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強い主張と、権利を守るドイツ人。ドイツ生活のぼやき - 17

音大が提供する「歴史的ダンス」というクラスに通い始めて2年目。途中1学期休んでいるし、ドイツの学生の長期休みは確かに文字通り長期なので、休み休みという感じではあるけれど、今は晴れて「上級者コース」に所属しています。

このクラスは、音楽学者でもありプロのダンサーでもある先生のもとで、音楽の学生や他ジャンルダンスの学生たちがルネサンスダンスやバロックダンスを学び、そこで得た知識を自分たちの演奏に生かすことを目的としているので、レベルもそれなりに高いように思います。

わたしは演奏はほとんどしないので、もっぱらその時代に関する知見を深めるのが目的です。それに、音楽高校に通っていたときにも、授業でルネサンスやバロックダンスを教わって、その頃から好きな活動でしたし、あまり上手くはないけど、踊るのも好きなんです。

ちなみに、ルネサンスダンスやバロックダンスの「ルネサンス」や「バロック」は時代を示していて、発祥などはともかく、どちらも貴族の踊りです。現代まで舞踏譜(踊りの楽譜のようなもの)や、手紙や日記の記述などを通して振付が伝わっているんですね。

去年はこういうのを踊りました。(ビデオはたまたま見つけたものです)


と、ダンスの話はこのくらいにして、タイトルにあるように「強い主張」の話をします。


マスクが大嫌いなドイツ人たち

毎週のダンスクラスの日。わたしはもともとあまり鼻が良くなく、アレルギーのような鼻のつまりを感じて、乾燥のせいで鼻血も続き、周りでも風邪が流行っていたことから、マスクを着用してダンスクラスに向かいました。

ドイツのわたしの街では、マスクを着用している人は屋内外ともに、ほとんどいません。パンデミック前に戻ったかのように、街は賑わい、パーティもたくさん開催され、少し前に始まったクリスマスマーケットには人が溢れ、とても活気づいています。

だから、マスクをしていると確かに少し目立ちはするのですが、日本人ではパンデミック前からマスクをつけることに抵抗がない人が多い印象ですし、わたしも乾燥を防ぐためだとか、自分を菌やウイルスから守るためだとか、あとは顔を寒い風にさらさなくて済むように、マスクをつけることがあります。特に、その日のように、鼻がつらい日はマスクをつけるだけで少し気が楽になるのです。

でも、パンデミック前のドイツ(や、おそらく他の欧州諸国)では、マスクをつけることは「わたしは病人です」とか「危ない菌やウイルスを持っています」といったことをアピールするようなことだったのです。だから、コロナ禍初期には、マスク着用がなかなか受け入れられなかったし、中期以降もマスク反対運動のようなものがあったほどでした。

付けたくない人が多かったからこそ、感染拡大を食い止めるため、電車や路面電車に乗るときはマスクの着用が「強制」だった時期もありました。マスクなしで公共交通機関に乗っていると、罰金を払わされるとか、払わなくて済むようにとりあえず降ろされるとか、それはもうカオスでした。

日本では、マスク姿を見ることにも抵抗が少なく、病気を移されたくない・移したくないという理由で自ら着用する人が多かったので、そもそも「強制」などしなくても良い状態だったようです。

わたしが言いたいのは、マスクの良し悪しや衛生観念の違いなどではなく、マスク着用はドイツの多くの人にとって、とても嫌なことで、しかもそれを強制されたというトラウマのような気持ちを抱く人も多いということです。


自分の意見をまっすぐ伝えるドイツ人

お気に入りの薄きいろのマスクを着用して、「ハロー!」とダンスの部屋の戸を開け、荷物の準備をしていたら、いつも物事を確かめたがるドイツ人の学生のSさんが、すぐ後にやってきました。

彼女はステップや足の向き、膝を曲げるタイミングなど、ひとつひとつ言葉で確かめないと気が済まない人です。わたしも学校時代にテニスやバレーボールのサーブのタイミングや角度がつかめず、先生に言葉で説明してもらったことがあるので、気持ちはよくわかります。それにSさんはとてもフレンドリーで優しい人なので、会うのが楽しみな人でもあります。

