬ビクリと緊張を走らせたが、意を決したようにうなずいた。思えばあの界隈、つと小路に折れればいかがわしい宿なぞいくらでも軒を連ねていそうである。誘われても逆らうな、とでも命を受けているのだろう。どっこい、冬吉は改めて確認の、その手に乗るつもりはなかった。

         ※

 季節はむしろ『蟻の巣』にあった。人ごみを縫いながらも、昼下がりの大気には夏の終わりの倦怠が煙っている。冬吉は機をはかり、とりあえず口を切って、
「この間は、悪かった」
「わたしこそ。ナースのくせに、手を上げたりして。でも、あんなキス、初めてよ……」
 美也子の真っ赤に光った唇が裂け、生理的こなしに舌先が覗いた。先程までの緊張のいろはすでにない。病院を出ると同時に、こころの白衣も脱ぎ捨てたというけはいであった。
 冬吉もつい、
「カ・ン・ジ・タ……かい?」
「知ってるくせに……」
 甘えかかるよう冬吉の左腕を抱き締めたのが、ぎゅうとあからさまに乳房を押しつけてくる。たじろいだ。誓った矢先、反対にホテルに連れ込まれそうであった。はたしてプロジェクトの命による芝居か、それとも異性に対する美也子の習いなのか。冬吉は釈然としない気分を、どこからともなく流れてくる哀愁のメロディーに紛らして、
「『ゴーストダンス』だな。どうも、引っ掛かるものがある」
「あなたの時代のリバイバルだからよ。近くに中古のCDショップがあるの。見つかるかもしれないわよ」
 言われるまま、二人は高速道路真下の小さなショップに入り、そこのオヤジにオリジナル盤を探してもらった。その間、冬吉は演奏者の名を尋ねてみたが、これには響くものがない。ついで、作曲者を訊くと、
「ええと、確か……なんとかハルキチ」
「ハル……春吉と書いて、シュンキチじゃ」
「あっ、そう。そうでした」
 はて。何故、俺が知っているのか。冬吉の闇の記憶がうずく。それに、「春」と「冬」。この符合はなんだろう。しかし、闇は相変わらず閉ざされたままであった。
 結局、目指すやつは見つかりそうにない。別のコーナーでLPレコードをめくっている美也子の方に目を向けると、不意にショップに入ってきたラメ入りロングドレスの、大柄な女がその肩を叩いて、
「まあ美也子ちゃん、久し振り」
 美也子もハッと顔を上げると、笑顔をほころばせ、
「わぁー、あかねさん……」
 言うと同時に狼狽したのが、ピアスの一つを外して足下に落とすと素早く踏み潰す。あかねと呼ばれた女は冬吉には背を向けたまま、美也子の小さな肩を両手で挟むと声を落とし、
「どういうことなの、美也子ちゃん。今の隠しマイクね。それになあに、そのホステスさんみたいなお化粧……」
「違うのよ。違うのよ……」
 眉根に皺を寄せ首を振る美也子の真剣な弁明ながら、女は耳も貸さぬ気迫の、いっそ娘を諭す母親のふぜいで、
「確か、最後に会ったのはお正月。新しいプロジェクトの仕事があるって言ってたわね。いったい、何があったの。あたくしの目は誤魔化せない。誰と付き合ってるの。きっと、碌でもない人。美也子ちゃんにそんな不潔なお化粧をさせ、おまけにスパイみたいなことまで。どうして、あたくしの言うことが信じられないの……」
 しだいに哀願の口調になったところ、冬吉がつと近ずくと、けはいを悟ったか女がクルリとこちらを振り向けば……や、おかま。厚化粧は美也子以上の、年齢不詳のこしらえながら推察すれば四十代半ばか、鼻つきゴツく胡坐をかくにして顎の線すっきりと、やはり美形と言うべきだろう。
「あら、美也子ちゃんのお連れ」
 丈夫そうな黄色い歯をむいて、艶然と笑ったのに、
「今村冬吉といいます」
「あたくし、あかねと申します。お見知りおきを……」
 穏やかなあしらいを装いつつも、目は恨めしげに冬吉を見据えている。
 美也子が割って入り、
「あかねさん、誤解しないで。この方、病院の人じゃないのよ」
 冬吉は別に気後れすることもなく、
「実はわたくし、百年の冬眠からつい先だって目覚めたばかりの野蛮人でして」
「まあ、百年前。でしたら、美也子ちゃんの……」
 あかねが、付け睫も落ちんばかり目を見開いて美也子の方に顔を振れば、
「どうしよう。ねえ、あかねさん。お願いよ。昔の癖、出さないで。このこと極秘なのよ」
 うろたえる美也子をよそに、あかねは険しい視線を冬吉にぶつけると、
「でしたら昔のこと、何もかも承知の上で美也子ちゃんと……」
「いや、目下のところ、いっさい記憶喪失の身でしてね。ついては、美也子さんも記憶を失っているとか。あいにく、看護師と患者の間柄。いまだ特別な間柄とは言い兼ねますが、同じ身の上、妙に気が合います」
 あかねは、何やら得心したけはいにたおやかさを取り戻すと、打って変わった親しみの眼差で受け、
「もしよろしければ、あたくしのお店に。いろいろお話も伺いたいこと」

