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2023年6月 読書記録 余計者、プロ文、堀辰雄

遅くなりましたが、先月読んだ本のまとめです。

高橋睦郎『漢詩百首 日本語を豊かに』(中公新書)

 森鷗外の小説がきっかけで、江戸時代後期の文人画家、蠣崎波響が夫の先祖と知りました。文人画家というだけに、波響は漢詩を作るのも好きで、しかも、波響の漢詩に北大の教授が注釈をつけた本が出版されているんですね(絶版ですが、Amazonにありました)。いつか読んでみたいけど、漢詩の素養がなさすぎる。ーーということで、入門書になりそうなこの新書を読んでみました。
 学生時代、漢文が苦手でした。古文は大好きだったのに。司馬遷の『史記』だけは楽しく読んだ覚えがありますが、漢詩が…。韻を踏む等の決まり事が面倒な上に、内容もよくわからない。
 長年、その頃の印象のままだったのですが、この本では詩人である著者が各詩の現代語訳をつけてくれています。それが、とてもわかりやすく、美しい。情景を読んだ詩もいいし、恋や友情の詩もいい。漢詩って、こんなにビビッドなものだったのかと驚きました。

 百首載っているうちの四十首が日本人の漢詩なのですが、中国から輸入された漢詩を、長い年月をかけて、日本人が我がものにしていく流れがよくわかります。
 時代順で、日本人の一人目は聖徳太子。最後は大正四年生まれの鷲巣繁男氏(この本には載っていませんが、大正天皇も漢詩の名手であらせられたようです)。そんなにも長い間、日本人にとって重要な芸術だった漢詩が忘れ去られようとしているのが残念です。
 森鷗外の漢詩があったのも嬉しい。ドイツ留学中に作った詩で、ノイシュヴァンシュタイン城やバイエルン国王ルートヴィヒ2世の謎の死を詠んだ意欲的な詩でした。

金澤裕之『幕府海軍 ペリー来航から五稜郭まで』(中公新書)

 私が大学で日本史を学んでいた頃でも、江戸時代=停滞した時代いうイメージが多少残っていました。
 今の日本は、江戸幕府を倒した人たちが作った国ですから、明治維新以降の出来事を重視するのは当然ですよね。いつだって、歴史は勝者のものなのです。
 でも、江戸時代後期や明治期について書かれた本を読むと、その二つの時代には、大きな断絶もある一方で、深くつながっている部分もあり、徳川幕府が明治の近代国家に大きな影響を与えたことがわかります。
 この新書にも、「徳川幕府が海軍を設立していなければ、日清戦争で負けていたかもしれない」と書かれていました。幕府が海軍の必要性を悟ったのは、ペリー来航の時であり、それ以降も派閥争いや守旧派の妨害などがあって、順調に海軍力が増強されたわけではないのですが、それでも、その時期に海軍について学んだ人々が(一部は幕末の内戦で命を落とすものの)、その後の日本を支えたことがよくわかりました。

ミハイル・レールモントフ『現代の英雄』(高橋知之訳・光文社古典新訳文庫)

 レールモントフは、プーシキンのすぐ下の世代の文学者で、プーシキン同様決闘で命を落としています。
 19世紀に、文学者が決闘で命を落とすとは…。ロシアの闇が深すぎる。
 『現代の英雄』の主人公、ペチョーリンは、プーシキンの『エヴゲーニイ・オネーギン』の主人公と同じ、「余計者」の系譜に連なる人物として有名です。
 19世紀初めのロシアでは、弾圧により近代的・自由主義的な動きが阻まれます。そのため、進歩的な思想を理解しながらも、それを社会のために生かすことができない貴族の青年たちは、無為に過ごすか、逆に決闘や恋愛遊戯にうつつを抜かすか、どちらにしても「余計者」として空虚な日々を生きるしかなかったのです。
 同じ余計者でも、プーシキンが書いたオネーギンは、両思いだった女性を遠ざけ、人生を踏み出せない男…夏目漱石が書いた『それから』の代助を思わせる人物です。 
 それに対して、『現代の英雄』のペチョーリンは、江戸時代初期のかぶき者と似ています。刹那の恋と喧嘩に生き、些細なことで命を捨てるのを厭わない男たちと。
 トルストイやドストエフスキーの小説にも、オネーギン型とペチョーリン型、どちらのタイプも登場しますし、それどころか、今のロシアにも、オネーギンやペチョーリンのような男たちがいるのではないかと感じました。
 

