見出し画像

【SF連載小説】 GHOST DANCE 16章

   

    16 素性


 仲秋の夜道を車は走る。おんぼろのくせに、エンジンは快調であった。
 空いている車庫をしばらく貸してくれと、近所の高校生に頭を下げられたのは一ヵ月ほど前のこと。彼はカー・キチ。と言っても、マイカーを置かせてくれという不料簡ではない。ガラクタ同然の廃車を蘇らせたい。そのための工場代わりということであった。妻は反対したが、俺は高校生のひたむきさに折れた。さっそく、ひどく汚いやつが運び込まれた。高校生は毎日やってきては、真剣に修理に取り組む。廃車は日に異(け)にいのちを持つ。エンジンがかかった時、彼は涙ぐんでさえいた。自力で車の復活をみればそれでいい。あとは処分する。その約束のはずが、高校生は長く渋った。蘇った車がいとおしいのだろう……
 ならば、この車の花道、俺が利用してやろう。高校生には内緒だが、やつも許してくれるはず。なにせ一人の男が、この車に乗って生まれ変わろうとしているのだから。車のプレートは匿名である。そう。これから生きる「今村冬吉」という名が、未だ登録されていないように。名無し同士。ハンドルはぴったり掌に吸いついた。少しは俺をしたたかな男と見てくれるだろう。大切な美也子は、つい隣にいる。もう過去を振り返るつもりはない。横目で美也子を窺えば、白い看護師姿の、前のボタンは千切れ両手を胸元に交差させて震えるふぜいむごたらしく、てっきりレイプされた直後と知れた。
 不意に、前方に笑い声を聞いた。見れば、闇の中に逆立ちした胎児が浮いて、ケタケタ笑っている。ザマぁ見ろと、美也子を指差している。とたんに、啜り泣く美也子の白衣が血に染まり始めた。見ないで。そう叫んで美也子がしがみついてくる。ハンドルをとられ車が大きく揺れ、急ブレーキの音に胎児の笑い声が重なって……

 ガクンと両足を引っ張られたような衝撃に、冬吉は目が覚めた。からだは痺れていて動かない。白い壁。いつもの病室の、ベッドの上であった。人の影が見下ろしている。じきに焦点が合って、涼一郎と知れた。
「気がついたかね。大丈夫、いのちに別状はない」
「彼女は……」
「美也子君も無事だ」
「いったい、何があった……」
「残念なことが起きた。君と美也子君の《愛の臓器》が、剔出されてしまった。まさか、《愛の臓器》のことが外部に漏れていたとは。もっと、注意すべきだったよ。とにかく、君達が拉致されたことを知らせる匿名の電話があってね。『蟻の巣』のもぐり病院を手配……間一髪で間に合った。まあ今は何も考えず、ゆっくり休んでくれ給え。そう……盲腸の手術をしたくらいに思って……」
 涼一郎は言い終わると、長い溜息を一つついて病室を出た。

 臓器を剔出された――。人事のように、冬吉がその言葉を復唱したとたん、
 アナタヲ忘レルタメニ、ワタシノ胸カラ、タマシイヲ掴ミ出シテ下サイ。ソウ言ッテ、アノ娘ハ、俺ノ手ヲ取ッテ自分ノ胸ニ押シツケタ。マダ、固イ蕾。ナンデ、アノ娘ニ、アンナ真似ヲサセタ。キタネエゾ、黒沼春吉。テメエナンゾ、外道ダ……
 忽然と、闇の中に光が切り込んで、

