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短編小説:擬態していても、鱧は食べたい。

 コンビニでホットカフェラテを買った。ホットを選ぶ季節になった。
 赤いカップを片手にコンビニを出たところで、先に切符を買っておくべきだったと気付いたが仕方がない。幸い切符売り場は空いていたので、カフェラテを持ちつつもスムーズに別府までの特急券と乗車券を買うことができた。
 ホームに上がって、カフェラテをひとくち。ホームは陽が当たって思ったよりも暖かかった。それでも、ホットで正解だったと思う。
 中津駅から電車に乗るのは初めてだ。
 慣れない広いホームをきょろきょろしてしまう。駅名が書いた看板、「なかつ」の「つ」は細長い魚でデザインされている。そうか、はもか。
 ベンチに座りながら、せっかく中津に来たんだから、鱧でも食べてから帰れば良かった、と思った。少しでも観光してから帰れば良かったんだ。職場のよくわからない「研修会」のためにここまで来て、狭い会議室だけで過ごすのはもったいなかった。

 グレーのスーツを着て、研修会の資料が入った紺色のバッグを持って、黒髪をひとつにまとめて、それなりの腕時計をつけた私はいかにも「社会人」に擬態しているようだった。実際、社会人なのだが。
 でも、いまだに自分は幼い頃に思い描いたような大人にはなりきれていなくて、本当はいろいろと足りない人間なのに、一人前の社会人の「ふりをしている」ような気がしてしまう。今のところ大きなミスをしでかしたこともないし、それなりに仕事はふられているし、今日みたいな「キャリアアップのための研修」とやらに推薦してもらえたことから、擬態はうまくいっているようだ。しかし、誰かに褒められたり頼られたりするたびに「違うんです、そうじゃないんです」と言いたくなる。いつボロが出るのか、気が気でない。
 アナウンスが、もうすぐ大分行きの特急ソニックが到着することを知らせた。自由席は5号車から7号車。少し歩いて7号車が止まる場所まで行く。ここまで来たら仕方がない。鱧は諦めよう。
 もし、本多ちゃんも一緒だったら、鱧を食べて、一杯飲んで帰っていたのだろうか。

 同期の本多ちゃんは、誰よりも仕事ができる。私なんかより、ずっと。本多ちゃんはちゃんとした「社会人」だった。だから当然、今日の研修には本多ちゃんもいると思っていた。
「研修、断ったんよね」
 とある日のランチ、彼女はパスタをフォークに巻きながら言った。
「なんで?本多ちゃん、優秀やのに」
「そんなことないよ」
「あと少ししたら管理職になるんやない、って」
「なわけないやろ」
 本多ちゃんは苦笑いした。口に運びかけたパスタをゆっくり下ろし、私を見る。
「私な、この仕事辞めるつもりなんよ」
「え?」
「まだ誰にも言ってないんやけど…。辞めるんに研修とか行くのもおかしいやろ」
「なんで辞めるん?みんな本多ちゃんのこと頼りにしちょんので」
「前に、私がデザインの仕事したかった、っち言ったの覚えちょん?」
 ずいぶん前のことだ。私たちが社会人になってすぐの頃、出会ってすぐの頃。本多ちゃんは東京の大学でデザインを学んでいたが、地元に戻って来いという家族や親戚の圧に抗えずこちらに帰ってきて、結局デザインとは関係ない今の仕事をしている、という話をした気がする。
「大学のときにお世話になった先輩が、起業したらしくて。一緒にやらん?っち声かけてもらったんよ」
「それって、大丈夫なん?」
「正直、わからん。うまくいくかどうかも。でもやってみたいんよ」
「どこでするん?」
「東京」
「東京!?ご両親は?反対してないん?」
「まだ話してない。でも反対されても関係ないよ。私の人生やんか」
 真っ直ぐにそう言った本多ちゃんは、いつもの柔らかな本多ちゃんではなかった。そして、もう決意してるんだろうな、と思った。本多ちゃんは気の合う同期だと思っていたけれど、私には到底理解できない思考の持ち主なのだと気付いた。

