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孤独と寂しさにキスを。

私は寂しさをあまり感じることはないのだが、孤独というものを強く感じる人間である。

昔から、『卒業式』『お別れ会』などで全く悲しさを感じなかった人間なのだ。周りの人たちはすごく泣いていたが、SNSでつながることが容易にできるこの時代になんでお別れを悲しむのか、寂しがるのかが全く理解できなかった。死ぬわけでもないのに、みんなどうしてそんなに寂しがるの?悲しむの?

寂しがりやな友人は周りでとても多い。「寂しいよ〜」と言われるたびに、一体寂しいとはどういう感覚なのだろうと疑問に思いつつ、私もバカだからお酒を一緒に飲む。

ある寂しがりやな友人に、「寂しいってどういう感情なの?」ときくと、「あるものがない感じかな」という返答をもらった。確かに、普段持ち歩いているスマホがなければ心細い。(そういう感じですか、寂しがり屋なみなさん。)友人の返答にはわからないが、理解はできた。

冒頭でも言ったように、私は寂しさよりも孤独を感じる人間だ。

孤独とは友人の言葉を借りたら「あるものが、もともと存在しない」とでも表現しようか。いくら人といても、いくら繋がりが持てたとしても、私は1人きりであるという感覚が強い。当たり前なのだが、全ての選択や言動は全て私に帰ってくる。私が私の人生の責任を負いながら生きていかないといけないという重みが『孤独』である。それは分かち合うものでもないけど、その重みに時々潰されそうになってしまう。

私は人から「寂しい」と言われるたびに、虚しさを感じてしまう。「あるものがない」状態に耐えられないのならば、その「ある」べき存在は私でなくてもいい。誰でもいい。たまたま私がその場にいて、目に映ったから、私を「ある」場所に置こうとするだけで、その「ある」べき場所に置かれる存在は代替が利くものなんだと思ってしまう。

そもそも人間は代替が利く存在なのだ。私1人が社会からいなくなっても、明日から社会が回らなくなることはない。朝井リョウさんの記事で「ナンバーワンよりオンリーワンが目指される時代」と書いてあったが、オンリーワンもそのワンがいなくなれば、違うワンが出てくる。私がいなくなって生きていけなくなるような人は、私に依存し、ある意味では健全ではない。

そうやって、私は代替が利く人間だとある意味諦念に打ちひしがれているが、別に辛いわけではない。それでも、ふいに望んでしまう。私のことを思いっきり叱ってくれたり、ちゃんと私の人生と一緒に歩んでいこうとする存在がいるのではないかと。私の人生の荷物と、相手の荷物を一緒に持てるような人がいるのではないかと諦めの希望を抱いてしまう。

寂しさという感情はたぶん私が思うよりやっかいで、みんな不器用にその寂しさを他人になすりつけ、なすられ、生きていく。私も幾度となく寂しさを押し付けられ、その度に孤独の虚しさが顔を出す。でも、孤独を感じるたびに、虚しさを感じ、私は私の人生にちゃんと責任を持たないといけないと感じる。それは私が生きていることを感じることと同義ではなかろうかと最近は思う。

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人は1人では生きていけない。たくさんのつながりの中生きている。でも、つながり過ぎで、「私は私」であることを忘れがちだ。孤独とは「私は私」というものを思い出さしてくれる大切な感情なのではないかと思う。

孤独も、寂しさも、大切でやっかいな感情だ。
それでも自分なりに解像度を上げたり、意味付けをしていけばなんだか愛おしいものに見えてくる。そうやって他人の感情も、自分の感情も、ハグできるように今日も言葉にしていく。


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