Sさんがわたしに気づいて「ハロー!」と挨拶をすると、すぐにハッとしてこう言いました。

「ねえ、屋内でのマスク着用はもう義務じゃないんだよ、外して大丈夫だよ」

わたしはどうしたものかと思いつつ、「うん、知っているけど、念のためしておきたいんだ。自分を守るためだから、風邪をひいてるわけじゃないよ」と答えました。

「自分を守るためって、それ、意味ないよ」

「う~ん、でもわたしの免疫はあまり強くなくて、昔から風邪をひきやすいから、つけておきたいんだ」

「……」

そういうやりとりを、2人の間でして、もうこの話はそれっきりだと思っていました。


わたしのクラスは、わたしを含めて4人。先生とその3人はみんなドイツ人です。それぞれ服装の準備などをしているとき、ドイツ語で雑談がありました。わたしは聞き役でしたが、その話が一段落した頃、そうだったと思いだして全員に向けて伝えました。

「あの、わたし今日はマスクつけてるんですけど、風邪じゃないですよ。みなさんを怖がらせたくないので、一応言っておこうと思って」

先述の通り、ドイツ人の多くにとって、義務とか強制でないのにマスクをつけるということは、未だに苦痛を伴うものという印象が強いので、「マスク=病人」と思われては気持ちが良くないし、身体が商売道具である音大生やダンサーを心配させたくなかったので、ひとこと言っておきたかったのです。

「もちろん、大丈夫だよ!わざわざ言わなくたっていいんだよ。好きにしていいんだから」

先生はそう笑顔で答えてくれて、Sさん以外の2人もコクコク頷いて、

「別に怖くないし、そもそもちゃんとマスクをつけるなんて、むしろ偉いと思う」

「賢明(vernünftig)な判断だよね」

などと言い合っていました。

ああ、コロナ禍を経て、ドイツでのマスクの印象も少し変わったのかしら、よかったと思った次の瞬間、

「でも!マスクは意味がないんですよ!」

あちゃ~というのがわたしの最初の感想でしたが、悪気がないことは普段の振る舞いからよく分かっていたので、

「日本ではけっこう普通なの、パンデミック前からね」

と付け加えると、先生もそうだよねと言ってくれ、他の2人も「いいじゃない、本人がするというなら」とわたしの選択を尊重してくれたのですが、おそらくそのどちらの声も届かぬまま、Sさんは早口で捲し立て始めました。

「マスクをすることで防げるものなんてほとんどないし、むしろ身体に悪いですから」
「それに、マスクをすることで顔を認識する力も落ちて……」

息継ぎも忘れていたんじゃないでしょうか。

「ひとりひとりが!」

先生が大きめの声でSさんを遮って、

「決めればいいのです。ひとりひとりに、その権利が守られているはずですよね?」

きりっと鋭く真っ直ぐなのに、優しさのある視線をSさんに向け、問いではない問いを投げかけました。

彼女は全く納得した様子ではありませんでしたが、そもそもこれは問いではないということを、さすがの彼女も察知して、言い返すことはありませんでした。

他人に干渉され慣れていないドイツ人?

これが日本だったらどうだったかなと考えると、少なくともドイツに住む前のわたしなら「面倒ごとに関わりたくない」気持ちもかなり強かったのではないかと思います。そして、そういう態度は日本社会を生き抜く上では、ある程度必要なのかもしれないとも思っています。

ドイツでは、Sさんのように他人と異なる意見を、気持ちがいいほどストレートに伝えてくる人が多いのですが、だからといって、みんながみんな常に論理的に考えられるわけでもないし、自分の意見を大切にしたい気持ちが大きくなりすぎて、時に行き過ぎてしまうこともあります。

そんなとき、そうやって干渉されすぎている他人を守ろうとするドイツ人も多いのです。

この国に生まれ育ったわけではないから、単なるわたしの解釈ですが……

  1. 「『他人に干渉されたくない』という気持ちは誰もが持っている」と信じている人が多い

  2. 「他人に干渉されない権利」を侵されている状況を見過ごすことは、自分の権利をも脅かすことにつながる、と考える

こういうロジックなのではないかと推測しています。

日本人だって、他人に干渉されたくないでしょうが、(その良し悪しはさておき)日本の学校や会社では、個々の生活スタイルに干渉する場面が多いので、「干渉され慣れている」のかなと感じます。逆にドイツ人は、干渉されることに不慣れで、守られるべき権利が脅かされることに比較的敏感なのだと思います。

