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ハイド博士とジキル氏の奇妙な往復書簡

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それぞれの人格がそれぞれに書いた手記。 気楽な日記帳として、ゆるく続けていきます。
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記事一覧

新年と心機一転のご挨拶

お久しぶりです。 (と、二回連続で言うのは心苦しいのですが) ちょっと名前を変えました。 相変わらずの神崎です。 新年のご挨拶としては一ヶ月遅れですが、今年もよろしくお願いします。 前回の交換日記はこちら。 ……と、紹介したところで彼には悪いのですが、今日は全然関係ない話をします。 [序論]新年の抱負に代えて年の区切りで何かを考える習慣もあまり無いのですが、折角の機会なので抱負じみた私の野望を並べておこうと思います。 それから、このnoteのコンセプトもいくらか刷

科学は案外フレンドリー

科学が万人普遍の真実であろうとする限り、あなたの個性は蔑ろになる。 はたして、本当に? 前の往復書簡でハカセはこう指摘した。科学はある集団や現象の傾向や平均をもとに判断を下す。だから科学は最も平均的な人間に当てはまるようチューンされている、と。 科学の子羊この記事でハカセが提起した問題は2つ。科学の前に個性は排除・無視されるとして 1:科学は私に何を与えてくれるか 2:私は科学をどう見るか という問いである 1も無視できない問題だが、そうは言っても少なくともこれを読む人

あなたが科学を見るとき、科学はあなたを見てはいない

ややお久しぶりです。 前回の〈彼〉の書簡から、少し日が空いてしまいましたね。 だってそうでしょう、まるでドラマの最終回のように盛り上がった後で、私は一体どんな言葉を紡げば良いというのでしょう。 では今回もまた、論点をずらして別の話でお茶を濁しましょう。 「最高の人生」が「選択と失敗に彩られた無二の人生」であるならば、「最高の人生」と「最高の科学」とは究極的には相容れないのではないか? ――という問いについてです。 赤信号を一人で渡って事故に遭うのも個性生きれば生きる

正解の人生を選ぼうとして最高の人生を捨てていないか?

あけおめと老若男女が祝い合う令和5年のログインボーナスはそろそろ飽和してきた頃だろう。だから口直しに今日は正月らしくない話題、「失敗」の持つ有益さについて話そうと思う。 前回の往復書簡でハカセはこのように指摘した。「失敗の経験」は自分の経験からしか得られない。そして「『失敗』がその人の人生を唯一のものにする」、と。 これはその通りだと思うけど、この構造は失敗以外にもさらに一般化できるような気がするので掘り下げてみよう。 正解は多様性の乏しさゆえオリジナリティが透明化する

「失敗したくない」が原因で陥る人生の失敗もある

一人の人間の前に、あまりに多くのコンテンツ、あまりに多くの選択肢が提示される現代社会。 それは「無限の快楽が溢れる楽園」であると同時に、「情報の洪水に揉まれる地獄」でもあると言えるでしょう。 無限のコンテンツから有限にしか選べないとしたら、私たちはどうやって「正解」を求めていくべきか。 〈彼〉からの返信は、その問に対する一つの「解答」と言えるでしょう。 〈彼〉の示した答えはこうです。 確かに、これも一つの「解」だと思います。 「正解」は事前には存在せず、その後の行

正解を選べないという祝福を、我々はすでに受けている

暗い海に氷山が漂っている。その上に一人座り、マッチを擦る。その光が届く範囲だけが、君が知ることの出来る世界だ。そしてマッチの燃える時間が、君の生きる時間だ。1本のマッチで、氷山のすべてを知ることはできない。 人類が生み出したコンテンツに限っても、我々が一生かけて消費できるのは氷山の一角にすぎないだろう。ハカセは前の記事で、だから人生において飽きる瞬間は来ないと、そう教えてくれた。ましてやコンテンツを作る側に回ればなおさら。 これは幾分明るいニュースだが、新たな宿題もまた照

さまよえる不死と終わらないコンテンツ

RPGのキャラと違って、現実の人間には「レベル上限」がありません。 それでも時には、「見かけ上のスキル上限」のような天井を感じることがあります。 〈彼〉の前回の記事は、そんな「天井」のお話でした。 「タテ」の行き詰まりを「ヨコ」の広がりで打破することで、人生は無尽蔵のコンテンツになります。 つまり、こういうことね。 コンテンツを「タテ」に掘り下げる=その道で習熟度を高める コンテンツを「ヨコ」に広げる=新しい道に進入してみる ところで、私も先日ある本を読んで、似