 二人はさっそく、近くに止めてあるあかねの車に乗り込んだ。車はおっとりと滑る。美也子の態度も寛いだ。あかねに対する信頼だろう。「極秘」という言葉を何度も繰り返しつつも、《プロジェクト・プシケ》のこと、冬吉のこと、謎の臓器のこと……いっそペラペラと、話すふぜいは身内に対する当たりであった。さすがデートの目的にまでは言及しなかったが、ことさらの厚化粧については、よりいろっぽくと稲垣博士に強要されたこと、又、ピアスの隠しマイクも冬吉との会話分析のために付けさせられたことをあっさり白状した。
 あかねもじっと聞き入っていたが、美也子の話の区切りを縫って自らの正体を冬吉に披瀝するには、本名を岩田文彦といい、学生時代は前院長の小杉博士の教えを受け医学を志したものの挫折、病院専属のジャーナリストに転身したのが今では転落の、陋巷に埋もれた隠花植物として生きているとのことであった。

 さるほどに、車が止まったのは繁華街裏手の寂れた街角で、とある古ビルの地下に降りたところに、あかね経営のバー『遊民窟』があった。開店には早い時刻の、点けた照明もやけに明るく、黒と赤で統一された手狭な店内も素顔をさらし、いっそ楽屋裏に案内された心地であった。
 二人が席につくと、あかねは冬吉に運ばせた買物の包みを目の前で解いた。玩具のメリー・ゴー・ラウンド、そして産着や襁褓の類が出た。顔を見合わす二人をよそに、あかねはウイスキーの仕度にかかりながら何食わぬ顔で言うことに、
「実は、あたくし妊娠しておりますの。けど、決して病院にはゆかない。だって、想像妊娠なんて言われたら、いや。そうよ。あまねく病院的発想には、ロマンがないもの」
 美也子も止まり木ですっかり落ち着き、少々からかう口調で、
「まあ、あかねさん。いったいどなたの子かしら」
「もしかしたら、冬吉さんの子かも」
「わっ、ひでえや」
「あら、失礼な方。ま、冗談はさて置き、『愛のパルチザン』の子」
「なんだ。それは……」
 あかねが掻い摘んで説明するところによれば、『愛のパルチザン』とは、前世紀中葉に結成された病院体制打倒を叫ぶ革命組織と知れた。ただし、いにしえの共産主義とはけはいが違う。「愛」を旗印に、国家の構造を個人のこころに置き換えての人民解放。二十世紀末より世界を席巻した欲望主義の、「賢者の石」と「金丹」との二つの中心をもつ権力の楕円構造をぶち壊せ。「賢者の石」とは錬金術の要、「金丹」とは煉丹術への衝動だろう。この体制において抑圧される人民とは、すなわち人のこころの「愛」に違いない。無論、単なる思想革命ではない。臓器移植で生きのびる病院のエリート階層と、臓器を売ることによってしか生活できぬ貧民階層との歴然たる格差が広がり固定化するにつれ、『蟻の巣』の学生、学者、芸術家をはじめ病院労働者の間にも『愛のパルチザン』のシンパは一気に広がって時には過激なテロ行為にも及んだらしい。病院体制打倒を目指した選り抜きの革命グループは山にこもってコミューンを営み、多くの子をもうけ、「愛の戦士」と名づけたという。この時代に多くのこども! さまざまな憶測渦を巻くなか、かかる風聞は病院内部にも大きな動揺をもたらし、《プロジェクト・エロス》発足の動機の一つにもなり、そもそも革命家としての仮想人生を被験者にインプットしたのが研究の手始めとのことであった。
 『愛のパルチザン』は、やがて『蟻の巣』人民の圧倒的支持を受け世の中騒然として、革命への気運熟したかと見えたやさき、まさに十年前のことである。かの小杉博士失踪を契機に、運動はとたんにうたて退潮に向かったという。もちろん、病院当局の武力弾圧も一因ながら、失踪した院長の残した二つの風説の相乗作用こそ、革命から人民が去る主たる原因になったようであった。第一は、小杉院長こそ『愛のパルチザン』の黒幕であるという噂。そしてもう一つは、「不老不死」への願望を託した「金丹」に対する渇望である。
「こんなゴシップが生まれたのも、元をただせば、あたくしの責任かも……」
 あかねは、新しい水割りを冬吉に勧めながらさらに続けた。
 まだ、『愛のパルチザン』が人民の支持を得ている頃のことである。無論、『第二螺旋病院』では小杉博士をはじめ稲垣博士も加わり、《滅亡の遺伝子》、そして「不老不死」への可能性についての研究に取り組んでいる最中であった。当時、病院専属の記者であったあかねは医大時代のコネを頼りに研究室に出入りをし、情報を収集していたという。同時に、小杉博士は病院内では珍しく『愛のパルチザン』に好意的で、元来シンパのあかねと二人で酒を酌み交わす機会も多く、特ダネを聞き出す格好の舞台でもあった。その席で小杉院長が革命軍の掲げる「愛」に興味を持っていることを知り、あかねはシンパの身としてつい記事にまとめ、いっ時はボツになったものの院長失踪後に発表に及べば、これが第一のとんだ風聞を生むもとになったらしい。
 いずれにしても、その頃の小杉博士は《滅亡の遺伝子》という難問を前に少なからずノイローゼながら、特ダネ集めに汲々とするあかねのために一つの情報を与えてくれたという。すなわち、埋もれた資料室から偶然に見つかったらしい百年前の桑原博士のノートの断片である。ただ、興味の焦点は《愛の臓器》ではなく、むしろ不治の病のため凍結された当時のVIPどもについてであった。「百年の冬眠覚め 子孫と対面」。ブンヤあかねの、特ダネの手応えであった。さっそく、あかねはピラミッドの木乃伊を求める意気込みで百年前の凍結室を探す。しかし、かっての病院は都市に埋もれた遺蹟にも似て、古地図、古老の記憶、さまざまな言い伝えを掻き分けるしか術はない。
