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太宰治『津軽』を読む

 日本の小説と縁が薄かったわりには、太宰治の小説はそれなりに読んできた方です。『人間失格』『斜陽』『富岳百景』など代表作を読んできたのに、『津軽』だけはなぜか読んでいませんでした。太宰が好きな知人が津軽を旅して、太宰の生家である斜陽館に行った話も聞いたのに、縁がありませんでした。

 今回、津軽を読んで思うのは、太宰のファンだけでなく、私のように太宰を好きとは言いきれない者でも『津軽』は好きにならずにはいられないということです。太宰の魅力である優しさや繊細さ、ユーモアのセンスなどが発揮されているのに、太宰の鼻につくところ(気取りや自己憐憫癖)はないからです。

 この作品は、太宰が津軽地方を旅して回った時の心象風景を描いています。内容があまりにもその時の精神状態に左右されているので、紀行文とは言えないでしょう。でも、私たちが旅する時も同じだと思うのです。気の合う人と旅した場所は素晴らしく思い、嫌なことがあればその場所もたいしたことがないように思える。数年後に再び訪問してみて、記憶にある印象とは全く違うこともよくあります。だから、気分のままにその土地の印象を記すこの作品が、かえって本物の旅行記のように感じられました。

 作品の前半部では、太宰は昔懐かしい奉公人たちを訪ねます。太宰は、彼らを心から愛し、奉公人たちも太宰を愛し慕っている。それがわかる、心温まるエピソードが続きます。中には太宰にあった喜びのあまり、後から思い出すと、恥ずかしくなるような大げさなもてなしをする人もいます。彼らが示してくれる大きな愛情を喜びと共に書き記す太宰の姿。ときには自分の高揚感を笑う文章もありますが、温かい笑いであり、太宰の文章につきものの哀しみや孤独は感じられません。奉公人たちといるときには、太宰はありのままの自分で居られたのではないかと感じました。

 故郷に戻って、昔の奉公人に合う話といえば、魯迅の『故郷』を思い出します。魯迅の小説では奉公人が昔とは変わってしまっているのですが、故郷を離れた者が故郷を懐かしく思う気持ちや、そこはもう自分の居場所ではないと理解しながらも故郷を愛さずにはいられない、それでいて、故郷のあれやこれやに苛立ちも覚えてしまう、そんなアンビバレントな感情の描写が似ているように感じました。『故郷』は、私の「最愛の海外文学10選」の一つなので、雰囲気が似ている『津軽』を好きになったのも当然ですね。

 
 私は『津軽』を随筆だと思って読み始めたのですが、途中でウィキペディアを読んで、創作部分があることを知りました。物語の最後で、太宰は幼い自分を育ててくれた子守に会いに行きます。作中では太宰と子守は会話を交わすのですが、実際には会話はなかったそうです。多分太宰にとっては懐かしい子守りに再会できただけで充分だったのではないでしょうか。会話は必要なかった。むしろ余計な会話をして、自分の幸福に影がさすのが怖かったのかもしれません。現実ではそうだったけれど、物語の中では太宰と子守は淡々と会話を交わします。感情的でなく、といって冷たくもなく。いつまでも、記憶に留めておきたくなるような会話。そんな会話を子守りのたけと交わしたのだと、太宰は思い出を作り変えたのかもしれません。
 懐かしい人に会っても、声をかけることができずに心の中で彼女に話しかける太宰。心の中の会話を小説の中で再現してみせる太宰。前半では楽しい会話や述懐が続き、何度か笑ってしまうこともあったので、人前で読まなくて良かったと思ったほどですが、物語の最後には、太宰が背負った孤独と哀しみを感じて泣きたくなるような……といって決して重い読後感ではなく、繰り返し読みたくなるような小説でした。
 


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