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短編小説:笛の音色に包まれて

 少年は、いつも森のなかで笛を吹いていました。家で吹けば父ちゃんから「そんなことよりも勉強しろ」と言われ、外で吹けば友だちから「そんなことよりも鬼ごっこしよう」と誘われるからです。
 少年は、好きなだけ笛を吹くことができれば、それで良かったのでした。

 それに、森のなかで笛を吹いても、少しも寂しくありません。
「おう、くつした、今日も来たのか」
 少年が笛を吹き始めると、いつのまにか猫のくつしたがやって来るのです。
 くつしたは、この村に住み着く黒い野良猫です。四本の足の先が白くて靴下を履いているようなので、くつしたと呼ばれていました。
 切り株に腰掛けている少年の前に、くつしたは座りました。
 くつしたは、音楽が得意な猫です。少年の先生になったつもりで、笛の音を聴いていました。少年が少しでも音を外せば、しっぽをひょい、と動かして知らせます。そのおかげか、少年の奏でる音色は日に日に美しく、優しくなっていきました。

「あいつ、だいぶ上達したんじゃないか」
 ある日、くつしたがうとうとしていると、トラチャンが話しかけてきました。トラチャンはまるまる太ったトラ猫です。トラチャンもときどき、少年の笛を聴いていました。
「そりゃあ、おれが鍛えたんだもの」
「さすがだなぁ、くつした」
「おれは、あいつの師匠だからな」
 くつしたは得意気に笑い、トラチャンは感心したように何度も頷きました。
「おいらも今度、くつしたに歌を教えてもらおうかな」
「いいけど、トラチャン、おれは厳しいぞ」
 くつしたは大いばりで胸を張り、トラチャンは「厳しいなら遠慮するよ」と言って帰っていきました。

 そんなある日。村はいつもより賑やかです。
「なんだ、お祭りか?」
 くつしたはトラチャンに尋ねました。
「この村に、お金持ちの人が遊びに来るらしいぞ。すごい人なんだって」
 トラチャンは、おしゃべりなおばさんがやっている食堂に住み着いているので、村の事情に詳しいのでした。
「ふうん」
 くつしたは興味なさそうにひげをゆらしました。
「おーい、くつした。お、今日はトラチャンもいるんだな」
 その時、少年が笛を持って歩いてきました。
「さすが、おれの弟子だ。お金持ちだなんだのに誤魔化されず、ちゃんと練習に来たぞ」
 感心したくつしたは、トラチャンに囁きます。
 少年はいつも通り、切り株に座って奏で始めました。くつしたとトラチャンは、目を閉じて聴き入っています。
 その時、ガサガサっと音がして、背の高い、立派な背広を着た男の人が現れました。見慣れない顔に少年はぎょっとして立ち上がり、くつしたとトラチャンはあわてて茂みに身を隠しました。
「あいつ、遊びに来たっていうお金持ちだぞ。そう言えば、森を見たいとかなんとか言っていたらしい」
 トラチャンは小さな声で言いました。
 男の人は、少年に何やら話しかけています。くつしたは、もし大事な弟子にに何かあればすぐに飛びかかるつもりでした。
 でも、男の人と話す少年はなんだか嬉しそうです。「ジョウズ」とか「スバラシイ」とか、人間が誉める時に使うらしい言葉が何度か聞こえました。
 やがて、男の人は森の外に向かって歩き出しました。少年も軽やかな足取りで続きます。くつしたとトラチャンは顔を見合わせると、こっそりあとをつけました。

 ふたりが向かったのは、少年の家でした。父ちゃんと母ちゃんが出てきて、男の人と話しています。
 くつしたとトラチャンは隠れて聞き耳をたてました。「サイノウ」とか「シンガク」とか「トクタイセイ」とか、よく知らない言葉ばかりが出てきます。険しい顔つきだった父ちゃんと母ちゃんでしたが、だんだんと表情が和らぎ、なんだか嬉しそうな顔で少年の頭を撫でるのでした。
「よくわからんが、大丈夫そうだな」
 男の人は悪い人ではなさそうだし、少年たちもにこにこしているので、くつしたとトラチャンは安心です。盗み聞きにも飽きたので、遊びに出かけました。

「なあトラチャン、これはどういうことだ」
 数日後、くつしたはぷりぷりしてトラチャンの住んでいる食堂を訪れました。
「あれから、おれの弟子は全然森に来なくなったんだ。それだけじゃない。弟子は来ないくせに、あの森に最近、いろんな人がやって来るんだ。何かを測ったり、木を切ったり、迷惑極まりない!お前、何か知ってるかい」
「くつした、君の弟子のことなんだけど…」
 食堂で、村の人たちのおしゃべりを聞いているトラチャンは、人間の言葉にも村の情報にも詳しく、やっぱり何か知っているようです。
「どうやら、笛の勉強をするために遠くに行ったらしい」
「なんだって!」
 くつしたは大きな声を出しました。
「笛なら、いつもおれが教えていたじゃないか」
「そうなんだけど、遠くの、大きな学校で勉強するんだってさ。あのお金持ちが、あいつの笛は本当に上手いから、このまま村にいたら勿体ないって言ったんだって」
「ふん、ばかばかしい。おれが鍛えてやったっていうのに」
「それと、森のことなんだけど…、例の金持ちが別荘を建てるらしい」
「ベッソウって何?」
「おいらもよく知らないけど、新しい家みたいなものなんだって。だから、あの森にはもうすぐお金持ちの家が建つんだ」
「なんてことだ。おれのお気に入りの森なのに」
 くつしたはため息をつきました。
 少年はいないし、お気に入りの森はなくなるし。寂しくないけれど、ちっとも寂しくないけれど…、くつしたはなんだか、いらだちに似た、変な気持ちになるのでした。

