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不幸の前払い理論に思う

人生の早めの段階で不幸を「払う」と、そのあとはあんまり不幸がないって話を聞く。これはその人間に与えられた不幸の総量が決まっているという仮定であれば有効か。たとえば100あったら70くらいを先に、まあ十代二十代で経験してしまえと。残りの30はゆっくりぼちぼちと払っていけば楽である。だいたい人間がタフになってきて耐性もついてるんだろうからそんなにつらくもなかろう。

翻って俺の不幸とはなんだったか、というと、若ぇときに激しめにガツンとやられてるんで、下手こいたらそのまま死んでるところ、これでもサバイバーなあたくしなんですが、たぶんあれ以上のビッグウェーブってないんだよな。もうしあわせよ。90払ったよ。で、不幸は払ったが、苦労はまだ足りてねぇと思う。修行みたいな意味での苦労なんですけど、まあ実にチャラチャラ生きてきてしまった。小説の締切が近いいまも大変なんですけど、焦ってますけど、それが済んでも刻苦勉励の日々をぶちかましたいと思います。努力は不幸じゃねえからなぁ。義務だから。

不幸=苦痛、としてみても少し違う。ならば不幸=絶望。ちょっと近いな。まあ絶望であれば済ませられる限り済ませちゃってその先の晴れ間に笑いましょう。経験上、いまつらかったらあとで楽なんだよ。人生を楽しまないのは罪だぜ、と、これはある漫画の台詞。

あとね、「生きていればいいことがある」の本当の意味を俺は知っている。この手垢まみれの言葉は単純な真実をいっていて、必ずいいことがある、だが、悪いこともあるというのは否定していないのね。単純にどっちもある。いいことに目を向ければ普通にその辺にあるから。それはクラブでドンペリ開けちゃう的なもんでなくても、自分で淹れたほうじ茶が、なんかウメェなこれ、というようないいことがあるじゃん。滋味ですよ。味わいですよ。という喩えもしつつ、いいことはいくらでもありますよといいたい。ひとまずの結論です。

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