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太宰治『右大臣実朝』 滅びを予感した悲劇の人

 『右大臣実朝』は太宰治の長編小説です。実朝って、地味な人ですよね。ネットの感想を見ても、『鎌倉殿の13人』関連で読んだという方がほとんど。

 このドラマを観ていないので、ウィキをちらっと眺めたところ、三谷さんの解釈は、「現代の視点では、もうこれしかないだろう」というものでした。文書には残っていないので、歴史学的に「実朝には同性愛的傾向があった」とは書けないと思いますが、まだ二十代半ばなのに「実朝には後継ぎができない」前提で話が進んでいるわけですから。同性愛ではなくても、女性に性的関心を持てない人だったのでは。高い身分の人の場合、主に同性が好きでも、子作りができれば問題なかったと思います(徳川家光のように)。でも、ただでさえ親類が少ない源氏の長として(親類が少ないのは、父親の頼朝が兄弟その他を滅ぼしたせいですが)、子孫を作れないことは、実朝の自意識に影響したに違いありません。……という設定にすれば、実朝の人物像がわかりやすくなったと思うのですが、太宰治はその説をとりませんでした。

 太宰の小説では、実朝は生まれながらに哀しく、寂しい人であるとされています。時には、未来を覗き見ることさえできる青年。政治的にも、文学的にも非常に優れた青年。

アカルサハ、ホロビノ姿デアラウカ。人モ家モ、暗イウチハマダ滅亡セヌ。

そんな風につぶやき、自分の滅びの日を予感する青年。ある意味、人を超えた者として描かれているように感じました。

 太宰は、同じタイプの人物を前にも書いています。『駆け込み訴え』に登場するイエス・キリストがそうです。イエスもまた、自分が十字架に架けられる未来を予想しながら、その運命を受け入れます。語り手のユダは、イエスの悟りを理解できずに、イエスにとってはどうでもいいような些細なことで苛立ちます。

 それに対して、『右大臣実朝』では、語り手の家来は実朝を心から敬愛しています。滅亡を予感し、最後の方では投げやりになる実朝をはがゆく思うこともなく、最後まで実朝に忠実でした。
 太宰も、少年の頃から実朝に憧れ、彼についての小説を書きたいと思っていたようです。一つには、歌人としての実朝をリスペクトしていたためもあると思いますが、自分も実朝のように生きたいという気持ちもどこかにあったのではないでしょうか。

 太宰は少年時代から自殺未遂を繰り返し、死が身近にありました。普通に考えると、二十代後半で甥に殺された実朝や三十代前半で刑死したイエスに憧れるのは奇妙に思えますが、太宰にとっては、死を予感する人生は決して忌むべきものではなかったのでしょう。
 とはいえ、救世主であるイエスは別として、普通の人間である実朝が本当に滅びを予感して生きていたのかどうか。怨みと嫉妬を抱え込んだ甥に殺されるという最期があまりにも哀れなので、人とは違う何かが実朝にあったと思いたくなるだけなのかもしれません。いずれにしても、ユーモアのセンスや皮肉を封印しているところなども含めて、実朝に対する太宰の強い気持ちを感じる作品でした。

 
追記 ところで、後に書かれる『斜陽』にも、滅びを受け入れて生きる(または死を選ぶ)人たちが登場します。この小説を読んだ時には、敗戦後の時代の変化が背景にあると思ったのですが、太宰は日本が負ける前から、滅びを予感していた、というより、彼にとっては、生きることがすなわち迫りくる滅びの日に近づくことだったのかもしれません。哀しい人生ですが、その意識が太宰の人気の源なのかなとも感じます。

追記2 この小説の後に、太宰の現代小説を何作か読みました。その中に自らの滅びを予測する人が登場します。彼は、自分が戦死するという未来を予測しているのです(実際に、アッツ島で戦死する)。国のために死ぬという運命を受け入れた青年たちとの出会いが、この小説の実朝像に影響を与えたのかもしれないとも感じました(太宰の「戦争」小説については、来月の読書記録にもう少し詳しく書く予定です)。



 


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