「君の弟子、コンクールで賞をとったんだって」
「いっぱいお金をもらったらしい」
「テレビに出てたぞ」
 少年がいなくなってから、ずいぶん時間が経ちました。お金持ちのベッソウはとっくに完成し、ときどきあの男の人やその家族、友だちが訪れます。くつしたがあの森に入ることはなくなりました。
 相変わらず情報通のトラチャンは、少年の様子をよく教えてくれました。でも、コンクールとかテレビとか、くつしたはよくわかりませんでした。
「ま、とにかく、弟子は順調ってことだな」
 くつしたはそれなら良いんだ、きっと幸せなんだ、と思うようにしていました。 
「すっかり有名になって、世界中を飛び回っているらしいよ」
「それって、すごいの?」
「うーん、食堂に来た女の人が『スバラシイ』って言ってたから、そうなんだと思うよ」
「そうかそうか」
 トラチャンは少年のことをたくさん教えてくれますが、少年が村に帰ってくることはありません。くつしたは、おれの弟子のくせにそれはちょっと失礼なんじゃないかな、と思いました。
 昔、少年は新しい曲を始めると、すぐにあの森で演奏し、音色をくつしたに聴かせてくれていたのです。もう、そんなことはすっかり忘れたんだろう、弟子のくせに師匠にお礼も言わないで、と、くつしたはがっかりしました。

 それからまた、ずいぶん時間が経ちました。くつしたもトラチャンも、すっかりおじいちゃんです。
 少年がいないことにも、森にベッソウが出来たことにも、くつしたはすっかり慣れました。
 そんなある日のこと。食堂の前でくつしたが昼寝をしていると、トラチャンが飛び出してきました。もっとも、トラチャンが飛び出したつもりになっているだけで、よたよた歩いてきただけなのですが。
「どうした、トラチャン」
「くつした、聞いたかい?」 
「何を?」
「弟子が…、君の弟子が、帰ってくるらしい」
 おれの弟子?とくつしたは考えて、ああ、と思い出しました。
「あいつか!」
「生まれ育った村で、感謝のコンサートをするんだってさ。来週に、公民館で」
「へぇ」 
「それで、どうもあいつが『どうしても演奏を聴かせたい友だちがいる』って言ってたらしく、同級生たちが自分だ自分だ、って騒いでるぞ」
「そうか。誰だろうなぁ」
 友だちよりも、お世話になった師匠に聴かせるべきだろう、と、くつしたはちらっと思いました。
 でも、少年がいなくなって寂しかったわけではないけれど、帰ってくると聞いて、ちょっとだけ嬉しく思ったのでした。

 そしてコンサートの日。公民館には、たくさんの人が集まりました。くつしたとトラチャンは、公民館の外に寝そべりました。本当は屋根の上で聴こうと思ったのですが、何せどちらもおじいちゃんなので、屋根に上がる力がないのです。
 間もなく、公民館から優しい音色が流れてきました。トラチャンはうっとり聴いています。
「あいつ、なかなか腕を上げたな」
 くつしたはつぶやきました。
 くつしたは目を閉じました。
 あの頃より、ずっとずっと上手になっていました。でも、少年のあの優しい音は残ったまま。くつしたは、毎日少年の奏でる笛を聴いていたあの日々を、懐かしく思いました。
 今日の演奏が終われば、またしばらく聴けなくなるのかなぁ。ちっとも寂しくはないけれど、少しだけ残念でした。

 くつしたはいつの間にか、眠っていたようです。公民館は静かでした。コンサートは終わったのでしょう。
「起きたかい、くつした。おいらはそろそろ帰るよ。君もうちに来るかい」
「いや、おれはもう少し寝ようかな」
 くつしたはあくびをして答えました。最近、眠る時間がずいぶんと長くなりました。
 そうか、じゃあね、と言ってよろよろ歩き出したトラチャンを見送り、くつしたはうつらうつらしました。
 まどろみのなかで、遠くに、少年の笛の音色が響きます。さっきのコンサートの記憶でしょうか。
 音色はだんだん近付いてきて、はっきり聴こえてきます。  
 くつしたは、はっと目を開けました。
 すると、音は止みました。
 なんだ、夢か、とくつしたが再び目を閉じたとき。
「くつした、ここにいたんだね」
 声がしました。
 あの頃よりも低くなっているけれど…、少年の声だと、大事な弟子の声だとくつしたはすぐにわかりました。
 目を開けると、笛を握りしめた少年が、もうすっかり大人になった少年が、しゃがみこんでいました。
「ずっと君を探してたんだ。どうしても、くつしたに演奏を聴いてほしくて。大事な友だちに、聴いてほしくて」
 そして、そっとくつしたを撫でました。
 おれは友だちじゃなくて師匠だぞ、とくつしたは不満に思いましたが、再び少年が演奏を始めると、そんなことはどうでもよくなりました。

 優しい音色。
 目を閉じて聴いていると、また眠くなってきました。
 眠っていても、音色はずっと響いています。

 なんだか、くつしたの体が軽くなってきました。さっきまで眠たくて仕方なかったのに、ぱっちり目が覚めました。
 少年はというと、その瞳に涙を浮かべながら、奏で続けています。
 くつしたは、しばらく不思議思っていましたが、やがて気付きました。
 これから、少年がどこに行っても演奏を聴くことが、そして、ずっと見守ることができるのだと。
 笛の音色に包まれて、くつしたは、ちっとも寂しくありませんでした。









 


※フィクションです。
 最後まで読んでくださり、ありがとうございます。




 

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