ヘンリー・ジェイムズ『ワシントン・スクエア』(河島弘美訳・岩波文庫)

 後期の作品しか読んでいなかった頃は、ジェイムズを近代文学で最も難解な作家だと思っていましたが、初期や中期の作品はどれも、英国文学らしく、キャラクター造形が巧みで、わかりやすいです。この小説もそうですが、映画化されている作品が多いのもうなずけます。時代背景さえ変えれば、現代にも通じる話なのです。
 真面目で受け身の女性が、好きになった男との結婚を父親に反対されてしまう(母親はいない)。父親が見抜いた通りに金目当てだった男は、父親が反対なら、財産を分けてもらえないと考えて、彼女から身を引く。
 初恋にやぶれた主人公は、二度と恋をせず、ボランティアをやりながら、淡々と生きていく。

 彼女みたいな人って、私のまわりにも何人かいるんですよね。親に大事に育てられ、門限その他も厳しくて、男性と付き合うチャンスがない。たまに親しくなっても、「どういう人なの?」とか母親にうるさく聞かれて、マイナスポイントがあると、「やめときなさい」みたいな話になる。従順だから、親の言いなりになり、結婚する気はあったのに、婚期を逃してしまった。
 今になってみると、それはそれで、悪くない人生に思えますが。親が反対しそうな男性と結婚して、わりとすぐ離婚というケースもいくつか見たので、特にそう思うのかもしれません(こっちは、元夫のストーカー化とか養育費不払いとか、なかなか大変そう)。
 この小説の主人公も、過去を引きずってはいないように思えました

青空文庫は、四作読みました。
 

堀辰雄『菜穂子』

 先月から読んでいた堀辰雄。作者の唯一の長編小説だそうです。
 出世作だった『聖家族』と同じく、片山広子(芥川龍之介の恋人)と彼女の娘(堀の片思いの相手)がモデルの小説です。母子は堀より長生きしているのに、この小説では、母は死に、娘は結核を病んでいます。
 婚約者を結核で亡くし、自分も同じ病気にかかっていた堀は、死を通してしか、生を実感できなかったのでしょうか。
 死を受け入れ、お互いを完全に理解し合っているように見えた『風立ちぬ』の二人とは違い、この小説の登場人物は皆、あふれるほどの思いを持ちながら、それを胸にとどめ、お互いすれ違うことしかできません。生きるとはなんと苦しく、かなしいことかと、堀辰雄が感じていたようにも読めました。


葉山嘉樹『セメント樽の中の手紙』
葉山嘉樹『海に生くる人々』
小林多喜二『蟹工船』

 プロレタリア文学を敬遠していました。さぞ悲惨な話なのだろうと思って。フィクションならどれだけ悲惨な話でも平気なのですが、プロレタリア文学は現実ですから。悲惨な現実からは、できれば目をそらしたい。
 そう思っていたのですが、今回、何冊か読んでみました。
 想像以上に悲惨な世界が書かれていました。『海に生くる人々』は石炭を運ぶ船、『蟹工船』は北方で蟹をとり、その蟹をそのままカニ缶にする船の話なのですが、船で働く人たちは当時の工場労働者や農家の小作人たちよりも更に辛い状況に置かれていたようです。
 今でも、会社側は利益のことしか頭にない…過労死した人や心を病んだ人を大勢知っているので、そう思います。ただ、そうは言っても、今はギリギリまで働かせるにしても、スマートなやり方になっています。プロレタリア文学に書かれるのは、労働者を殺しても特に何とも思わない、むしろ、それが自分の権利のように思って、その醜い姿を取り繕おうともしていない人たちです。
 規制もなく、まわりの目を気にする必要もない状況に置かれると、人はここまで残酷になれるのか…。

 『セメント樽の中の手紙』は、小三の時、ミステリ小説と勘違いして本屋で立ち読みした作品です。これも悲惨な話なのですが、労働の現場を正面からは書いていないので、「何て悲しい話なんだろう」と心打たれたのを覚えています。その後、勝手にチェーホフの小説だと思い込み、大学時代にはロシア語選択の友達に「チェーホフの話でこういうの知らない?」と訊いたほどです。その時、近くにいた男子が呆れたように「それ、プロ文の『セメント樽の中の手紙』だよ」と教えてくれました。
 チェーホフと間違うほどに、寂しく、悲しい語り口。プロレタリア文学入門としておすすめです。


 



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