 本名、黒沼春吉。年齢、三十四歳。肩書き、音楽プロデューサー……
 春吉は私生児であった。幼い頃より生活の場はもっぱら母の父、すなわち祖父のアトリエを兼ねた粗末な家であった。祖父は長年中学の美術の教師についていたが、画家としては埋もれたまま、動物、とくに猫を愛し人物はほとんど描かなかった。ただし一点だけ、十三、四歳の少女の肖像画があって、ひどく大切そうに飾られてあった。まさに春吉の初恋、呼ぶところの「婚約者」である。そのくせ、祖父に尋ねても少女がどこの誰とも口にしない。母に訊いても、首をひねるばかり。その母はといえば売れない女優をなりわいとしていて、祖父の家に時々身を寄せ春吉にお菓子や玩具を与えてはすぐいなくなる、落ち着かぬタチであった。
 それでも母は春吉が小学四年の時同業の大部屋男優と結婚し、春吉は引き取られた。そして黒沼姓になったその日より、春吉は両親にとっての猿になった。
 芸能界へのデビュー。もともと引っ込み思案の春吉にとって、これは地獄に違いない。キザな髪型や服装の強制から、プロデューサーへのへつらい方まで。春吉は再三家出をし、祖父のアトリエに逃げ込んだ。しかし、そのつど連れ戻される。
 そして中学を目前にした最後の家出の日、アトリエで祖父はすでに冷たくなっていた。死期を悟っていたのか、少しでも金になる絵は春吉に残し、その他の駄作はきれいさっぱり処分されていた。春吉は母に頼み件の少女の絵が欲しいと申し出たものの、アトリエからその絵は消えていた。あの世への伴侶として、祖父が燃やしたようであった。
 春吉にとって祖父の葬儀は、かの「婚約者」の野辺の送りでもあった。その日を境に春吉は仮面をかぶった。仮面で武装した春吉は、わがままに育った。さすがジャリタレへの道は途絶したが、祖父の影響のジャズへの関心は中学の終わり頃から顕著になって、高校時代からサックスに手を染めた。絵への才能をとうに見限っていた春吉にとって、ジャズミュージシャンはもう一つの夢の仕事であった。これも芸能のうちと考えたか両親もむしろ後押しの、時にはプロの手ほどきも受けた。大学に入ってからはバンドを結成、同時に作曲にも手を出し父のコネで売り込めば、大とはいわぬまでも採算の成り立つヒット曲がいくつか生まれた。
 結婚は三十の時、相手はジャズ研の後輩で大手芸能プロダクション社長の末娘であった。これは外人好きのバクレンながらともに浮気公認の都合のよいもので、コネクションあらたかに、半端な芸の春吉も気づけばいっぱしの音楽プロデューサーときこえた。
 しかし派手な見せかけの裏には、仮面をつけた恥知らずにしかできぬ任務がおのずとついてまわる。すなわち、走狗。ロックでもラップでも、少しでも骨のある、特に社会派の誕生を阻止する堕胎医、あるいは体制御用達のプロパに塗り替えるペンキ屋がその本業であった。無論、よく吠えれば御褒美として牛肉ならぬ、十五の青い女肉がからだを開きもした。
 かくして、春吉三十二歳の秋の終りである。M市での、アマチュアバンドのコンテストにおける審査員の仕事が回ってきた。大賞は事前に決まっていた。女性だけのロックバンドで、リードヴォーカルが某タレントの娘というコネである。しかし、仮面の狗は眉を顰める。演奏は見事三流。衝撃があったのは、唯一歌詞であった。当時問題になっていた看護師のテーマを現場の人間にしか判らぬ感性を入れ、一つの物語にしたてあげていた。仮面の狗は、この三流のバンドをいかにきらびやかに塗り上げるかにつき腐心する。曲は残しても、無論、この歌詞は使えない。看護師の現状を、日本のシクミと結びつけていたからであった。
 コンテスト終了のあと、春吉はバンドの面々と会った。作詞者として紹介されたのはメンバーではなく、その一人の友人という十七歳の女高生。その顔を見たとたん、春吉は思わず己れの頬を押さえた。仮面が剥がれ落ちる気がしたからである。忘れていた、いや忘れようと努めていた、かのアトリエの「婚約者」に違いなかった。