そして、その守られるべき権利が侵害されているのを許してしまうと、いずれそれが自分にも返ってきて、不利になるという意識も働くのではないか、そういう教育がされているのではないかと考えています。


何年も前に、ドイツ人たちと単語をつなげて物語を作るゲームをして、ひとりの意地悪な子が「歩にはできないよ、言葉ができないんだもん」と言ったとき、欠かさず周りの別のドイツ人たちが「彼女は十分に話せるし、もし困ったら助ければいいじゃないか。こうやって君が言うことも理解している。何が問題なんだ」と割って入ってくれたのを思い出しました。


日本でのできごと

日本に帰国したとき、日暮里のモスバーガーで並んでいたら、2つあるうちの片方が空いて「次の方どうぞ~」と呼ばれているのに、聞こえないふりをしてそっぽを向き、頑なにそのレジに行くのを拒む人のことも思い出しました。わたしのすぐ前に並んでいる人だったので、耳が聞こえないのかしらと思いつつ、その方の視界に入ってレジを指さし「どうぞ」と声をかけたら、またぷいっとするのです。レジで「次の方」を呼んでいるのは、日本語が母語ではない外国人の店員さんでした。

う~ん、困った。こんなあからさまな差別ってある?でも、もう話しかけてしまったし。

「あの、レジ、空きましたよ」

嫌だなあと思いながら、もう一度そういうと嫌そうに身体をそらします。すると、

「こちらへどうぞ~!」

ちょうど空いたばかりのレジに立つ、おそらく日本人のベテラン店員さんがその困ったお客さんを呼び、何事もなかったかのように笑顔で接客を始めました。

本当に、何もなかったかのように。

ひとつ前の人が右のレジにいったので、わたしは外国人店員さんの左のレジです。食べたいものを注文して、意識して目を見て「ありがとうございます」と言いました。それくらいしかできませんでした。


ファミリーマートに行ったときも、外国人店員さんがレジを担当していて、そこで「日本語を喋れよ!」と悪態をつくパジャマ姿のご老人も見かけました。

狭い店内で、距離も近かったので、つい

「日本語、話してるじゃん」

と突っ込んでしまいました。夜だったから、わたしも眠かったのだと思いますが、自然に口から出ていました。ご老人相手に、敬語も忘れて。

「何言ってんだか、わかんねえよ!」

そんな風に辛く当たっているので、「何か手伝いましょうか?彼、日本語喋ってますけど」と言うと、フンっ!といって会計を済ませて去っていきました。


わたしのなりたい姿


波風立てない日本のスタイルも、悪くはないと思うのです。故郷を離れてハンバーガーを売る女性店員に悲しい思いをさせる暇も与えず、笑顔で何事もなかったように振舞ったモスバーガーの仕事ができそうな中年女性は、間違っていないと思います。

ファミリーマートで悪態をつかれていた外国人男性も、実際はたいして傷ついてもいないのかもしれません。だって外国からやってきて、日本で日本語を使ってああやって仕事ができるなんて、きっと優秀な人でしょうから、機嫌の悪いお年寄りの言うことなんて、なんてことないのではないでしょうか。

だから、わたしは別に日本でドイツ人みたいに振舞う必要はなかったのかもしれませんけど、それでも、わたしがドイツで自分の権利を脅かされたとき、わたしの権利を守ろうと声を上げてくれた人の多さに心を救われたのは事実なので、どうしても、わたしもそうでありたいと思ってしまうのです。


ところでダンスクラスは、先生が「ひとりひとりの選択が尊重される」ということを言った直後、全員が気持ちを切り替えて、何事もなかったかのようにいつも通り楽しい時間になりました。

こういうメリハリの良さ、人格を否定するのではなく、言葉でやり取りをするところもドイツ生活で気に入っていることのひとつです。

ドイツにも日本にも「イヤなヤツ」は存在しますし、その人への対応の仕方は国や人によっても異なりますが、わたしはダンスクラスの先生のように、的確な言葉をもって振舞えるようになりたいなあ。


おまけ

トップの写真はわたしが好きなイラストレーターさんのものをお借りしました。見るとホッとする絵がたくさんで、彼女のnoteを見るのが大好きです。

記事の内容とは全く関係ありませんが、おまけ。
Shostakovich Plays Shostakovich - Piano Concerto No. 2 in F major, Op. 102

最近、大好きな友だちからおすすめされたショスタコーヴィチのピアノ協奏曲第2番です。元気がでます。


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