「でも、その過程で、《自動冬眠装置》にいるわたしが見つかったんでしょ」
 唐突に口を挟んだ美也子に、
「《自動冬眠装置》といえば、《ブルー・サングラス》の特権と聞いたが……」
「わたしは、生体実験。そうでしょ、あかねさん……」
「え、ええ……そういうことね……」
 どうやら美也子は『蟻の巣』から実験のため誘拐され、その後遺症で記憶喪失に陥り、みなしご同然に放り出されたところをあかねに保護されたというが、筋道はもつれ何やら隠されたからくりが潜んでいるけはいであった。
 ともあれ、直後美也子は小杉院長の養女に迎えられる運びながら、幼く死んだ娘の面影にノイローゼの救いを見たというはなはだ身勝手な縁組で、せっかくの養女を置き去りに院長が失踪したのはその数か月ほど後のことという。
 これより先、あかねは目当ての凍結室を発見して記事にまとめたものの、発表は差し止め、新院長の座をめぐる争いのとんだ工作に利用されたとのことである。すなわち、『臓器移植科』の老いぼれ医長が対立する気鋭の稲垣博士に圧勝したについては、あかねの勤める新聞社が一枚かんでの、かの百年前の凍結人間を切札に使ったせいであった。そう。百年前のVIPである凍結人間の子孫のいくたりかは血脈あらたかに、この時代でも《ブルー・サングラス》として権勢をほしいままにするとはいえ、例にならって彼らに世継ぎはない。ここに於て、同じ血の、蘇る先祖を養子として迎える。昔の死病も、今ではおたふく風邪にすぎない。《ブルー・サングラス》の後ろ盾があれば、勝負はついたも同然であった。これを知ったあかねは新聞社に辞表を叩きつけアングラ新聞にてかかる事実を公表しようと企てたが、事前にガサが入り、結果病院追放の憂き目であった。
 これを機に美也子はあかねの手を離れ、恩師の養女というよしみで稲垣博士が後見を申し出たらしい。同時に、美也子に預けていたという百年前の桑原博士のノートの断片も稲垣博士の掌中におさまり、のちの《プロジェクト・プシケ》のヒントになったもようであった。
 聞き入る冬吉とは別に、美也子は考えをよそに流していたらしくぽつりと、
「でも、わたし、養女は失格だったわね」
 あかねも話を戻し、
「いっそ、あたくしの養女にしてしまえばと。今となっては後の祭り」
「ううん。あかねさんがいなかったら、わたし、きっと気が変になってたわよ。どこの誰なのかも、自分が判らない。自分だけじゃない。まわりのことも。まるで、別世界から来たみたいで。気がついたら、自分を父と呼べという見ず知らずのおじいちゃんがそこにいる。弾けないヴァイオリンを弾けと言われたり、ぜんぜん知らない人のことを話せと言われたり……。それにしても、わたしはいったい……」
 グラスを干し頭を抱える美也子に、あかねはことさら笑顔を作ると、
「ねえ、美也子ちゃん、もしかしたらあなた、冬吉さんと同じく百年前の人かも。二人並んでの愛の冬眠なんて、ステキじゃないこと」
 美也子はビクッと目を見開いてあかねを仰ぎ見たが、すぐに唇を歪めて笑い、
「もう、おどかさないでよ。わたしをからかおうったってダメよ。冬吉さんには、百年前、誰か好きな人がいたのよ。だからこそ、《愛の臓器》が……あっ、秘密よ、秘密……」
 出し抜け、美也子に酔いが回ったけはいであった。あかねに水割りのおかわりをせがみ、《愛の臓器》について教えを垂れつつも、自分にも同じ臓器が発現しているとはやはりつゆ知らぬようであった。
「それよりも、冬吉さん……『恋煩い』って、どういう症状なの。先生に訊いても、よく判んないのよ。麻薬やってる気分? 麻薬が切れた気分? それとも……」
「それとも?」
 美也子は目をとろんと流すと、ぬっくり光った唇を冬吉の耳に近ずけ、
「セックス、してるみたいな気分?」
 悪い酒のようであった。冬吉に軽くもたれるふぜいの、膝頭ゆるんでしどけなく、肉の悦びを知った驕りが腰つきににおい出た。あかねが咎めて、
「もう、飲むのおよしなさい」
 奪われかけたグラスを美也子は両手で守り、
「何よお。わたし、こどもじゃないのよ。ほら、怖い顔して。そんな美也子ちゃんキライって言いたいんでしょ。ねえ、冬吉さん、あかねさんときたらねえ、昔からわたしにお説教するのよ。いつか、美也子ちゃんを迎えにくる王子様が現れるから……それまでは、ねえ……貞操を守りなさいですって。わたし、二十八よ。ハハハハハ……」
 甲高く笑ってグラスをあおった美也子の頬に、突然あかねの掌が飛んだ。グラスが床に砕けると同時、あかねは人差し指でサッと冬吉を指すと、
「しゃんとして、美也子ちゃん。この方が王子様よ!」
 冗談であしらえぬ、凄みのある口吻であった。美也子はしばしきょとんと惚けたあと、そばに冬吉がいることに不意に気づいたけしきではっと膝を固め、とたんに、
「う―っ!」
 口を掌で覆うと、小走りにトイレに駆け込んだ。悪酔いか。トイレを出た美也子は顔面蒼白の、表情を消したデスマスクのようであった。
 あかねはこれを抱えると、
「少し、横になりなさい」
 そのままカウンター横の扉に消えたかと思うと、すぐにしゃくりあげるような美也子の泣き声がこぼれた。
 冬吉がつと立って扉から覗くと、そこは小さな倉庫らしく、簡素なベッドが一つ、気分の悪くなった客のための備えのようであった。その上で美也子はあかねを母親と見立てたこどものふぜいにしがみつき、泣きじゃくっている。俺のせいか。なぜか、冬吉は重苦しい自責の念にかられながらカウンターに戻った。