 春吉が美也子と二人きりで会ったのは、それからひと月ほどのちのことである。女子高の門前で呼び止められた美也子は、春吉に対し距離を置き、ひどく用心深く、いっそ憎しみのまなこを光らせた。少なくとも派手なイタリア車や、名刺の華やかさに酔うタイプではないと一目で知れた。祖父のアトリエでの因縁を聞かせても、美也子はこれをキザな男の作り話と斥ける。美也子は父を小学生の時に失い、看護師の母親との二人暮らしだという。看護師のつらさを十二分知った上で、敬愛する母と同じ道に進みたいときっぱり言ってのけた。軟派の芸能人とは、水と油の世界。にも拘らず、浮いた油は玉を作って水底に潜る。そう。春吉はいっそ一途な少年に戻ったよう、ひたむきになった。
 逃げる美也子ながら、場数を踏んだ春吉の前、かたくなな娘心もしだいに揺るぎ始める。初めての口づけに雪は解け、セーラー服脱いだ身に花はにおい、夏の日差しが照りつける頃には、美也子はすっかりと垢抜け、俄然光り輝いた。
 母親がこれに気づかぬはずはない。談判きびしく、春吉は頭を垂れる不良大学生のていであった。そうはいっても美也子の母の邪推はともかく、二人にからだの関係はなかった。恋する少女と話しているだけで、少年のこころは楽しい。二度と会ってくれるなと言われても、本心それにうなずくつもりはない。共犯者も同じ心理で、密会は続く。しかし、破局のカゲは忍び寄る。
 そう。初めて見せる妻の嫉妬。妻は卑劣にも二人のデートを探偵する。ホテルに入ればよし。浮気公認の妻にとって、このプラトニックこそ燃え盛る嫉妬の火種であった。そして、機先を制するいきごみで断言するは、断固たる離婚の拒絶に他ならない。

 さるほどに、その年、二十世紀最後のミレニアムのクリスマスイヴである。予約のフランス料理おこたりなく、美也子は言外に今宵春吉にバージンを捧げるけはいであった。運良く、母親は夜勤だという。美也子も背伸びいじらしく精一杯のよそおいで女を演じ、プレゼントしたイヤリングもその童顔をあでやかに彩った。しかし、春吉は美也子の覚悟とは裏腹に、その夜シティーホテルのベッドに歓を貪ることはなかった。美也子の呪文のせいであった。その日に限り、美也子は春吉のことを「冬吉さん」と呼んだのだ。それは祖父と暮らしていた素顔の春吉の、本名に他ならない。呪文は仮面をかぶった狗の卑しい心根を打ち破る。今夜こそ美也子を穢す。それまでの浮気相手と同じことを妻に示せば……その後はなんとか。卑劣であった。呪文あらたかに、仮面はすでに修復不能なほどの罅が入っていた。
 不満顔の美也子を自宅まで送る道すがら、春吉はつい離婚を渋る妻のことを口にした。仮面の割れた狗は、すなわち負け犬であった。冬吉とは、つまりはなんの肩書きも、能力すらない三十男の言い換えにすぎないのだ。美也子はそれを別れ話と思ったのか、自宅近くの公園で春吉の手を取り、自らの胸に押しつけて苦しみを訴えた。なのに春吉にはできても、冬吉に答える術はない。君にもう一つプレゼントがある。春吉はそれだけ言った。 
 持たせた含みは何か。そう。美也子への思いを込めた曲。しかし、当のプレゼントは、実際のところメドすらたっていない。それでも、この曲の完成こそ「冬吉」誕生のテーマミュージックでもあり、仮面の剥がれ落ちたあとの素顔にいのちを吹き込む法になるはずであった。曲は何度も書き直され、完成したのは翌年の十月八日。まさに、運命の日。そしてその曲こそ、この百年後の『蟻の巣』に流れる『ゴーストダンス』に違いなかった。

 ベッドに磔にされたまま、冬吉は叫んだ。
「俺は冬吉だ。冬吉だ。春吉なんぞであるものか!」
 不意に、胸の奥に激痛が走った。美也子の名を救いのように唱えると、苦しみはいっそう募った。気の遠くなる中、冬吉は緊急用のボタンを押し続けた。

 ⇦前へ 続く⇒


この記事が参加している募集

眠れない夜に

貧乏人です。創作費用に充てたいので……よろしくお願いいたします。