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紅筆伝 1-10

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第一章 一話へ  『黴男』はこちら



   十
 
 「助けてあげようって、それで、帰って来たのか」
 僕は、珍しい面々を奥座敷に案内しながら、ため息をついた。
 後ろから、真子、八枯れ、そして、タチバナ。
 三人が三様の面持ちで、玄関前に立っていた時は、目を疑った。
 「お父さん、ただいま」と、言う真子の笑顔に、少し気も緩んだが、あの抑揚のない声で「久しぶりだね」と、つぶやいた彼女の声に、一気に気分が滅入ったものだ。
 「それで、」襖を片手で閉めながら、中に入った一人、一人の顔を眺めてから、最後にタチバナを見つめ、息をついた。「お前は、僕に何をやらせたいんだ?」
 「ふむ」タチバナは、座敷の隅に、あぐらをかくと、頬杖をついて素朴な笑みを浮かべた。「なんだい。わたしがきみに、何かやらせようとでも言うのか」
 「八枯れと真子の話では、僕の所へ相談に来たそうだが、」
 「そうだが?」
 タチバナの無味な声に眉根を寄せて、ため息をついた。
 「そんな訳がない。お前が相談で終わらせるとは思えない」
 「ひどい言い草だ」
 「そうだよ、みかんちゃんは、お父さんを頼りたいのに」
 「いや、こいつは貴様に押しつけたいだけじゃ」
 皆が好き勝手、物を言い合う中で、ひょっこり、と顔をのぞかせた邪植は、座敷を見まわして、笑った。
 「おや、タチバナさん、お久しぶりですね」
 そう言われ、顔を上げたタチバナは、しばらく邪植を見つめた後、「ああ、まあ、君か」と、またどうでも良さそうな声を出して、僕の方を見る。
 その茶色い双眸からは、当然、何の感情も読み取れない。
 邪植は、盆に乗った人数分の茶を机に並べてから、いそいそと、部屋の隅で正座をした。
 「その黴男って、何なんですか?」
 邪植は、細い目をより細めて、にやにやと、笑った。ああ、そうか。と、茶をすすりながら、お前は当時、居なかったのか。と、つぶやいた。
 「真子も!」はい、と元気よく手を挙げながら、僕の膝に乗った真子は、屈託のない笑顔でそう言った。
 この陰惨な連中の中で、唯一の癒しだな。そう思い、微笑むと、真子の頭を撫でた。
 「悪かったな陰惨で。ちなみに貴様はこの世で一番の陰惨だからな」
 「なんだ、聞こえていたのか」
 「はっきり声に出しておいて、よく言うな」
 八枯れの不機嫌そうな声を横目に、僕は座卓に肘をついて、ゆっくり息を吸い込んだ。
 「以前、来たのさ。我が家にね。たしか、名前は蒲田。しょんぼりとした、冴えない男だった」
 まるで、おとぎ話でも語るような口調で、話し始めると、真子は嬉しそうに顔をゆるめた。

    十一へ続く

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