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毒家庭に育ち、すべてを諦めた私のはなし③

つづき


離婚の事実を話さない母への嫌悪感やらなんやらで、中学生のとき、プチ反抗期となった。

母も祖父も、過干渉・過保護で私は顔色を伺って生活していた。
ただ、そのストレス?で中学生のときは調子に乗りすぎてしまい、内申点はズタボロだった…
ちゃんとしてたらよかったな…と今になって後悔。

とにかく、母・祖父の顔色を伺っていて【怒らせない】ことがとても大切だった。
期限を損ねさせると無視されるからだ。
怒られたり、注意を受けたり、話し合いをもてるならまだマシだ。
うちは違う。
無視されるのです。

子どもながらに、母親から無視されるというのはとても悲しく、すごくすごく傷ついた。
父親のことをハッキリ聞きたくても、口に出すとどうなるか分からない…
怖かった。
怒らせて無視されるのがとても怖かった。

しかし、たまり溜まって中学生のときは、学校を抜けたり行かなかったりしたので、火に油を注ぐこととなってしまった…

中学を卒業した日、母に言われた言葉を決して忘れない。

【この3年間、私のストレスはあんただった】 

忘れない。

無事に高校に入れて、そこで大切な仲間に出逢えて、学校が楽しくて仕方なかった。
高校はずっと行っていた。

私が高校に入った頃から、母はパートに出た。
それまでは基本的に家にいたから、生活の部分はどうやってたのか謎であります。。
祖父のサポートもあったのだと思う。
生活の面ではとても感謝しています。
特に貧乏だ…と感じず過ごさせてもらえて感謝。

ただ、私が私立高校へ行ってしまったため仕事を始めたのかな…と少し責任を感じた。
そして、その頃から少しずつ家の食事を作るようになった。
それまで、たまにご飯のお手伝い程度しかしてなかったので、インスタントを使ったり、レシピ本をみながら試行錯誤しながら作った。
少しずつ、洗濯・掃除など手伝うようになる。
食事を作るために、放課後の誘いを断り早く帰ったこともあった。

恐らく、母が聞くと「お願いなんてしていない」と不満に思うだろうな。
でもね、私から見ると
もう明らかに周りとは少しずつ生活が違ったんだよ。
逆らうと無視され、門限は17時だったかな。
仕事のストレスをぶつけられても黙っていた。
毎日あなたの顔色を伺っていました。

祖父は、定年退職してからずっと家にいた。
一度、私が学校から帰って少し寝てしまっていたときに起こされて「晩ごはん作らんのか」と言われたことがある。
作ることが当たり前になっていることに腹が立ち、そんな食べたいなら自分でつくって!と言ってしまった私に対して、激高し「なんならその言い方は!」と叱られた。
炊事は女の仕事だと言われた。

私は孫であり、嫁でも家政婦でもないのだけど。。

そんな私も、高校を卒業して短大に行かせてもらった。
とてもとても感謝している。
なので、家のことをできることは手伝った。
すぐ就職でなく、進学させてもらえたことはとてもありがたかった。

そして2年後、地元企業に就職した。

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