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村上春樹の短編を読む 海外文学と音楽 その1 『螢・納屋を焼く・その他の短編』

 村上春樹さんの小説は、海外文学や音楽への言及が多いですよね。例えば、映画化された短編小説「ドライブ・マイ・カー」は、題名がビートルズの曲ーーポールらしい、軽快で、気分が乗っている時に口ずさみたくなる曲です。この曲を題名にしているのだから、『ノルウェイの森』とは作風が違うはずだと考えて、小説を読んでみる気になりました(『ノルウェイの森』が合わなくて、長年村上さんの小説に苦手意識を持っていたのです)。

 ちなみに、私がnoteで使っている「海人」という名前も、うちのペットの名前ではありますが、もとはビートルズの〈ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト〉という曲からとっています。カイト→海人。ビートルズ時代とは全く違うアレンジでポールが歌っているのを聴いて、こんなにいい曲だったのかと感動し、ペットの名前にもらいました。

 話を戻すと、小説内に文化的な固有名詞を散りばめることで、読者に親近感を抱かせたり、作品の雰囲気や登場人物の性格を想像させたりできるわけです。一見簡単そうですが、読者百人中一人か二人しか知らないマイナー作品だと、作者が伝えたいものが伝わらずに終わってしまいます。といって、ベストセラー作品を並べただけだと、安っぽい世界観になってしまうでしょう。
 設定にそぐわない作品を登場させてしまう例もありそうです。主人公がゾンビ映画オタクという設定なのに、好きな映画が《バイオハザード》と書いてあったら、本当にオタクなの? と疑ってしまう(あまりにも一般的すぎる作品なので)という具合に。この場合、固有名詞が作品世界に入り込むのを阻害していることになります。
 村上さんのチョイスは、そこのところが絶妙だと思います。よく知っている作品と何となく知っている作品、知らない作品のバランスがとれているし、世界観を阻害するような作品名が出てくることもありません。どんな作品を登場させるか、計算し尽くされているのだと思います。

 というわけで、村上春樹さんの短編小説に出てくる海外文学や音楽、映画から作品を読み解いてみたいと思います。海外文学(書名があれば日本文学も)は全部取り上げるつもりですが、音楽や映画はその作品内での意味合いがわかる時だけ(ジャズは詳しくないので除外)取り上げます。
 また、諸事情で講談社の短編集はまだ読んでいないので、新潮社と文藝春秋社の短編集を発刊順に取り上げていきます。今回は、『螢・納屋を焼く』収録の作品について。

「螢」
ヘンリー・マンシーニのレコード 好きな女の子への語り手のクリスマス・プレゼントです。マンシーニは60年代〜90年代に活躍した映画音楽の作曲者。特に60年代と70年代には《ティファニーで朝食を》や《ひまわり》はじめ、有名な映画に曲を提供しています。ヒット曲集を聴いたところ、綺麗で、苦手な人がいなそうな曲という印象でした。《ひまわり》以外は観たことがない映画ばかりなのに、知っている曲や何かの折に聴いたことがある曲が多かったです(〈ムーン・リバー〉等)。
 彼女が好きな〈ディア・ハート〉という曲は、同名映画の主題歌なのですが、映画は日本未公開。未公開映画の主題歌が好きって、60年代にはかなりハードルが高そうです。文化的に恵まれた環境で育ったのでしょう。
 とはいえ、1967年の女子大生がビートルズファンではないというのが意外です(《サージェント・ペパーズ》の発売年なのに!)。ビートルズファンの中心は大学生や若い人だと思っていたのですが、彼女はビートルズを聴くにはお嬢様すぎたのかな。現実に落とし込むと、彼女は神戸女学院出身の津田塾生だと思うので、お金持ちのお嬢様であるのは当然として、(女子大の人気が下がった今は事情が違うかもしれませんが)、私の時代でもちょっとひれ伏したくなるレベルの才女です(津田塾の英語は、早慶の文学部や東京外大に合格する子でも歯が立たない別格の難しさだったのです)。
 まして、女性の大学進学率が4.9%だった1967年には、彼女はエリート中のエリートですよね。そう考えると、彼女の立ち位置は、私の時代の大学生よりも、夏目漱石の小説に登場するエリートたちに近いのかなと感じます。村上さんのような団塊の世代の方々は、漱石の小説で描かれる知識階級/エリート階級の悩みを我が事にできた世代だったのかもしれません(村上さんは世代で語られたくないかもしれませんが、どこかに、世代に縛られた部分もあるはず)。


「納屋を焼く」

フォークナーの短編集 語り手が空港で飛行機を待ちながら読む本。フォークナーは、二十世紀前半に活躍した米国作家です。中上健次さんに影響を与えた作家としても有名ですよね。とても人を選ぶ作風ですが、若い頃にフォークナーの『響きと怒り』が大好きだった私にとっても、気分によっては全く頭に入ってこない、読む時を選ぶ作家です。ただし、短編は割とやさしめなので、空港の待ち時間にも読めそうです。
 ウィキによると、フォークナーには「Barn Burning」という同名の短編があるのですが、村上さんはこの作品を読んだことがないと仰っているそうです(そのため、改稿では、語り手は週刊誌を読むことになっている)。でも、フォークナーの作品では、『死の床に横たわりて』や『八月の光』にも火事の話が出てくるので、潜在意識にあって、フォークナーの名前を出したのではないでしょうか。納屋を焼いたり、人が中にいるのに家に火をつけたり、火事で焼け死んだり……そうしたことがごく普通に起きるのが、フォークナーの世界なのです。


ギャツビイ 語り手がある青年を指して使う言葉。スコット・フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビイ』の主人公。
 以前、この小説の感想で、「青年が納屋を焼いて女の子を焼き殺した」という説を紹介しました。個人的には、深読みしすぎやろ……と思う説ですが、そう読むなら、「納屋を焼く」は『グレート・ギャツビイ』のパロディということになりそうです。
 それはそれとして、語り手が青年をギャツビイのようだと表現するのは、裕福そうなのに、何をして稼いでいるのかよくわからないためでしょう。本人は貿易関係と言っており、よく人に会ったり、電話をかけたりはしているものの、必死さがないーーというのが女の子の観察。まさに、謎の金持ちとして登場するギャツビイと同じなんですね。
 貧困から成り上がったギャツビイとは違い、青年は単に親が裕福なのか、反社会的なことで稼いでいるかなんでしょうけど。などと書いてしまうと、この小説の雰囲気をぶち壊してしまいますね。
(『グレート・ギャツビイ』については、後日、『騎士団長殺し』との関連で詳しく取り上げる予定です)










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