 しばしの後、泣き止んだ美也子を残してあかねが現れるなり目顔で、ちょっと外へ……。二人揃って扉を抜けると、不意に冬吉に抱きついてくるのに、
「待て。俺はその手の趣味は……」
「そんなんじゃない。さっき言ったの、本当のこと。美也子ちゃんの王子様。ねえ、正直におっしゃって。昔の記憶は……」
「ない。ただ、医者の話によると、おいおい戻るそうだ」
「それより、美也子ちゃんを守ってあげるのよ。病院のやつらなんて、何を企むか知れたもんじゃない。よおくお聞き、実は美也子ちゃんはね……」
 言いかけたところ、扉が開いてそこに美也子が立った。
「美也子ちゃん、もう少し休んだほうが……」
「もう、大丈夫よ。そろそろ、戻らなくちゃいけないの」
 車で送るというあかねを断り、二人はタクシーを拾った。
「どこにも案内できなくて、ごめんなさい」
 そう言いながらも、美也子はひどく悩ましげに何やら錠剤を飲み込むと、またぞろ自脈をとっていた。そして、車が病院に近ずく頃ぽつんと漏らすことに、
「わたしの想像なんだけど、『恋煩い』って、もしかして、重い風邪で苦しいのに、おまけにお腹をこわして、なのに揺れるバスに乗せられて山道をぐるぐる走って、車に酔って、気持ち悪くて戻したいのに、まだまだ目的地はどこまでも遠いっていう……そんな症状じゃないの……」

 ⇦前へ 続く⇒


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