日韓条約の真実と国際的な立場

1965年に結ばれた日韓条約には韓国政府が外交保護権の放棄を認めた。しかしそれはあくまで政府が放棄したものである。自国の国民が受けた被害、個人の損害を外交権を使って政府が抗議しないということだ。韓国政府が追求することを国際法上認められていないだけであり、個人の請求権は放棄されていない(明記されていない)。それが事実である。

であるから韓国国民が訴えることは間違ったことではない。だがここで疑問に思うべきことはなぜ今さらその問題が浮上したかだ。

その理由としては日本が矛盾した行動をとったのが原因だ。例を挙げるするとすれば中国についてだ。

中国は1972年に戦争賠償請求権を放棄した。しかし、日本の企業や裁判所は法的責任は否定するが個人に対しての補償は認めていた。政府もそれを容認した。そして中国で個人の請求権が認められるならば韓国もそうではないかと日本側から先に意見が出た。後にキリがないことが分かり政府は否定する。身から出た錆と言うべきか矛盾した行動は勿論隣国には伝わる。

韓国でも当初、個人的請求権は放棄と同時に失われたと考えられてきた。しかしその記録はない。追求できるなら追求しようというのが彼らの考え方である。

そして今から話すことはあまりマスコミも触れることが少ないが、1966年に国連で採択された国際人権規約に個人が侵害された場合の救済が認められた。1976年に発効された際に日本もそれに合意したのである。その時点で今までの国際法が変わったことを意味する。

前まで各国が国際法の主権者であったが個人に変わった。だとすれば国際法上個人が請求権を行使することは正しいことになる。

これらを踏まえると感情的には日本政府の言うことは理解できるが、国際法上ではこちらが間違いと認める他ないのだ。1965年に終わらせたものだとしてもそれを掘り返すことが可能である規約にサインしてしまったのは日本ではないか。それが私個人の考えである。

正直私にとっては日韓問題と言われても過去の出来事と既に割り切られている。顔も知らない曽祖父が人を殺した、虐殺をしたと言われても悪いことは分かるがそれを背負えるほど感情は動かない。

仮に個人の権利を追求していく世界なら私と韓国人の間にはまだ何もないはずだ。啀み合うことも争い合うことも不毛でしかない。

謝罪せよというならば謝罪しよう。しかし当事者でなければ本当の意味での謝罪はできない。我々ができることとすれば同じ過去を繰り返さないように歴史に記し学ぶほかないのではないか。

ここでまた違う持論を述べるがそれは軍をもたないことではない。軍を持って侵略をしないと誓うことにこそ意味がある。


Polimos管理人 柏木


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