効率化の果てに「仕上がる」危険とその打開法

何か一つの勉強ができる程度では個性にはならないが、自分で複数分野を選んで学べば、その組み合わせが個性となり君を助ける、これは差別化や無個性に悩む人にとっての救いであるとハカセは前の記事で示してくれた。 この記事でハカセは「自分の物語を始める第一歩」のさらにその前段階を書いてくれた。これでみんなが物語を歩み始める。めでたしめでたし。。。 本当に? 始まりがあるものには全て終わりがある。(*1) だから、今日は物語の終わりについて話そうと思う。 (*1: Matrix R

個性は作れる。何歳になってからでも。

〈彼〉がいつになく光の面を見せており、私の書くことがない……。 「自分の物語を見つける」ための第一歩、それは「やりたいことを見つける」こと。 このストーリーラインに関しては〈彼〉の文章で語り尽くされていますし、私もこのトピックに関して異論はありません。 それでは私は、もう少し違う角度から話をしましょう。 そうですね、「『やりたいことを見つける』という第一歩からもこぼれてしまう人」へ向けた話でもしましょうか。 なお、これからするのは信仰の話であり、「救済された側」の言

自分の物語の始め方ーやりたい事が見つからない人へ

生殺与奪の権を他人に握らせるな、とは鬼滅の刃の名言の一つだけど、もう一歩踏み込める。つまり、他人に委ねちゃいけないのは何も行動や意思決定の主導権だけではない。 快・不快のスイッチ、つまりは価値基準も他人に委ねちゃいけないんだ。 それらを他人に握らせれば最後、他人より秀でているかどうか、世間から評価されるかどうか、誰かと自分の差をアピールすること、つまりはマウントを取ることでしか快感を生み出せない人間になってしまう。 いや、もうそれは人間と呼ぶほどのもんじゃないね、ただの

「誰かの人生のモブ」を辞めて、「自分の人生の主人公」を始める、のススメ。

はじめに:「オモシロい人」と「ツマラナい人」最初に身も蓋もない話をしますと、「私があまり個人に対して怒りや憎しみを溜め込まない理由」については、おそらく「私が人間のカテゴリを『オモシロい人』と『ツマラナい人』の2つしか持っていないから」だと思います。 言われてから内観してみたのですが、どうやら私は「オモシロい人」は固有名詞で認識していますが、「ツマラナい人」は「集合」としてしか認識していない節があるようで……だからあんまり個人に対して怨みが募らないんですね。 蚊とかハエを

なぜ「ザマーミロ」はタブー視されるのか。

善人ならざる者が、善人として生きるための手段は2つ。自分で他人を観察して学ぶ、他人が自分を観察した結果を学ぶ。そしてそのためには「自分のことをヒトゴトのように見る」「ヒトゴトを自分のこととして想像する」が鍵となる、という結論までがここまでで出たようだね。 この2つは内面は伺い知れないのだから、観測可能な情報のみハックするという手続きに帰結される。ここからは今まで触れずに置いてきた、観察し得ない内面の話をしたい。 内面は一種の聖域だ。今後100年、神経科科学が進歩して他人の

「自分が他人からどう見られるか」をコントロールするには:「メタ認知」という知性

前回の書簡(下の記事)に「メタ認知」という言葉が出てきたのですが、これってあんまりアタリマエの言葉じゃないよなーと思ったので、今日はその「メタ認知」、もとい「自己認知」の話をしようと思います。 「メタ認知」って何?「Wiktionary」によれば、「meta-」とは「Transcending(超える、上位の)」という意味を持つ接頭辞。 また、自然科学の代表とも言える「physics(物理学)」に対して、physicsよりさらに抽象的な視点で世界を捉える学問を「metaph

「性格が良い」を天性の才から習得できる技術へ解体する

充分に適応した知能は、性格と見分けが付かない。これは大事な知見だね。 内心を覗き見る方法が存在しない以上、「自分はAと考えるが、世間ではBという言動がこの場合は標準的であり、望ましい」という類推ができれば、性悪な人でも感じよく、性格が良いふりをして社会に適応できる。性格が良ければ高く評価され、目的も達成できる。 これは社会のバグか?脆弱性か?いや、福音だよ。だって社会からは「自他に迷惑をかける感じ悪い人」が一人減って、本人は目的を達成する。 「感じが良い」を直接考えるの