 どうして危ない橋を渡るんだろう。
 夢とか希望とか。素敵だとは思うけど。
 やって来た青いソニックに乗り込むと、想像以上に空いていた。窓辺にカフェラテを置き、スマホを開くと、母からメッセージが届いていた。
『研修お疲れさま。無事に終わったかな。次はいつ帰ってくる?』
 次、って。先週帰ったばかりなのにな。
 実家は、今私が住んでいるところから車で30分もかからない場所にある。愛されていると思う。母は私が顔を出すたびに喜んだ。
「この前も、友だちに羨ましいっち言われたんよ」
 母はたいてい、嬉しそうにこの話をする。
「娘さん、近くに住んでて良いね、よく帰ってきて親孝行ね、って」
「親孝行なんて。何もしてないよ」
「近くに住んでて、ちょくちょく帰って来てくれるだけでじゅうぶんなんよ」
 じゃあ、遠くに住んでて、めったに帰らなかったら私はどう思われるんだろう。気になったこともあったけれど、現実にならないであろう「もしも」を悩むのは無駄なことだ。
『来週帰っちゃおうかなー』
 と返信する。来週は部屋の掃除したかったんだけど、仕方ない。親孝行な「娘」でいれば良い。
 近くにいて、たまに帰る。それだけで荒波が立たないなら、問題なく過ごせるなら、それ以上は望まないこと。

 今の仕事だって。本多ちゃんには不満だったかもしれないけど。
 決まった日に決まったお給料が振り込まれて、休みもあって、今日みたいな座ってるだけの研修でも休日出勤扱いしてくれて、交通費も出て。刺激はないけど危険もない。これからも平坦に、細々と続けていけるだろう。
 これ以上、何を望めば良いんだろう。
 本多ちゃんだけじゃない。ときどき同期で集まれば、みんな口を揃えて
「この仕事を続けてても…」
 と嘆いて、ため息をつくのだ。
「もっとクリエイティブな…」
「未来も活躍できるような…」
「生き残れるような人材に…」
 だから私も、真似をしてため息をつく。
「でも、今の日本だと…」
「相変わらず男女は不平等だし…」
「生き辛いなぁ…」
 だから私は、擬態する。
 向上心を持ちつつも、日本の現状を悲観し、生き辛さを抱える若者に。
 現状に満足していることも、それなりに幸せなことも、気付かれないように。

 ソニックが大きく揺れる。窓辺のカフェラテを慌てて支えた。すっかり冷めている。ソニックはいつの間にか中津を去って、宇佐駅に停車した。
 やっぱり鱧、食べればよかった。
 この期に及んでまだそう考えている。
『お疲れ!研修どうだった?』
 本多ちゃんから、メッセージが届いた。これは、どっちが正解なのだろう。
『すごく勉強になった!』なのか、
『あんまり意味なかったわ』なのか。
 模範解答がわからない。
『無事に終わったよ。でも鱧食べ損ねた😢』
 これでいいや。ちょっと変だけど、部分点くらい貰えるでしょう。
 すっかり冷めたカフェラテを飲み干した。窓の外には、稲刈りを済ませた田んぼが広がっている。ソニックを降りたら、きっと別府は寒い。季節が変わっていく。
『鱧って笑 じゃあ今度食べにいこ』
 本多ちゃんからの返信。良かった、間違えてなかったみたい。
 ソニックの揺れに身を任せて目を閉じる。
 明日からまた一週間が始まる。きちんと過ごせるかな。きちんと「社会人」に、「若者」に、「娘」に、なりきれるかな。
 いろいろ考えるのは面倒だ。
 とりあえず間違いないのは、鱧が食べたいってこと。別府に着くまでは、鱧のことだけ考えていよう。








 


※フィクションです。
 画像は中津駅。
 中津市は福沢諭吉ゆかりの地でもあります。出身も中津市かと思っていましたが、大阪らしいですね。





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